2016年05月19日

僕だけがいない街(1〜8:完結)/三部けい

 なんとか映画も観終わったし、最終巻も追加で貸していただいたことだし、読み始める。
 以前はそれほどでもなかったような気がするのだが、年々「初めて読む作家・マンガ家」に対する抵抗感が強くなっているのを感じる。 でも翻訳ものにはそういうものはあまりない(でも初めての訳者の人の場合はちょっと躊躇するかも)。
 読んでいてストーリーでつまずきたくない以上に、まず日本語でつまずきたくない、という気持ちが働いているようです。 そしてマンガ家さんの場合はコマ割りや絵も重要。 この作品の場合、いくら売れてて評判がいいと聞いていても、「絵があまりうまくないな・・・」と思ってしまっていたので自分では手を出す気が起きていませんでした。 これも、仕事場にマンガ部(?)をつくって活動していたおかげ!

   僕だけがいない街8本.jpg 人物がいないと、そうでもないのですが。

 読んでみて、「なるほど・・・」と映画を酷評した人の気持ちに納得(まぁ、あたしも決して褒めていたわけではないが)。 『僕だけがいない街』というタイトル(つまりはテーマそのもの)の解釈がまったく違うことになっている。 アニメは未見なので何も言えませんが、映画製作時には最終回までまだ行っていなかったはず。 どこに着地点を見い出すか、というのは映画の自由裁量だったわけで、そこは仕方がなかったのかなぁ、と(そのかわり、映画の前半は結構原作に忠実でしたよ)。 だったらなんで完結していない作品を原作に映画をつくるのか、という疑問が浮かんでしまうけど、その答えは日本映画の企画の根幹にかかわる問題に踏み込んでしまうので、そこはスルーするしかないですが。
 マンガを読んで、「あぁ、やはり子供時代が重要、という感覚は間違いじゃなかったな!」と実感。 映画ではチョイ役でしかなかった同級生たちが出番も多く重要な役割を果たしていて、そこはうれしかったです(リバイバル現象の謎も解明されないままだけど・・・)。
 同じ時代を二度生きた代償に、ある時期を失った青年の物語として読めないこともないけれど、それが他の誰かを救う結果なのだとしたら、そこは<宿命>として引き受けるべきなのだろうか。 「選ばれし者の恍惚と不安」か。
 そして「深淵を覗く者は、深淵にもまた覗かれている」という話でもある。
 逆方向から同じものを見た者同士、よくいえばホームズとモリアーティ、明智小五郎と黒蜥蜴のような関係性。 これもまた宿命でしょうか。
 タイムリープ(ループ?)はあくまでその主題を引き立たせるための小道具だった、という気がしています。 ジャンルはSFでもミステリでもなく、実は青春モノだった!

ラベル:マンガ
posted by かしこん at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆ 読んじゃいました | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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