2019年07月18日

パピヨン/PAPILLON

 オリジナルのスティーヴ・マックイーン主演の1973年版は未見。 昔はテレビの洋画劇場でよく放送していたらしいので、タイミングが悪かったらしい。 あたしより少し年齢が上の人たちにとっては常識らしいんだけど。
 が、おかげで先入観はない。 この映画、あの『プリズナーズ』と脚本が同じ人だということが気になって。 あと、ラミ・マレックが『ボラプ』の前に出演しているということで。 というか、『ボラプ』のヒットがあったからこの映画の日本公開が決まったのではないか、という疑惑すら感じる(2017年制作)。 でもポスターの文字は多分73年版映画と同じものだよね・・・オールドファン狙いならもっと早くに公開してもよかったのでは。 まぁ、洋画は日本公開が2・3年遅れることは最近ザラになってきてますけど・・・。

  パピヨン映画P.jpg 自由をつかめ!
   実話を基に壮大なスケールで描く冒険活劇!!

 1930年代のフランス、パリ。 金庫破りのアンリ(チャーリー・ハナム)は胸にチョウの入れ墨を入れているので「パピヨン」と呼ばれている。 が、組織にとって邪魔と感じられたのか、殺人の罪をきせられたパピヨンは終身刑を言い渡され、<緑の地獄>と呼ばれた仏領南米ギアナの監獄に送られる。 そこで待っていたのは強制労働と厳しい監視。 パピヨンは最初から脱獄を考え、カネを持っていると噂されている偽札造りの名人ドガ(ラミ・マレック)の用心棒をする代わりに資金調達を依頼する・・・という話。
 冒頭のシーンで、「あ、この脚本家は<囚われたものと囚われるもの>の関係性や意味にこだわりがある人なのかも、と思う。 『プリズナーズ』にもそういうシーンがあったから(そもそもタイトルからそうですが・・・)。

  パピヨン映画1.jpg パピヨンとドガの関係が深まっていくところが素敵!
 仏領ギアナの開発のための労働力として囚人が送り込まれる、というのがすごい。 「フランスはお前たちを放棄した」(国民としての権利もなければ人権もない)というのが・・・時代とはいえ・・・今だったらあり得ないなぁ、と。 でも現在でもネット上ではひどい犯罪者に対して「福島第一原発へ送れ」みたいなことが書き込まれたりしているが、同じような発想なのかなぁ、と思ったり(あたしは「原発の作業って誰にでもできるものではないし、むしろ信頼性が必要だから人としてダメな人には行ってほしくないけど」って思う)。 大変な作業=苦役、という発想から逃れられない人がいるのであろう。
 犯罪者や犯罪者とされた人を労働力として消費する、というのが政策に利用されていたってことですね。 観ているうちに、看守として働いている人たちもほんとはこんなところに来たくなかったのではないか、と思えてきて、誰一人として幸福ではなかったんだな、と。 一体何のためにやっていたのだろう、本国を豊かにするためなのだろうか。

  パピヨン映画2.jpg すすけた色合いがよい。
 原作のアンリ・シャリエールの手記には事実誤認がある、みたいな話もあるらしいのだが、「いや、こんな生活(?)を送っていたのなら、記憶の混濁や誤解があったとしても無理はない」と納得できる壮絶さ。 様々な方向から生命の危機を感じる日々、死を目前にまで見た瞬間、それでもあきらめない決して希望を失わない強さはなんなんですかね。 自分は殺人犯ではないという思いなのか。
 チャーリー・ハナムがこんなにできる人とは! いい身体なのもそうですが、台詞ではない表現力、役者としてのポテンシャルを見せてもらった感じ。 今後も注目していきたい。

  パピヨン映画3.jpg ラミくんもよかった。
 長い話を短くまとめた強引な省略を感じましたが、それが逆に効果的に働いた場面も。 ドガが数年一人でこの世界を生き残ってきたたくましさを、ひびの入った眼鏡のレンズと頬の傷跡と日焼けで一瞬で理解させたところは、ドガの佇まいの力強さも相まって魅力的。 むしろドガ、すごくない?!、と思えるシーンも多々(むしろ前半は彼の目力を抑えるために眼鏡をかけさせていたのかなと感じるほど)。 ラミくん、『ボラプ』のイメージが定着することを危惧していましたが、フレディ役の前にこれをやっていたというのが彼の実力だよ!、とうれしくなる。 このあと『007』の悪役が待機しているようですが、フレディ役のイメージにとらわれることなくキャリアを築いてほしい。 一気に売れちゃうと見ているほうがドキドキするよ・・・。

  パピヨン映画4.jpg 海の色もまた鮮烈で。
 コピーには「冒険活劇!」とあるけど、結構リアルタッチで、劇的に描きすぎないようにしている気がする。 もしかしたら前作を観ている人にはそこが物足りないのかもしれないけれど、あたしには十分衝撃的でした。 パピヨンがドガをファーストネームの「ルイ」と初めて呼ぶ場面は感動したよ・・・友情を越えた同志愛、胸打たれました。
 エンドロールで写真が使われているのだが、あれは当時のギアナを写したものなのだろうか? 映画に同じカットがあったんですけど、というものがいくつもあり・・・映像を古く加工したのか、当時の写真を使っているのなら映画での時代の再現度がすごすぎる!
 こんなに手間をかけた映画でもそう簡単に日本では公開されないという・・・洋画不況を実感。

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2019年07月07日

ハッピー・デス・デイ/HAPPY DEATH DAY

 例によって2年くらい前に『ハリウッド・エクスプレス』で大ヒットと紹介されてて・・・でも日本公開のめどが立ってないなぁ、と思っていた。 そしたら続編が本国で公開となり、1・2作続けて日本公開が決定。 なるほど、こういう売り方もあるのね(一作目のヒットの途中で続編制作が決まったと言っていたなぁ)。

  ハッピー・デス・デイP.jpg 誕生日に殺されるなんて―― え? しかも何度も?! プレゼントは永遠に繰り返す<殺される誕生日>

 大学生のトゥリー(ジェシカ・ローズ)は、どこから見ても立派なビッチ。 誕生日の朝も見知らぬ場所で目が覚める。 大学寮のカーター(イズラエル・ブルサード)が前夜酔っぱらったトゥリーを介抱してくれていたのだが、彼女は何も覚えていない。 自分の部屋に帰り、講義に遅刻すると慌てて出ていく。 既婚者である教師と付き合い、忠告してくれる友人にも「余計なお世話」と言い放つ彼女は、夜になりパーティーに向かう途中で、ベビーマスクをかぶった謎の人物に襲われ、刺される。 次に気が付いた瞬間、カーターの部屋で目覚めていた・・・死ぬたびに朝に戻るタイムループにはまり込んでしまったトゥリーの運命は!、という話。
 <ベビーマスク>という、新たな殺人鬼、登場。

