2015年07月30日

グローリー 明日への行進/SELMA

 意外にも、マーティン・ルーサー・キング・Jr.が主役の映画は初めてだそうである。
 言われてみれば、観たことがないかも。 その時代を描く映画にはTV画面の向こうで演説する姿などが映っていることはあるけど・・・それだけ、描きづらい人物なのかしら。 エピソードが多すぎるからとか?
 ちなみに、キング牧師についてのあたしの知識はローザ・パークス事件とバスボイコット運動、“I have a dream”の演説、そして暗殺がワンセットである(中学3年の英語の教科書に載ってた分そのまま)。 なので、のちに『マルコムX』(初めてデンゼル・ワシントンを知った作品かも)を観て「同じような時期にこんなことが?!」と驚愕したのも懐かしい。
 無抵抗主義を貫いたキング牧師は、しかしなかなか一人の人間としては一癖も二癖もあったようである(浮気したりとか・・・)。 英雄化されている人物だからこそ、生身のリアルな姿をなかなか描けない(イメージ壊れる)というのはあるのかも。

  セルマP.jpg 彼の夢が、世界を動かす

 1965年3月7日、黒人にも公民権を、と活動しているマーティン・ルーサー・キング・Jr.牧師(デビッド・オイェロウォ)の呼び掛けにより、黒人有権者登録妨害に抗議するため集まった約600人の黒人たちがアラバマ州セルマを出発、静かに行進を始めた。 だが、「あの橋を渡らせてはならない」と頑強な差別主義者であるアラバマ州知事ジョージ・ウォレス(ティム・ロス)が警官隊を総動員。 無抵抗の人々を相手に繰り広げられた一方的な暴力の行使は、マスメディアを通して全米に伝えられ、国内に大きな衝撃が伝わることに。
 そんなわけでこの映画は原題通り、セルマという町で起こった大行進(それに伴う“血の日曜日事件”)を中心に描き、あまり欲張らない構成になっている(それでもちょっと長いけど、128分)。
 それにしてもキング牧師の行動を分単位で表示できるのはなんでだろ、と冒頭からいぶかしく思っていたが、当時FBIが彼を重要人物(悪いほうの)と見なして監視・盗聴をしていてその記録が残っているからなんですね! フーヴァー長官なんか暗に露骨に「始末したほうが」とか言ってるし(あれ、『J.エドガー』のときそのあたり描かれていたかな?、覚えてない・・・)。 非暴力主義を掲げているとはいえ、権力者側にしてみれば<大きな影響を持つ民衆の指導者>として警戒されていたのがよくわかる。 リンドン・B・ジョンソン大統領(トム・ウィルキンソン)とも普通にホワイトハウス執務室で何度も会っているし、電話も直でかけてるし。

  セルマ3.jpg トム・ウィルキンソン、好きです。
 ここでは南部出身の白人ながら合衆国大統領として「すべての人に公民権の行使を」という憲法の理念をいかに実現するか、はじめは及び腰ながら次第に態度を強く変えていく人になっていた。
 そういえばキング牧師が暗殺されたことは知っていても、誰が何故実行したのかとかはまったく知らない・追求していない自分に気づく(白人至上主義者にやられたんだろうなぁ、とうっすら納得していたからであろうか)。
 映画は後半、当時の実際のニュース映像らしきものを織り交ぜてくるが、それは映画として描かれていることよりも明らかに雄弁であったりする。 それはドキュメンタリーの強みでもあるのだが、それまで演技で組み立ててきたものの印象を薄くしてしまう感もあり・・・あぁ、難しい。

  セルマ2.jpg 映画のほうがみなさん小奇麗だし。
 でも黒人女性のみなさんが、デザインは違えども同じような大きさの丸いイヤリング(直径6センチくらい?)をつけていたのが印象的だった。 当時の流行だったのだろうか。 いま見ると新鮮であった(それちょっとほしいかも、と思うものも)。
 それにしても、なんて言ったらいいんでしょうねぇ・・・黒人を支持する白人たちを滅多打ちして殺してしまう白人がいるかと思えば、“血の日曜日”の映像を見て愕然とする白人たち(あたかも問題がそこまで深刻であることを初めて知った、みたいな)もいたりして・・・住んでいる地域が北部か南部か、州によっても変わったりするのでしょうが、自分の国の話だぞ!、なにしてんだ!、みたいな気もしないでもなく。
 しかしあたし自身、現代日本の抱える問題をすべて知っているのか・それに対して何か行動なり意思表示などをしているのかと問われれば堂々と頷いたりはできないわけで・・・しみじみ、あとだしじゃんけんならばなんとでも言えるわなぁ、と。
 とりあえず、自分ではどうにもできないことについて差別するのはおかしい、という発想ができる自分でよかった、とは思うけれど、世界中全ての人がそう思ってはいない(中には無自覚の人もいるであろう)からこそこういうテーマの映画は作られ続けるのだろうな・・・と感じる。 実話をベースにすればとっつきやすい(?)けど、“人種差別”という狭いくくりで判断されてしまうおそれもあるし、そこをスタートに普遍的なところまで考えていかないといけないな、と思い知らされる。
 あたしはつい、電車や街中で見る人のカバンやファッションに目が行ってしまい、「あぁ、その組み合わせ、なんか惜しい!」とか、「もう9月なのにマリンテイストはどうなのか」とか、「9月でブーツとか、まだ暑いよ!(ファッションは季節先取りという心意気はわかるが)」等、つい自分の価値観で判断してしまい(しかも自分のコーディネートは棚に上げて)、いかんいかん、ファッションは自由じゃないか、と思い直すのである(あたしは心の中で思うだけだが、実際に口に出してあげつらう人たちもいるから、二人以上の組み合わせになるとそうなってしまうのだろうか、怖い怖い)。 あと仕事の面でも「マジか?!」と自分の基準で相手の行動から仕事のできるできないを判断してしまう。 角が立たないように指摘したらいいだけのことではないか(しかしそれで話が通じない場合、結局こいつはできねーな、と切り捨ててしまうのだが)。
 つまりは、まだまだ修行が足りない。
 人類の過去の愚行を映画が描き続けるのは、そういうことを描けるようになった自由ができたという象徴でもあり、でもやっぱり人として目指すところはまだまだだよね、という意味合いが込められているのであろう。 と、時々真面目に考えることも必要だから、あたしはこういう映画を観るのだろう。

ラベル:映画館 外国映画
posted by かしこん at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 movie | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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