2016年09月28日

太陽のめざめ/LA TETE HAUTE

 カトリーヌ・ドヌーヴって誰かに似てるよな、としばらく前から思っていて、やっと気づいた。
 『ベルサイユのばら』冒頭に出てくるオーストリア女帝マリア・テレジアだ! 多分、今読めばそんなに顔は似ていない気もするんだけど、雰囲気というか佇まいというか威厳というか、そういう全部ひっくるめたイメージが、あたしの中で繋がっていた。 勿論、若い頃の壮絶ともいえる美貌の時期ではなく、ここ十数年くらいの彼女のイメージではあるのだが、それに気づいたのはこの映画における彼女が、まさにそんな役だったからだ。

  太陽のめざめP.jpg 愛とは、見捨てないこと。

 育児放棄が疑われる母親(サラ・フォレスティエ)が逆切れし、いっとき裁判所に置いていかれた6歳の少年マロニー。 判事のフローランス(カトリーヌ・ドヌーヴ)は児童福祉施設に一旦彼の身柄を預け、保護することを決定する。
 10年後、母とともに再びフローランスの前に姿を現した16歳のマロニー(ロッド・パラド)は問題を起こしてばかり。 反省と更生を促すもその気のない彼に、フローレンスは児童教育支援制度を適応させ、更生施設行きを告知。 新たな教育係ヤン(ブノワ・マジメル)をつけ、マロニーを見守るフローランスだが・・・という話。
 <カトリーヌ・ドヌーヴ主演>となってはいるが、実際の主人公はマロニーの方だろう。
 親に捨てられた過去があるのに、弟をかわいがり、他人には誰に対しても反抗的だが、母親が責められると「オレ自身の問題だ」と傍から見れば身勝手極まりない母親をかばう。 かわいそう過ぎるだろ、と思うが、それが何故自動車泥棒といった非行に結び付いてしまうのかあたしにはよくわからない。 愛してほしい、必要としてほしい、という全身から発する叫びなのはわかるのだが、そこに他人を巻き込んでしまうのが若さであり愚かさということか(そうだ、彼にはそれは愚かしいことであると教えてくれる人は誰もいなかったのだ)。

  太陽のめざめ1.jpg 唯一の例外が、フローランス。

 優しさと気遣いと厳しさが同居した彼女の言葉は、それなりにマロニーの心に響いているようであった。 けれどひねくれた10年間はそれだけでは素直におさまるわけもなく、似たような境遇で育った少年たちが集まっている更生施設でもいつでもケンカ一発触発状態。 それでもそこで働く職員たちは根気強く彼らに勉強や仕事や共同作業を教え、他人との関わり方を学んでもらおうと接する(“更生施設”という名ではあるが、まるでサマーキャンプみたいなのである。 少年院に入ってしまったらもうどうしようもないみたいなので、手の施しようがないワルになってしまう前に教育を身につけさせよう、という国ぐるみの必死さがさりげなくもひしひしと伝わってくる)。
 それにしても何故子供は「自分は無限の愛情を与えられて当たり前」と思うのであろう。
 いや、勿論それは当然のことなんだけれど、「それが与えられない自分には何か非があるのか」と考える派と「自分にそれが与えられないのは理不尽である」と考える派にわかれるその分岐点はどこなのか。

  太陽のめざめ2.jpg ブノア・マジメルがただのおっさん然として登場したのにも度肝を抜かれた。 オーラゼロ!

 マロニーは間違いなく後者であり、だからこそどれだけグレて無軌道な行動をしようともまったく反省しないし、むしろ愛情や信頼といった無条件にして絶対のものを得られていない(という実感がない)のだから、なにをしようとも自分のせいではない、と思っている。
 なんなんだ、この強さは!
 あたしはどちらかといえば前者のほうなので、むしろ「よい子でいなければならない」という呪いで自分を縛ってしまうタイプのため、そこまでやさぐれる気持ちがわからない(性差も多少関係あるだろうが、女子だって暴れる人もいるし、男子だって引きこもるタイプもいる。 やはりこればかりは個人差としか言いようがない)。
 カギは理性か、エネルギー(体力)か? というようなことを、観ながらずっと考えていた。
 誰が何と言おうとも、子供は親を選べない。 だから本来得られて当然のものが得られないことに対して怒りをもつのは当然であるし、そこはやはり大人の責任。
 だから「社会が子供を育てる」という発想を具現化した厚生施設の方々の働き振りには頭が下がる。 しかし悲しいかな結局他人であるが故、傷ついた子供へ気持ちがなかなか伝わらない、というジレンマがある。 しかし実の親の言うことならば聞いてしまうのである。
 なんで子供とはそんなにも盲目的に実の親を信じられるのか、彼・彼女が正しいと確信できるのか、自分もかつてはそうだったのだが本当に不思議だ。
 「猫はそもそもかわいいのが仕事(だから飼い主は下僕になってしまう)」と同じように、子供は無条件に親を信じて頼り切ることで親の自立心というか「この子のためになんでもしなければ」という気持ちを芽生えさせる本能のなせる技なのだろうか。 ではそうならない親を持った子供はどこで気持ちを切り替えればいいのか、その本能はないのか。 自分で自分の身を守れないどころか、自分の意志を伝えられる年齢になる前に親の虐待で命を失った子供たちのことがぐるぐると頭を回る。
 それを思えばマロニーは運のいい方だ。 でもそんな比較に何の意味があるだろう。
 ある程度の年齢になれば出自は関係ない、自分の力で自分の人生を切り開いていかなければ。 そのために必要ならば家族を切り捨てることもやむを得ない・・・と今のあたしなら思ってしまいますが、16歳のマロニーにはまだ無理なこと。 それ故に悲劇も引き起こしてしまうけど。

  太陽のめざめ4.jpg せっかく得られたチャンスを、マロニーは偏見を持つ人物に対してキレ、台無しにする。 まるで自分が“まともな道”を進むことを恐れているかのように(いや、ただ単に辛抱がきかないだけかもしれないのだが)。

 観ていて何度もマロニーに説教したくなるのであるが、フローランスは必要以上に踏み込まず、けれど決してマロニーを見捨てることはしないという静かなアピールをずっと続けている。 なんなの、その根気強さは、というくらい。
 それくらい「人を育てる」のには時間も手間もかかることだとわかっているからだろうけど・・・だからこの映画は誰も断罪しないのか。
 育児放棄をする母親も、家族を捨てて出ていった父親も、ダメな大人の一翼だが、彼らもまたそのように育てられたのかもしれず、責任の所在を追求するよりは現状を何とかしようという次善策を選択することが合理的であり、なにより子供たちのためだ、という方針が徹底しているからでしょう。 日本もここまではっきりできれば(努力していらっしゃる方々がいるのもわかっていますが、法律の問題)・・・「基本的には実の親」にこだわっていては子供を幸せにはできないと思う。
 こういう問題には正解がないので本当に難しいが・・・フローランスにマロニーが心の慰めを与えられるように、観客もまたドヌーヴの気高さに救われる。 そしてラストシーンで、邦題の意味にもちょっと救われる。

ラベル:映画館 外国映画
posted by かしこん at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 movie | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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