  ハッピー・デス・デイ1.jpg 絶叫!
 とにかくトゥリーのビッチぶりが強烈。 誰かに殺されるとしたらと考えたとき、「心当たりがありすぎる」なところは爆笑。 自覚あるんだ、でも直す気ないんだ。
 しかもアイメイクが濃い!、ので、寝起きの彼女はかなりヤバめの顔・・・老けて見えますけど!、と別の意味でドキドキする(俳優さんの実年齢が結構いっているようなので、それをごまかす意味もあり?)。 そんな感じでもモテモテなのか、「誰とでも寝る女」と見られているからモテモテなのか、若い男の好みはわからん・・・と昔からわからなかったことを改めて感じる。
 しかしトゥリーがビッチなのには理由がある、ということがじわじわとわかってくる感じは彼女への同情や感情移入をさせる意味でも重要だけど、それをしてしまうのも安易かなと思わないでもなく。 いや、青春ホラーとしてはそうあるべきではあるんだけどさ。

  ハッピー・デス・デイ2.jpg 誠実なカーターの存在に、トゥリーの心は癒される。
 スラッシャーホラーではあるが、「どうせ死んでも生き返るというか、時間が戻るんですよね」と観客だけでなく本人もそう思っているから悲壮感があまりなく、コメディの比重が高いくせに最後までハラハラドキドキさせる流れ、素晴らしい。 ワンアイディアで突っ走るだけじゃなくて、細部まで工夫を凝らしてある。 それでこそホラー、若い俳優さんたちが活躍する映画って感じ。
 「犯人が誰か」はあぁ、やっぱりね、ではあったけど、そこに至るまでの「えっ、そう来る?!」という振れ幅が広くて楽しかった。
 タイムループする理由は解明されてないけど、「もしかしてこういうことかな」とぼやっと想像することはできる(科学的根拠はないので、あくまであたしの気持ちであるが)。
 エンドロール終了後、続編『ハッピー・デス・デイ2U』の予告が流れ・・・一気に客席から「えっ、続きあるの?」という空気に。
 でも映画前の予告編上映に入れなかったのは映画館側の良心だな、と思いました(先にやったらネタバレだよね)。
 そうされると続編も観たくなりますよね、抱き合わせ商法としても完璧です。 多分、観に行きますわ。

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2019年07月04日

僕たちは自由という名の列車に乗った/DAS SCHWEIGENDE KLASSENZIMMER

 予告を観て気になっていて・・・でも上映時間のタイミングがなかなか合わず。 最終週が朝10時からの一回のみとなり、「あ、もう無理だ」と思ったけど、「午前休みにすればなんとかなるのでは?!」と日程調整した結果、最終日に滑り込み。 普段自分が行くのと違う時間帯のため、客層の違いにびっくり。 意外と人数も多かったし。 この時間のほうがお客が入るのだから、なかなかレイトショーには回してもらえないのかもしれない・・・(『ハウス・ジャック・ビルト』はがっちり夜の時間帯でした)。

  僕たちは希望という名の列車に乗ったP.jpg なぜ、越えなければならなかったのか――

 1956年、東ドイツの工業都市スターリンシュタット。 クルト・ヴェヒター(トム・グラメンツ)は親友のテオ・レムケ(レオナルド・シャイヒャー)とともに、祖父の墓参りのために西ベルリン行きの列車に乗る。 帰りの電車までの時間、西側の雰囲気を楽しむ二人は映画館でハンガリーで起こった蜂起と武装衝突についてのニュース映像を見て衝撃を受ける。 スターリンシュタットに戻ってから地元の新聞を見ると、すぐに鎮圧されたと小さな記事にしかなっていなかったことにも驚く。 翌日、学校のクラスでこのことを話し、「犠牲になったハンガリー市民に哀悼を捧げよう」と2分間の目標を提案する。 エリック・バビンスキー(ヨナス・ダスラー)は「なんでそんなこと」と反対するが、多数決により可決されてしまう。 2分間、黙っているだけだった。 しかしそれを問題視した教師により事態はおおごとになり、<社会主義国家への反逆>だとみなされてしまうことに・・・という話。
 あぁ、体制や組織を守ろうとする、その中で自分の地位や力を最も重要と考える大人って、なんて汚いんだろう!、としみじみ思った。 いや、あたしも大人なんだけど、そんな大人にはならないでいよう!、と固く心に誓うのですよ。 それくらい、高校生たちがかわいそうで。 なんでそんなことにならないといけないのか、と。

  僕たちは希望という名の列車に乗った4.jpg 素朴な青春を送っていたのに。
 いや、彼らもちょっとおバカなところはあったけど、それが若さというものでしょう。 黙祷だってものすごい主義主張があったわけではなく、ノリと勢いと、「ちょっと先生を困らせてやれ」ぐらいの遊び半分ですよ。 そりゃ不真面目かもしれませんよ、だからってそこまで追い込まれるほどのことをしたか? いや、してないでしょ。 事を大きくして利用しようとした醜い大人たちのせいですよ。
 彼らは社会主義・共産主義の申し子としてエリート教育の入口に立つ若者たち。 親の職業はそれぞれ、知識階級も労働者階級もいて、高い教育レベルにいながらライフル狙撃の授業もある! その銃はいざというとき誰に向けられるものなのか考えたことはあるのか? 教える側は何を想定しているのか? 教育の怖さも感じつつ、だからこそ彼らはよく学びよく考え、行動に移せる人材なのに。

  僕たちは希望という名の列車に乗った2.jpg 仲間は大切だとも学んだはずなのに、「首謀者を告発すれば他の者の罪は問わない」と密告を強要される。
 そんなやり方を責めれば「ゲシュタポだと!」と激昂する大人もいますが、「いや、やってることはゲシュタポと一緒、もしくはそれ以上ですよ」と言いたくて仕方がない。 やりかたがひどい、ほんとにえげつない。 言葉尻をとらえて追い込む怖さに、彼らも正直に言おうとしていてもどう取られるかわからないと言動が不自然になり、余計に追い込まれるという悪循環。 やるせなかった。 学務局の役人も大臣も、高校の校長以外の教師たちもひどい大人ばっかり。 こんなやつらがえらそうな顔をする社会主義・共産主義には将来はないぞ、民主主義が勝利したわけではなくて彼らが自滅しただけでは。
 あぁ、この時代にあたしが生きていたら・・・口の禍いできっと死んでると思う。
 多数決の意味を、現代のあたしたちはしっかりわかっているのだろうか。
 高校生たちは「本人役ですか!」というくらいのリアリズムあり。 対して、大人たちは“どこかで絶対観たことがある、キャリアのしっかりした実力派俳優”を揃えているのが素晴らしい。

