ソフィア・コッポラ作品はあたしの中では『ヴァージン・スーサイズ』がベスト
かも・・・ごひいきエル・ファニングにつられて見たこれが現時点での彼女の
最高傑作と評されているのを読むと、鑑識眼と自分の好みとのせめぎあいって
むずかしい、としみじみ思う。

思わせるのもある意味すごい。
スーパーカーがぐるぐると同じところを4週も走る遠景を黙って見せられる
オープニングに、「しまった・・・これは寝るかもしれん」と感じたあたし。 いや、
それが勿論運転しているジョニー・マルコ(スティーヴン・ドーフ)の苛立ちや
やりきれない気持ち、退屈を紛らわすことを知らない不器用さなどを表しているのは
わかるんですけど、ドキュメンタリータッチと言えば聞こえがいい、被写体から
一定の距離を置く撮り方は登場人物への感情移入を幾分妨げる意味でも“物語”に
入り込めない・入ってほしくない意図を感じてあたしはちょっと引いてしまうのです。
日々高級ホテルでド派手な生活を送るハリウッドスターのジョニーだが、前妻との
間の娘、11歳のクレオ(エル・ファニング)をしばらくの間あずかることになる。

ハリウッドの仲間たちとは180°違う、クレオとの生活。 しかし、その日々も
やがて終わりが訪れて・・・という話。
へー、ポールガールってホテルに出張サービスもやってくれるの?、と目が丸く
なるが、その踊りを延々と見せられてどうしたらいいのやら。 ジョニーの空虚な
退屈さはもうわかった! いつまでも同じ体験をさせられるこっちの身にもなって
くれ!、と思う。 しかし、こんなに中身がからっぽの人間が見る人の心を震わせる
“演技”なんてできるんだろうか? 所詮、一時だけのスターって設定か?
当然ソフィア・コッポラは自分と父親のことを引き合いにされるのをわかって
いるだろうに、父親をこんなに薄っぺらい人間として描くとは・・・なにか許せない
ことでも?、と勘繰りたくなってしまう。

かわいさでもってもおつりはこない。
それにしてもクレオはかわいい。 こんな可愛い娘が自分のことを無邪気に父親と
慕う、そんな姿を見ちゃったら心を動かされないやつなどいるだろうか、というくらい
かわいい。 それ故にジョニーのダメダメさ加減も引き立つわけですが。
そんなダメ男でも、クレオにとっては大事な父親なので、映画はジョニーに近寄り
すぎないがあたたかい目では見ている。 やわらかな光の映し方とか、まさに
“移ろいゆく時”の美しさをあらわしていると思うんだけど、そのくらいでジョニーの
ダメ加減が許容できるということはなく・・・一応、その先には希望があるんだろう
なぁと思うんだけれど、クレオとの生活を当たり前と感じてしまったらまたふらふら
しかねないジョニーの危険度も見逃せなく、なんとも曖昧な見終わり感になって
しまった。
あたしには父親が早い段階でいないので、どうも『父親』という存在には過大な
期待を抱きがち&厳しい視点になりがちです。 これもある意味、ファザー・
コンプレックスなのかもしれない。
だから、この映画とは相性が合わなかった、ということでしょう。
つまりそれだけ、娘が父親を見る目は厳しい!、のです。