2018年04月26日

わたしの本当の子どもたち/ジョー・ウォルトン

 途中まで読んでいるのだが、諸事情により放置され、ときにその放置が年単位にわたってしまう本があたしの家には何冊もある。
 「10%以上の法則」をクリアさえしていれば何年たとうがその続きからすぐ入っていけるという実績があるため(それもいつダメになるかわからないのだが、今のところは大丈夫なので)、放置プレイはどんどんひどくなっている。 例えば、シリーズ1・2作読んで止まって、もう10作ぐらい出てるのにそのまま、とか(絶版になると困るので買っているのですが、それが「いつでも読めるし」という油断を更に招くという)。
 一気読み本とか図書館本が一段落したら手を伸ばすんですが、また新しい本を買っちゃったりするんで、そのときの気分で読みたい本も変わってくるし、ほんとにあたしは順番を守らない。
 そんなわけで不遇にあっていた一冊、読み終わりました。

  わたしの本当の子どもたち.jpg でも買ったのは2017年9月だから・・・そこまで寝かせてなかったか。

 老境にいるパトリシアは自分の人生を回顧する。 自分には痴呆の症状が出ているのかもしれないけれど、自分の過去は二種類あるような気がしてならない。 どちらは本当なのか、それともどちらとも本当なのか、どれも本当ではないのか・・・ある若き日の決断をきっかけに二つに分岐した彼女の人生を追いかけていく物語。 主に1933年から2015年まで。
 YESと答えた後に続くのは、トリシア(トリッシュ)の人生。 NOと答えた後に続くのはパティ(パット)の人生。
 たとえば、フィレンツェに恋して毎年イタリアを訪れて人生の豊かさを感じるパットと、イギリスの片田舎から出ることすらままならないトリシア。 モラ夫の存在に怒り心頭になり、娘の人生を認めない母親にいらいら。 
 一時期は片方が幸せであるように見えるけれど、時間の流れは残酷で、禍福は糾える縄のごとし。 いいことがあれば悪いことも起きる、個人レベルでも、世界レベルでも。 個人の物語かと思いきや、やっぱりどこか仮想歴史モノになっていた。
 読者であるあたしが知っている世界と、トリシアとパットそれぞれの世界は同じものもあるけれど違うものもある。 いつしかまるで、彼女たちの選択が他の人たちにも影響を与え、世界そのものにも影響を与えているのでは、という気になってくる。 彼女たちの子供たちもまたいろんな人とつながり、広がっていく様子はまさにそのもので(でも年代記っぽいわけでもない)。
 もしかしたら、それは本当なのかもしれない。 自分の些細な言動が、めぐりめぐって思いがけない影響を生み出していたら。
 ならば、世界をよいほうに進めようという気持ちを持ち続ければ、もしかしたら。 世界各地で起こるどうしようもない出来事の連続に心が折れてあきらめてしまったらそこで終わりだと。
 あ、この物語は<言霊>の存在とも似ているのかも。 すごく面白かったけど、同時にとても考えさせられて。
 ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア賞受賞、ということにものすごく納得できる、ジェンダーを当然のように乗り越えた現代SF。
 こういう発想ができる人にSFマインドがあるからなんだろうか。 こういう発想ができる人たちが多数派になれば、LGBT問題なんてなくなると思うんだけどなぁ。


ラベル:海外文学 SF
posted by かしこん at 23:59| Comment(0) | ☆ 読んじゃいました | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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