  僕たちは希望という名の列車に乗った1.jpg テオとお父さんの感じもよかった。
 親世代にはナチス時代はそんなに遠いものではなかったのね〜。 しかもこの時代の30年後が『善き人のためのソナタ』なのだと思うと、これがターニングポイントな出来事だったのではと感じる。 ベルリンの壁ができるのもこの後だし。
 いやいや、新聞やラジオをそのまま信じるな・・・と思うけど、当時の彼らには「ニュースソースを疑え」という発想はない。 実話だし、個人の名誉の問題があるせいか、クラスメイト全員の問題なのに中心に描かれる5人の比重が高すぎたのがちょっと残念(他の人のことも知りたかった)。 でもそうすると話としてとり散らかってしまうかな・・・その後のことが原作本には書かれているようなので、読んでみようと思う(図書館に予約を入れて待機中)。
 高校生たち若者重視で描かれていて、親世代については間接的にだんだんわかっていく、という構成もよかった。 18歳のあぶなっかしさに終始ドキドキさせられたけど、彼らは決して非難されていないのでその決断を応援したくなる。 むしろ、大人であってもこういうまっすぐさ、持つべきではないのかと。 最後の方、ちょっと泣いてしまった。
 そういう時代の話ではあるけれど、いまにも通じてしまうところが悲しい。 実話ベースの歴史もの、有名な人物もいなくて説明は最小限、2時間に満たない上映時間にドイツ映画らしい生真面目さと彼らの青春がぎっしりつまった映画。
 あぁ、今年のベストテンに入るかも。

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2019年07月03日

ハウス・ジャック・ビルト/THE HOUSE THAT JACK BUILT

 ラース・フォン・トリアーの映画を観ると気分的に不愉快になるのはわかっているのに、何故それをわざわざ確認したくなるのだろう? なんだかんだ言ってあの画ヂカラはすごいと思っているからだろうか。 題材がシリアルキラーというのもはまりすぎ。

  ハウス・ジャック・ビルトP.jpg ゾッとするほど、魅力的

 これは連続殺人犯ジャックの12年間を振り返る告白。
 ジャック(マット・ディロン)は順不同で、自分にとって印象深い5つの出来事をヴァージ(ブルーノ・ガンツ)に語る。
 たとえばジャックが赤いワゴン車で雪の季節に林の中の道を通ったとき、立ち往生している女性(ユマ・サーマン)に助けを求められる。 車が故障したらしい。 ジャックは彼女に押し切られて修理工場まで送ることにするが、彼女の失礼すぎる言動に腹を立て・・・。

  ハウス・ジャック・ビルト3.jpg ユマ・サーマン、強烈な役。
 5つの出来事+エピローグという構成が見やすいけど、これって上映時間が長いパターンだわ(152分でした)。 トリアー映画では出演者はみんなひどい目に遭うのがお約束(?)だけど、これもひどい目に遭っている。
 「カンヌ映画祭で退席者続出の問題作、日本では無修正ノーカット版を公開!」とのことですが・・・トリアー作品が問題になるのはキリスト教圏だからで、宗教的タブー感の薄い日本では問題にならないというだけのことでは。 R+18だし血みどろも残虐な場面も多々ありますが、作り物だなぁとわかるからそこまでではないなぁと思っちゃうけど、ただあたしの感覚がマヒしているだけかもしれない。 唯一ヤバいと思ったのは、少年時代のジャックの回想でアヒルの足を片方切っちゃうところ(エンドロールで「動物に傷をつけていません」的な注意書きが大きめに出るのもギャグなのか皮肉なのか)。
 やはり、人を不愉快にさせる映像が満載なのは間違いない。

  ハウス・ジャック・ビルト2.jpg マット・ディロン、この役をよく引き受けましたね。
 ほぼ出ずっぱりの彼はすごい好演で、賞にノミネートされてもいいのに。
 ほんとにイヤなヤツで、1ミリも同情できない(むしろ地獄に落ちてほしい)存在を観客に「見たくない」と思わせないで最後まで引っ張るってすごいと思う。 場面ごとに顔が変わって見えるのもなんだか面白かった。 あるときはジム・キャリー、あるときはイーサン・ホーク、みたいな。 今まで似ていると思ったことはなかったけど、役作りの結果?
 非常に不愉快で残酷な話がずっと続くのに、シュールでちょっと笑っちゃうような描写もあり・・・「鎌で草を刈るシーン、『白いリボン』にも出てきたけど深い意味があるのか?」などヨーロッパの価値観について考えたりもできる。
 ジャックは強迫神経症で、人を殺せば殺すほど(後片付けを含めて経験値が上がるほど)症状が落ち着いてくるというのは・・・さすがに「現実のシリアルキラーではない」と思った。 ジャックの衝動は、映画を作り続けるトリアー自身が重ねられたものなのだろう。

  ハウス・ジャック・ビルト4.jpg ブルーノ・ガンツが登場するのはほぼエピローグ。 冒頭から声だけはずっと登場しているのだが。
 果てはダンテの『神曲』、地獄めぐりとてんこもり。
 トリアー映画では撮影中にいちばんひどい目に遭うのはヒロイン演じる女優さんというイメージだが、実はベテラン男優さんもひどい目に遭うほうがあたしは気になっていた。 そしたらブルーノ・ガンツもとんでもない目に遭わされており、「あぁ、彼にそんなことさせるなんて!」と何度か現実に戻ってしまった。 「役者はそれが仕事なんで」と言われてしまったらそれまでなんですが、だとしてもこんな過酷な撮影に付き合わせる必要ある? 相手はご高齢、結果的に去年亡くなっている方なんですよ! ハラハラしましたわ。
 <ジャックが建てた家>とは? 拍子抜けするほど予想通りでしたが・・・「なにを・どこで・どうやって」を逡巡する過程が必要だったのですよね、わかります。
 賛否両論というか、途中で席を立つ人の気持ちもわかります。 でもあたしは最後まで観てしまった(ブルーノ・ガンツが出てきたから余計に)。
 そしたら、最後まで観たご褒美ですか? エンディングに流れた『旅立てジャック』には大笑いしそうになった。
 ・・・あぁ、なんて壮大な悪ふざけ。
 というか、監督の悪ふざけにあたしもつきあってしまったよ、な感覚。

  ハウス・ジャック・ビルトP2.jpg 前売券特典のポストカード。
 こんなものをもらってどうしろと・・・だからあたしはいつも通りに(前売券を買わずに)メンバーズ特典で観ましたよ。 初日の入場特典は、縛られて転がっている(?)トリアー監督のポストカードだったらしい・・・やっぱ、悪ふざけじゃん。

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2019年06月27日

スノー・ロワイヤル/COLD PURSUIT

 リーアム・ニーソン兄貴、またしても雪の中で大暴れ、な予告に胸が躍る。 もはやあたしは兄貴のファンということでいいのではないだろうか。 それにもうかなり暑いし、あたしは雪の世界を求めている。

