2015年07月27日

きみはいい子

 “虐待の連鎖”みたいな話はあまり好きではない(ま、好きな人は少ないと思うが)。
 しかし興味がないわけではない。 ひどい家庭で育てられた記憶がある人たちは、何故自分でも家庭を持とうと思うのだろう。 そういう親には絶対ならないと強い決意で決めるのだろうか。 虐待の連鎖を止めるには、自分が親にならないことがいちばんの解決方法だとあたしは個人的に考えるのだが、少子化が社会問題になっている以上、この案には表立ってなかなか賛同が得られない。 まぁ、あたしの考えは極論なので、ほどよい落としどころが必要だというのはわかる。 それがこの映画にはありそうだし、予告の池脇千鶴がすごくいい感じっぽかったので観てみる。

  きみはいい子P.jpg 抱きしめられたい。 子どもだって。 おとなだって。

 北海道のとある町。 小学校の新米教師である岡野(高良健吾)は、情熱を持って教職を目指したはずだが、目先のことに追われて児童をうまくまとめられず、生来の優柔不断さがあだとなり児童たちから(つまりは保護者たちにも)早速なめられていることに日々悩む。
 夫が単身赴任のため、3歳の娘と二人暮らしの雅美(尾野真千子)は公園デビューもどうにか果たすがママ友たちとの会話には神経をすり減らし、時に娘に暴力をふるうことも。
 一人暮らしのあきこ(喜多道枝)は毎朝家の前を通る自閉スペクトラム症らしき少年とあいさつをするのが楽しみだが、スーパーで買いたいものや支払いを忘れることがあり、認知症の影におびえるようになる。

  きみはいい子2.jpg 学級崩壊、というほどではないにしろ、結構岡野先生のクラス、乱れてます。
 それなりに頑張ってるんですけどね、岡野先生。 児童の誰かを悪役にしないようにと心を砕いてはいるんだけど、何にせよ行動が遅い。 ベテランの先生方は行動は早いけど、結論をうやむやにするだけみたいに感じていらだつ気持ちもわかるんだけど、だったら君は行動しろよ、とつっこみそうになる(ベテランの先生方の行動は、それはそれで波風を立てないような処世術ではあるんだけど)。
 が、もっとも緊迫しているのは雅美パートである。 尾野真千子、この役を引き受けるのすごく覚悟がいっただろうな、とハラハラするほど入魂の演技。 そんな彼女に救いの手を差し伸べる池脇千鶴がさらによい。

  きみはいい子5.jpg 気づいていながら咎めることなく、ただ受け入れてなぐさめる。 それはあたかも見返りを求めない<感情の贈与>。
 一件無関係に見える人々の点描が、次第に繋がりを見せていくというつくりのこの映画、その繋がりをあえてはっきり見せない(観客に推測させる)のと同様に、映画的結論もほぼ観客に委ねている。 たとえば、虐待をする親を懲らしめ、子供が救い出されればある種のカタルシスを得られるのだろうけれど、現実はそうではないし、子供にとってはどんな親でも“親”であったりするし(子供から「親を捨てる」という行為はとてつもない時間とエネルギーが必要)、あえて中途で放り出したままでいるために、観客に考えさせる余地を残した、ともいえるのかも。
 でも、この手の物語にあまり触れていない人には有効かもしれないけど(逆に慣れていないが故に消化できない可能性もあり?)、そこそこ知ってる・見てる人にとっては物足りなくもあるかも・・・。 だけど語りすぎはよろしくないだろうしなぁ、難しい。

  きみはいい子4.jpg だから、あきこさんと少年の母(富田靖子)との交流が深まっていく過程は心温まります。
 岡野先生が出した<難しい宿題>をやってきた・やってきてない児童たちのリアクションはほぼノンフィクションというか、演じている役柄から離れて、その子たちのリアルな声であるように思えた(だからそれに相槌を打つ高良健吾も、岡野先生ではなく一人の青年・高良健吾のようだった。 だって岡野先生より全然安定感あったもの)。 そこには学級崩壊を引き起こしかねないあやうい子どもたちの姿はなく、まったくもっていい子揃い。 あぁ、今子役をやるような子たちは礼儀正しくていい子ばっかりなんだろうなぁ、とつい思ってしまいました。
 学校にできることには限界がある。 他人にできることにも。 でも日常においてさりげない<贈与>の積み重ねが誰かを救うことができるかもしれない。 岡野先生も成長するしね。
 そんなことを、地味に考えてしまうのでありました。

ラベル:映画館 日本映画
posted by かしこん at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 movie | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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