  スノーロワイヤルP.jpg 模範市民賞受賞直後にキレる。
  壮絶な、全くかみ合わない戦いが始まる。

 コロラド州デンバーがいちばん近い都市である、小さな町キーホー。 実直に日々働き、模範市民賞を受賞してしまうほどの生真面目人間ネルズ・コックスマン(リーアム・ニーソン)の仕事は除雪作業員。 雪深い町では適切な除雪が生命線となる。
 ある日、一人息子が麻薬の過剰摂取だとデンバーで遺体で発見される。 息子は麻薬をやらない、と訴えるネルズだが、「親はみんなそう言う」と警察は取り合ってくれなかった。 何故息子は死んだのかネルズは真実を追うが、実はデンバーの麻薬王バイキング(トム・ベイトマン)の組織が人違いで殺されたのだとわかる。 一方、バイキングは自分の手下が一人また一人と行方不明になっていると知り、キーホーを縄張りにしている別の組織の仕業だと考えて報復を図り、血で血を洗う展開に。 それを見てこの平和な街に抗争が!、と盛り上がるキム・ダッシュ巡査(エイミー・ロッサム)がいた・・・という話。

  スノーロワイヤル3.jpg 前半、シュールな絵面が続く。
 ネルズ・コックスマンが、真面目で実直で融通の利かない人であるというのがなんともいえず悲しくもおかしい。 これまでのリーアム・ニーソンと違って、「実は特殊部隊出身、または元CIA」などのキャリアもなく、ほんとに普通の人、普通のおっさんになっているのが面白い。 だから気の利いたことも言えないし、人を殴るときはただただ力任せで自分の手もケガしちゃうくらい直情的な不器用さが素敵。
 前半はすごくシュール、それが後半ぐんぐんオフビートへと移行する流れが自然で、だんだんとくすくす・げらげら笑えてくる楽しさ。 人はどんどん死んでいくんですけどね、でもただブラックジョークっていう感じでもない。

  スノーロワイヤル2.jpg 雪の描かれ方も本物!
 除雪車の迫力も前半は『激突!』の謎のトラックぐらいの勢いがあるのに、そこは押さない。 あたしも観ていて気付いたが、除雪車が身近にあればあるほど危険なものだと知っていても危機感を持たないものだなと(正しい扱い方を知っていれば大丈夫、という)。
 カナダ国境ぐらいの設定かな?(もともとオリジナル映画は北欧)、大自然のありえなさ具合が素晴らしい。 自然を味方につければ死体の始末も比較的可能ではと思えてしまう偉大さですよ。 ネルズの大雑把さも、雪や寒さをよく知っていればこそ。 性格的な陰鬱さも、突き抜けたぶっ飛び具合も、雪国ならではと納得できる流れ。

  スノーロワイヤル4.jpg バイキングのキレ気味のバカ具合がまた不愉快ギリギリのラインで楽しい。
 出てくる人がヘンな人ばかりなのもこの映画が成立する要因かも。 まともな人が誰一人いないので、この人たちがどうなろうとも全く気にならない、というぐらい。 生も死も紙一重ですよという。 そう、雪と寒さは命をたやすく奪うから。 自然の厳しさを前にしたら、人間の目論見などたかが知れている、ということかもしれないなぁ。

  スノーロワイヤル1.jpg また、兄貴は出ずっぱりでもなく、群像劇として描かれているのも楽しい。
 だから一人の視点で感情移入することなく、ドライに受け止められるのかもしれない。 超絶アクションばかりではなく、こういうシュールなコント的映画も選ぶリーアム・ニーソンのセンスはさすが!
 オリジナルは『ファイティング・ダディ 怒りの除雪車』というノルウェー映画(すごい邦題だ)で、除雪作業員役はステラン・スカルスガルドだそうな。 観たい! 今回は同じハンス・ペテル・モランド監督によるハリウッドリメイクとのこと、ネイティブ・アメリカンの麻薬組織など『ウィンド・リバー』にも通じる要素を感じさせつつあえて社会派にしていないところがいい。 音楽の使い方やカニエ・ウェストをネタにしたりと非アメリカ人にもわかる皮肉が親切だった。
 あたしは好きだけど・・・あんまりヒットしなさそうな感じなのが寂しい。 男性一人客が多かったですが、エンドロール途中で帰る人が目立った。 期待外れだったのだろうか? 兄貴はハードアクションだけじゃないので、そっちばかり期待しちゃうと逆にワンパターンになると思うんだけどなぁ。

  スノーロワイヤル スタンドポップ.JPG 映画館の隅に置かれたでっかいPOPがせつない。
 雪に降り込められた経験のない人たちには実感としてつかみにくいのかな〜。 北海道や北東北、日本海側を重点的に宣伝したらよかったのかな。

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2019年06月14日

ゴジラ キング・オブ・モンスターズ/GODZILLA:KING OF THE MONSTERS

 ハリウッドのゴジラは首が短いんだよな・・・と思いつつ、キングギドラにラドンも登場するといわれると、つい観たくなっちゃいますよね。 でもポスタービジュアルのモスラがちょっとコワすぎるんですけど、と感じつつ。

  ゴジラ キングオブモンスターズP.jpg 王の覚醒

 あの戦いから5年後、世界は怪獣の殲滅か共存かを模索している。 未確認生物特務機関<モナーク>が世界各地に散らばる「目覚めそうな怪獣たち」をひそかに観察しているのだが、ある日テロ組織が急襲、怪獣とコンタクトするための装置と開発者のエマ・ラッセル博士(ヴェラ・ファーミガ)と娘のマディソン(ミリー・ボビー・ブラウン)が誘拐される。
 そんな中、モスラ、ラドン、ギドラが目覚め、ゴジラがやってくる・・・という話。

  ゴジラ キングオブモンスターズP2.jpg 主要怪獣揃い踏み。
 結果として、キングギドラが美しくて、しびれた! 映画の中では「ギドラ」と呼ばれてますけど、あたしはキングギドラと呼ぶよ! 三つの頭がそれぞれ会話するところなんかかわいいし! 横顔は水墨画に出てくる龍のようでビジュアル的にも違和感なし。

  ゴジラ キングオブモンスターズP4.jpg ラドン、顔がほぼカラス。 モスラは胴体がハチみたい・・・。
 ラドンの扱いはトータルではひどいけど、途中の海上でのバトルはすごい見せ場だし、モスラのけなげ度合いは胸に刺さる(鱗粉が毒になる描写はなかったかな・・・)。 怪獣たちのシルエットがとにかく美しいのです。
 なによりも、アレンジが施されつつもオリジナルのゴジラとモスラのテーマ曲が使われている!、というところがもう直球です。
 クイーンの曲もそうだけど、自分の内部に気づかぬうちに蓄積されていたものを不意に目の前に示されると、感情が引き上げられてしまうのでしょうか。 それが音楽の効果なのかもしれないけれど・・・音楽ってすごいと改めて感じる。 エンドロール途中では「これ、オリジナルスコアじゃないの?」と伊福部昭サウンドが。 一瞬、『シンゴジラ』のラストが浮かんじゃいましたよ。

  ゴジラ キングオブモンスターズ2.jpg 思いのほか渡辺謙の出番多し!
 サリー・ホーキンス、何故・・・『シェイプ・オブ・ウォーター』からの怪獣つながり?
 話の筋はあってないようなもので、怪獣たちが集まるまでの繋ぎになればいい的な昔ながらのゴジラっぽさがあり、苦笑してしまうところだ(でもキャストは見覚えのある人たち多くて、荒唐無稽な話こそ実力派を揃えないとダメという基本に忠実)。 「人間には生き残る価値はあるのか(食物連鎖の頂点にいていいのか)」という問いかけも、シリーズ通して常にあるテーマだし。
 だが、こんなにも怪獣を神聖化した作品は今までにあっただろうか。
 既存の宗教はすべて人が作ったもので、怪獣こそがまさに神なのだ、という表現、思わず「大丈夫ですか!」と心配になるほど。 多神教派の日本人としては違和感ないんだけど、絶対唯一神を信仰する人たちにはすごい非難されそうでドキドキした(特にキリスト教)、考えすぎかしら。 芹沢博士(渡辺謙)も前作では添え物的扱いだったけど、その伏線を回収するかのように大活躍。 「あぁ、だから博士はゴジラを愛し信ずるのか」と納得のいく展開なれど、前作を観ていなければわからないよ・・・。
 オキシジェン・デストロイヤーも出てくるけど名前だけ。 モスラは中国由来なの?!(東南アジアの小島じゃないの?)、などツッコミどころはあるのだが、怪獣たちへのリスペクトを持った人たちがつくったんだと感じるので、まぁそれはそれでいいか、と。
 音楽に騙されている感がなきにしもあらずだが・・・。

  ゴジラ キングオブモンスターズ1.jpg 青・緑・黄が入り乱れる。
 主役は怪獣たちですよ、の思い切りが気持ちいい。 人間ドラマを求めるのはばかばかしい。 怪獣が暴れている最中に足元付近に人間がいるのはおかしいとか気になりますけど、お約束なのかなぁ。 こんなにいるならもっと怪獣たちを見せてほしい! ゴジラの顔があまり好きではないんだけど、生物としての動きの自然さは追及されているような気がする(ただ、そういう自然さをあたしが求めているわけではない)。
 とはいえ、日本独自のものだった怪獣文化が、こんなにも世界に広がっていると実感する日が来るとは。
 熱いリスペクトに、こちらの胸も熱くなりました。

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2019年06月07日

アメリカン・アニマルズ/AMERICAN ANIMALS

 詐欺とか盗難とか、実はあまり好きじゃない。 華麗な盗みの手口はすごいよね、とは思うけど、だまされた・盗まれた側のことを思うと心から楽しめないというか(怪人二十面相は明智小五郎という好敵手がいるから、うまくやってもやり返されて痛い目に遭っているので楽しめる)。 なのでこの映画も予告編では『オーシャンズ』シリーズや『レザボア・ドッグス』を引き合いに出していたので、「・・・ちょっと、どうかな」だった。 でもなんかひっかかっていて・・・「あ、これ、観に行ける最後のチャンスかも」と気づいたときに行ってしまった。

  アメリカン・アニマルズP.jpg 普通の大学生が起こした普通じゃない強盗事件。
  ケンタッキー州の大学図書館に眠る時価12億円を超えるヴィンテージ本を狙った事件。まさかの実話。

 2004年、ケンタッキー州トランシルヴァニア大学の図書館にて盗難事件が発生した。
 犯人は4人の大学生。 自由を追い求めるウォーレン(エヴァン・ピーターズ)と特別な何かを手にしたいスペンサー(バリー・コーガン)、とFBIエージェントを目指しているエリック(ジャレッド・アブラハムソン)とトレーニングジムの経営に携わり成功していたチャズ(ブレイク・ジェナー)。 目的は時価1200万ドルともいわれるジョン・ジェームズ・オーデュボンの画集『アメリカの鳥類』。 彼らはどうやって計画を練り、どのように実行したのか・・・という話。
 冒頭に、「THIS IS NOT BASED ON A TRUE STORY. THIS IS A TRUE STORY.(これは真実に基づいた物語ではない。真実の物語だ。)」と出る。 え、どういう意味だろう?、と思っていたら・・・モデルになった本人たちとその家族、関係者も出てきてインタビューパートもあるのであった。

  アメリカン・アニマルズ3.jpg バリー・コーガンの顔がコワい。
 『聖なる鹿殺し』のときのヤバさ具合が印象深すぎて(『ダンケルク』のときはそこまで気にならなかったのに)、スペンサーがとにかくなにかをやらかしそうで怖いのだが、本物のスペンサーがまるでアンドリュー・ガーフィールドと若い頃のデニス・クエイドの間みたいな顔をしているのでびっくりする。 普通にハンサムでいいおにいちゃんみたいじゃないか。 本物のウォーレンの方は主犯を疑われたのも頷ける感じのやばい雰囲気を発しているが、演じるほうはちょっと窪田正孝似のマイルド寄り。 エリックとチャズは本物とちょっと似た雰囲気なのに。 それがただの再現ドラマとは違う奇妙なバランスを保っているような、あえてバランスを放棄しているような。 とにもかくにも、<青春期の痛み>をしっかり描いているなぁ、と思う。
 ひとりの証言から複数の表現にするあたりが面白い。記憶は曖昧だし、その人にとってそれが真実だとしても他の人から見たらそうとは限らない、をあらわしているのが、逆説的に「真実の物語」なのかな、と思う。

  アメリカン・アニマルズ2.jpg 『アメリカの鳥類』、これで畳一畳分ぐらいある。
 本の形になってはいるが、貴重な複製画を束ねたという形状。 だから高価なのだが・・・そんな有名なものはすぐ足がつくし、ウラでさばこうと思えば足元みられて安く買いたたかれるし、いくら管理がゆるそうでたやすく盗めると思っても、本気でやろうとするなんてバカじゃない?、とついあたしは考えてしまう・・・仮に盗んだとして、どう保管するわけ? 芸術品への気配りを彼らがしていない点で、「おいおい、お前たち!」と言いたくなる感じなのだが、もうつっこみたいとこ満載だよ・・・「あぁ、バカだなぁ」と何回思ったか。
 それは2004年の彼らであり、現在の本物の彼らでもあり・・・痛みもわかるんだけど。 物語をぶつ切りする形でインタビュー画面を挿入するのも、ただの物語として消費してほしくない、こちらを居心地悪くさせていろいろと考えさせるようにということだろうか。 だとしたら、あたしはまんまとはまってしまいましたよ。

  アメリカン・アニマルズ1.jpg 実行当日、年寄りに変装。
 彼らはほんとにバカなのだが、「退屈な日常を脱したい・ここを超えたら何かが変わるに違いない」と考えることをとがめることが自分にはできるだろうか、と考える。 自分は特別だ、必ず何かを成し遂げるはずと思わなかったことなどないと言えるだろうか。 ただあたしは犯罪になることをしなかっただけ、物理的にではなくともわかっていたけど誰かを傷つけたことはあったのではないか、自分にとってこの人は価値はないと口にしなくとも思ったことは数多くある。 世界は自分の思うがままだとうぬぼれない若者の方が少ない。 でも、実際に行動に移す人の方が少数だから、余計特別だと見えてしまうのだろうか。
 彼らは行動に移した結果、罪悪感を背負って、更に収監もされる。 そんな犠牲を払っていったい何を手に入れたんだろうか? 行動に移さなかった場合に彼らが手にするはずのものは永遠に失われてしまったのだろうか。 むなしいな・・・。
 計画だけなら完璧だ、いつだって。 現実は必ず、不確定要素が入ってくる。 それをどこまで予測するか、予測しようと思うか。 本人も言っていた、「引き返すチャンスは何度もあった」と。 それでも引き返さなかったのはやはり彼らの読みが甘かったのと、「その先を知りたい」気持ちに乗っかってしまったからだ。 それもまた「若さ故」なんですかねぇ。
 なんだかすごく切なくなった。
 それは「自分がもう若くない」と思い知らされたからではない。 年齢がいくつであろうとも、何かを飛び越えれば何かが変わると考えてしまう人はいて、そのうちの何人かは実行に移してしまうのだ、ということに。 もしかしたら若いうちならそこから学びやり直しができるのかもしれないけど、若くないということはやり直しの可能性自体断たれていると思い込むよね、と。
 居心地の悪い映画だけど、でもこの感じ、キライじゃないよ。

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2019年06月06日

12か月の未来図/LES GRANDS ESPRITS

 フランスの学校・教育ものは興味深い、移民社会になってからは特に。 『パリ20区、僕たちのクラス』で気づかされてから、あたしも意識して観るようになった。 日本の学園ものはコメディとファンタジーと安っぽい感動が入り乱れているが、フランスはドキュメンタリータッチなのだ。

  12か月の未来図P.jpg そのとき、人生に光が差し込んだ。僕たちの一期一会。

 ベテラン教師のフランソワ・フーコー(ドゥニ・ポダリデス)はパリの名門・アンリ4世高校で国語を教えているが、最近の生徒たちの学力低下・やる気のなさを嘆いている。 彼の父親は国民的な作家で、コンプレックスは持っているものの、インテリブルジョアとして育ったことを当たり前だと感じているフランソワは、勉強ができないのはやる気がないだけで本人の責任だと思っている。 ある集まりで、パリとパリ郊外の学校の学力格差は教師の能力の差であるという話をしたら、熱心に聞いてくれる美女がいて、後日彼女にランチに誘われて有頂天になるフランソワ。 しかしそれはデートのお誘いではなく、国民教育省でのビジネスミーティングだった。 ベテラン教師として一年間、郊外の学校(実は教育困難校)で教えてくれませんかという申し出に、メンツから断り切れなくなったフランソワだが・・・という話。

  12か月の未来図4.jpg パリでは見るからに「いやな教師」そのもの。
 テストを返すときに点数を読み上げ、「いつになったらまともな点が取れるのかね」などクラス全員にイヤミなコメント全開にする感じ、フランソワはほんとにイヤなヤローである。 だから美女に目がくらんで窮地に陥るさまは「ざまーみろ」的な感じになるのだが、こんなのが郊外の学校に行ったらそこの生徒たちは大丈夫なの?、と心配にもなる。
 勿論、結構いい年なのに父親に自分は認めてもらえてない的な屈折した思いを抱いているのも伝わり、ただのイヤなヤツではないこともわかるのだが・・・この人の加減、絶妙だなぁ、と思う。 「主に舞台で活躍するベテラン俳優兼演出家」だそうで、納得!

  12か月の未来図1.jpg 新しい学校のレベルの低さに愕然とする。
 時間通りに来ない生徒たち、おしゃべりがやまず、前もって机の上に教科書やノートも準備しない。 初めての書き取りテストではそもそも点が取れない。
 それでやっと、「今までいたのはエリート校だった、自分は楽をしていた」ことに気づくという。 名門校に進学するような子供たちはいわゆる昔ながらのフランス人家系が多かったのであろう、アフリカ系とおぼしき名前が読めない・一回で発音できないことに焦って、価値観が崩壊する。 「教師のレベルが低い」と思っていたけど、問題はもっと根深いことを知るのだ(つまり自分は教師としてレベルが上だと思っていた、ということだが)。
 まだ若い教師たち、数学担当のガスパール(アレクシス・モンコルジェ)や歴史担当のクロエ(ポリーヌ・ユリュゲン)の話も聞いて、自分なりの授業の進め方を模索していくところは面白い。 教育指導要領みたいなものがあるところではそういう工夫は難しいかもしれないかもだが。
 生徒たちはそれぞれに事情を抱えているが、クラスのいちばんの問題児はセドゥ(アブドゥライエ・ディアロ)だ。 同じクラスの女の子が好きでちょっかいを出し、それでは嫌われるだけだと気づかない子供っぽさもあるのに、大麻入りのブラウニーを学校に持ってきたり、やたら反抗的な態度を繰り返したりして、「他に悪い影響を与えるから退学させたほうがいいのでは」と思われているという。

  12か月の未来図2.jpg しかし退学にしたとも彼の受け皿はギャングみたいなものしかない、とフランソワは反対、なんとか彼を学校に来させたいと考える。
 そのへんのフランソワの気持ちの移動がすごく自然で、「なんてイヤなヤツ」と思っていたことを忘れて応援したくなってしまうのである。 それは初めて知る自分の中にある父性、みたいな。
 他の子にも問題はあるのにセドゥにばかり肩入れしすぎでは、と思っちゃうのは日本人的感覚なのかなぁ(それはえこひいきにならないのか?、とか)。 他の子たちにも「セドゥは大変だから」という認識があるからいいのだろうか。 それに、日本よりも子供に対する学校の管理責任みたいなものは問われていない感じがする。
 しかも子供たちは子役というより、ロケ地に選んだその学校に通っている普通の子供たち、という感じがする。 だからよりドキュメンタリーっぽく見えるのかも。
 向こうの学校には<指導評議会>というものがある。 特別に指導が必要と判断されたとき、生徒本人と親が呼び出され、校長以下教師が揃って話し合う会議で、場合によってはそこで退学が告げられる。 担任はその場にいられても、最終的な評議には参加できないという過剰すぎる公平さにびっくりする。 やはり学校の捉え方が違うとしか言いようがない。

  12か月の未来図3.jpg 女性で失敗(?)してるのに・・・こりない人、ダメじゃん、フランソワ。
 結局、考えるのは「教育とは何か」である。 フランソワは従来の学校教育に適応できたからそれ以外の価値や考え方を認める必要がなかったけど、すべての人間がそうじゃない。 学校を出てからも成長できるような手掛かりを与えたり、自分で調べたりできるような力が身につくようにするのが学校なんだよなぁ。 あたしは本と映画で大概のことは学べるような気がするが、それが合わない人もいるだろうし。
 問題が多すぎて正解がない。 だから、ある一例を提示するしかないのかも。
 そっけなさすぎる終わりも、フランス映画っぽい。
 エンドロールでメリー・ホプキンの“悲しき天使”が流れた。 ひどくレトロな曲なのに、懐かしい以上の感情がわき、頭の中をぐるぐると回る。 学校で苦しんだり、ひどい目に遭う人が一人でも少なくなればいい。 全然学校とは関係ない生活をしているのにそんなことを考えてしまうのは、“学校”という存在に今でも何か期待をしているのかもしれない。

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2019年06月03日

ホワイト・クロウ 伝説のダンサー/THE WHITE CROW

 「あ、またバレエものかぁ」と最初予告を観たときは思っただけだったけど、“監督:レイフ・ファインズ”の表記に「えっ!」っとなる。
 あなたが撮ったんですか! しかも題材は実在の天才ダンサー、ルドルフ・ヌレエフで・・・えっ、それ、セルゲイ・ポールニンで撮るという話があったのでは?(この映画にセルゲイ・ポールニンも出ている)。 どうなってんだ!、と確認するために来る。
 やはり神戸はバレエ映画にある程度の需要があるのか、結構込んでいたよ・・・。

  ホワイト・クロウP.jpg 生きることは踊ること。踊ることは生きること。
   踊りたい、国や家族を棄ててでも――バレエ界を劇的に生きた男、ルドルフ・ヌレエフの光と影。

 まだ無名の若きダンサー、ルドルフ・ヌレエフ(オレグ・イヴェンコ)は1961年にキーロフ・バレエ団の海外公演のために初めてソ連を出る。 訪れたのは芸術の都パリで、ヌレエフは多岐にわたるアート作品に触れ、深くひきつけられる。 パリに住む人々の自由な生活も初めて見るものだった。 彼の行動はすべて「どう踊りに活かせるか」のためだけだが、KGBはパリでのヌレエフの行動を常に監視していて・・・という話。

  ホワイト・クロウ1.jpg あ、『海賊』!
 1961年を中心に、ちょっと先のこと、過去の場面が交差する。 自分の才能を確信しているがまだそれを表現しきれていない若者の傲慢さがいきいきと描かれている様についニヤニヤ・・・のちに大成する人だとわかっているからそう思えるんだけど、同時代の方たちは大変だったろうなぁ。
 ヌレエフ役のオレグ・イヴェンコはタタール劇場の現役プリンシパルだそうで・・・ダンスシーン本物なんだ! おまけに映画向きのルックス持ちってすごいな!、と感嘆。 ヌレエフのキャラ的には彼のほうが合っている、セルゲイ・ポールニンでは似合わない。 だからパリでのルームメイトのダンサー、東ドイツのユーリ・ソロビヨフの役をセルゲイ・ポールニンにしたのね、と納得。
 が、ダンスの場面は思っていたより少なかった。

  ホワイト・クロウ2.jpg どうしたレイフ・ファインズ、その体型と頭!
 レニングラード・バレエスクール(今のワガノワ・バレエアカデミー)でヌレエフの師となったアレクサンドル・プーシキンがレイフ・ファインズの役どころ。 有名な人らしいのでビジュアルを本人に似せたのだろうか、予告でちらっと見たときは驚愕した。
 そう、こういう多国籍の映画では「とりあえず台詞は全部英語で」ということも多いのだが・・・これは違う! ソ連ではロシア語、パリではフランス語、ソ連人とフランス人が会話するのは英語と、現実に即した言語が使われている。 だからレイフ・ファインズもずっとロシア語で喋っているのである。 役者魂と監督として自ら率先して実践する姿にしびれますよ! またプーシキンがこの映画ではかっこ悪さを引き受けざるを得ない役で・・・それを自分でやるのもえらい。

  ホワイト・クロウ3.jpg パリでの輝く時間。
 ヌレエフと最初に親しくなるピエール(ラファエル・ペルソナ)は、『彼は秘密の女ともだち』のだんなさんだ! どこかで観たことある人たちが続々出てくるのもワクワクする(でも映画を観ている最中はその役として見ているので、思い出すのはあとからなんだけど)。
 パリの人たちにとっては当たり前のことが、ヌレエフには当たり前ではないのだとお互いが理解していく過程がいい。 価値観の違いを非難するのではなく認める、自分には仕方のないことだと受け入れるような。 東側からのお客さんでヌレエフだけが自由に憧れてたわけではないのだろうけど、それだけ当局の目が厳しかったのだろうし、ソ連国内ではアメリカより先に宇宙へ行ったしこの国はもっとよくなるという楽観論のあった時代だったからなのかなぁ。

  ホワイト・クロウ6.jpg あ、『アデル、ブルーは熱い色』の人!
 クララ・サン(アデル・エグザルコプロス)は婚約者を失ったことからまだ立ち直れておらず、その喪失感がヌレエフと共鳴した・・・のかなぁ。 だんだん、“青春と苦悩”のほうに話が寄っていくなぁ、と思っていたら・・・まさかここまでの亡命サスペンスになるとは!
 まさに息をもつかせぬハラハラドキドキ感満載、しかし過剰にドラマティックではなくてドキュメンタリータッチで。 音楽も王道のクラシックなのにすっごく盛り上がる! 2時間越えの長さでしたが、その長さを忘れた。
 しかもその後のことについてはあまり触れてくれないので、「その後どうなったの?!」と思ってしまうこと確実(知っている人にとっては常識かもしれないが、あたしは知らなかったので・・・)。 『愛と悲しみのボレロ』や『ホワイトナイツ―白夜』が彼をモデルにしているとあとから知り、「・・・あぁ!」といろんなことがつながりましたよ。

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2019年05月28日

轢き逃げ ー最高の最悪な日−

 主なロケ地が神戸市内、しかもあたしがわりと行くところで撮っている、という噂を聞きまして・・・。 しかも最初はヒューマンドラマ路線の予告編だったのに、途中からサスペンス色を押し出してきているのも気になり。 でも明らかに「ラストにどんでん返しがあります」と伝えるようなCMは、逆効果なんだけどな・・・。

  轢き逃げP.jpg なぜ、愛する娘は死んだのですか?
  あなたは、この映画の罠に嵌る。

 舞台は地方都市である神倉市。
 神倉市に本社を置く大手ゼネコンに勤める宗方秀一(中山麻聖)は、大学のときからの親友で職場も同じ森田輝(石田法嗣)を助手席に乗せ、結婚式の打ち合わせに向かおうと車を運転していた。 結婚相手は副社長の娘の白河早苗(小林涼子)で、約束の時間に間に合わなくなる、と近道をとり、カーブを急に曲がったところで若い女性を轢いてしまう。 森田の「誰も見てない」という言葉に、宗方はそのまま車を出し、約束の場所に向かう。 家に帰ると、ニュースが「轢き逃げ事件で女性が死亡」と流していた。
 刑事の柳公三郎(岸部一徳)と前田俊(毎熊克哉)はひき逃げ事件の捜査を開始、逃げた車の後を追う。 一方、被害者の父親(水谷豊)は一人娘を失ったことを受け入れられず、母親(檀ふみ)は夫を気遣うあまり悲しみを表には出せない日々が続く・・・という話。

  轢き逃げ2.jpg “お嬢様”との時間。
 前半は轢き逃げ犯となった宗方、その従犯となった森田視点で進む。 <倒叙もの>の雰囲気たっぷりであるが、計画殺人と違って交通事故は誰の身にも起こることであり、宗方だって望んでこんなことになったわけではないし、車を運転する者にとっては「加害者になるかもしれない」可能性はゼロではないわけで、また最近大きな事故の報道が相次いだせいもあり、結果的にタイムリーな話題になっているのがなんとも。
 新元号が発表される前の撮影だったためか、平成30年5月と固定されているのも興味深い。

  轢き逃げ4.jpg このポストはシネマ神戸の前にあるやつ。
 そんな感じで、「あ、ここは!」とわかる場所が結構あって・・・冒頭の空撮から路地に視点が降りてくるところから「あそこじゃないか!」と知っている場所だったのだけれども、<架空の地方都市:神倉市>という設定であることはわかっているのだが、「えっ、その道を曲がったのに次にそこに行くのおかしいよ!」とつい思ってしまい・・・物語よりも物理的な位置の違いが気になって仕方なかった。
 たとえば、追いかけっこが水上警察あたりで始まったのに次は元町駅西側の高架下で、センター街を通って南京町、更に東遊園地とテレポートが半端ないよ!、みたいな。 「いやいや、ここは神戸ではない」と心の中で言い聞かせながら風景を気にしないようにするも、紅茶エスプレッソの店UNICORNが大映しになったり、シネマ神戸(シネマ神倉に変えられていたが)が出てきたりすると、「あっ!!」って思っちゃうわけですよ。 ロケ地が知っている場所なのは物語に集中できないわ・・・そして行ったことのない都市がロケ地の場合は、映画に映っていることがそのままだと思ってはいけないな、と思わされました。

  轢き逃げ1.jpg <事故現場>は北野のほうですね。
 後半からは被害者の父視点となり、映画は違う景色に。 これをトリッキーなあざとさと感じるか、世界観を広げるための意外性と捉えるかでこの映画の評価が変わりそう。 あたしは本を読んでいて章が変わったような感じが。 映像を見ているのに、ちょっと小説を読んでいるときの気持ちになった。
 でも原作なしのオリジナル脚本なのよね。 現代設定なのに20代の若者のセリフに時代を感じたけれど・・・水谷豊、結構ミステリを読んでいるのか! この感じは『相棒』や二時間ドラマの経験からだけでは得られるものじゃないぞ、と感じた。 あたしも長年のミステリ読みですが、マニアックにはならず過剰なトリック重視にも陥らず、意外性とインパクトに重きを置いてむしろ基本に忠実につくっていることに驚きを禁じ得ない(ただし、ミステリに慣れていない人にはアンフェアととられる可能性もある・・・説明しないことと説明しすぎの境界線は難しい)。 たとえ「『相棒』の余禄」と言われても、オリジナル作品をこの規模で公開できるのは日本映画界の現状では簡単じゃないから(とはいえ、バックにテレビ局がついているから可能だというのも事実)。 語られない余白が多いというのも日本映画の伝統的な特徴で、その余白をどう受け取るのかは観客次第、なこともメジャー映画では多くない。 水谷監督には、この勢いであと何作か撮っていただきたい。 そうすれば少しは、日本映画界の構造に影響を与えられる?

  轢き逃げ3.jpg この二人のガチ演技、観たかった。
 石田法嗣は子役出身で、あたしは『カナリア』がすごく印象深いけど、一般的には「無名」なのか・・・とちょっと切なくなる。 これを機に飛躍してくれたらうれしいなぁ、と。 売れている・名前の知られている役者さんに仕事が集中している感があるので、というか知られている人しか話題にならないような気がするので、入り込み系の役者が好きなあたしとしては、「いわゆる無名の中にもいい役者はいっぱいいるのに」といつも思っているので、そういう人が脚光を浴びるのはうれしいです。 この役、難しかったと思うし。
 お父さんも走り方がよたよたで、年相応の感じが出ていたのがよかった。 右京さんじゃない水谷豊も観たいですもの。

  轢き逃げ5.jpg この三人、特に一徳さんの安定感たるや!
 岸部一徳ってこんなにうまかったのね・・・というのをあらためて実感。 しかしラストシーンで全部檀ふみが持っていく!
 人は誰しも加害者になりうる、だからといって被害者はすべて許せる・・・わけじゃない。 時間はかかるけど、双方が歩み寄るための準備として加害者側の誠意は絶対必要で、でも反省も誠意もない加害者だったらどうしたらいいのか、という問題全部入れ。 感情的になる時期を過ぎて人としてどう振舞うか、個人の成熟がより求められているわけですね。
 エンドロールに流れる曲で・・・しみじみする。 手嶌葵の声でだまされてるのかもしれないけど、あぁ、誠実な映画だなぁ、と感じた。
 結構すすり泣いている人もいて、「あぁ、子供がいる人はより刺さるのか」と納得。 子供がいなくて、自動車免許も持っていない(車を運転したことのない)あたしは共感ポイントがないな!、と思ったものの、だからこそ「映画として目指したもの」・「ミステリとしての構成」を楽しめたのかなぁ、という気がする。 あたしはキライじゃないんだけど、評価がすごくわかれそう!
 あ、そうだ! 日本映画って音響にだいたい不満が出るんだけど、これは全然。 小さな音もくっきり聴こえて、つまりそういう音にも意味があるということがよく伝わってすごくよかった! なんでも日本映画初のドルビーシステム採用ということらしい・・・え、今にして初なの? 音へのこだわりを示したことだけでも、この映画の意味はあるなぁ。

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