2011年04月17日

国民の映画 @ 森ノ宮ピロティホール



 三谷幸喜新作、実力派キャスト共演!の、この舞台、チケットが獲れただけでも



運がよかったのかもしれませんが・・・遠いよ、ステージが遠い席だったよ〜!



 冒頭、スクリーンにニーチェの言葉が引用されたけど、文字が薄くて全部読めま



せんでした・・・。



   「ロビーを含む会場内は撮影禁止です!」と

              言われたので会場外に貼られていたポスターを撮りました。



 暗闇の中、映写機が回る。 その強い光に浮かび上がる二人の男が小日向文世と



小林隆であることに気づき、ちょっとほっとする。 遠くても、シルエットでわかるって



目の悪い人間にとっては大事なことです。



 ドイツ第三帝国宣伝省ヨゼフ・ゲッベルス(小日向文世)は映画や芸術の愛好家。



その腕を買われてナチスの宣伝担当大臣にまで上り詰めた男だが、彼の中には



政治色を奥に潜めた完全娯楽映画をつくりたいという夢があった。 そのために



ドイツ映画界で活躍する人々を集めてパーティーを開き、自分の構想を発表する



つもりだった。 だが、招かれざる客ハインリヒ・ヒムラー(段田安則)、ヘルマン・



ゲーリング(白井晃)の登場により事態は思わぬ方向へ・・・。



 小林隆さんが執事フリッツの役だったので「似合う〜!」と大笑いさせてもらい



(でももし伊藤さんが生きておられたら伊藤俊人さんがこの役をやったのだろうか



・・・とも一瞬考えたりして)、三谷作品に待望の初出演である段田さんが登場から



すっかりコメディリリーフで・・・後半は(なにせヒムラーですから)冷酷無比な



ところを見せるんだろうなぁとわかってはいるけど、若干ステレオタイプっぽい役柄で



少しさみしくなる。



 あたしは以前に『ヒトラー〜最期の12日間』などの映画を見ているので、当時の



ナチス高官についての知識は多少残っているため特に抵抗はありませんでしたが



・・・ゲッベルスの妻マグダ(石田ゆり子)の奔放さにはちょっとびっくり。



 最後にはあれほど狂信的にヒトラーに入れ込む人が、こうなんだ。



 いや、三谷幸喜は実在の人物を登場させてもそれはあくまで触媒的な役割しかなく、



歴史上の事実の余白に物語をつくりだす人だということはわかっていますし、人の



性格は一面的なものでもないし「それっておかしいんじゃない?」と言うつもりでは



なく、自分の中にあるイメージとの落差に驚きつつ、あたしの中にあるイメージに



捕らわれてしまっている自分に気づくわけです。 第一印象はなかなか覆らない、と



いうことですね。



   出てるのはこの方々だけではない。



 今回は登場人物がそこそこ多いのですが・・・ドイツ人のフルネーム、発音が



(席が遠いせいもあって)聞き取れません! だから次々現れる人物が誰が誰やら



・・・『意志の勝利』の話題が出て、やっとその人がレニ・リーフェンシュタール



(ベルリンオリンピックの記録映画『オリンピア』の監督)だとはっきりわかるという



かなしさ(しかも演じてる人を最初は吉田羊さんだと思っていて・・・新妻聖子さん



でした)。 ちなみに吉田羊さんはゲッベルスに取り入りたい新人女優(これは架空の



人物)で、全然イメージと違っていたのでそれもびっくりでした。



 それもこれも舞台が遠いからよ〜、そしてみなさん(特に女性陣は)メイクばっちり



だからよ〜。 石田ゆり子がすぐわかったのは彼女一人が微妙にちょっと下手だから〜。



 「段田さん、出る!」ということに盛り上がりすぎてたあたし、他に誰が出るのか、



誰がどの役なのか一切リサーチしなかったための大失敗です。



 映画監督にして俳優・エミール・ヤニングスは風間杜夫で、斉木しげるさんばりの



一人コントを繰り広げてくださり、さすがかつての仲間!、と感心(感心するところが



違いますが・・・でも当然ながらしめるところはきっちりしめるわけです)。



 白井さんが出ることは覚えていたので、「じゃあケストナーなのかなぁ」と思っていたら



それは今井朋彦さんで、一幕の最後の最後に現れたゲーリング元帥に「誰?!」と



大混乱してたらそれが白井晃さんだった・・・だって、あごのラインとか首筋とか含めて、



“太めの人メイク”ばっちりだったんだもの。



 登場人物が勢揃いしたところで、まず幕。 休憩15分。 前の列に座っていた



20代の女性3人、やはりあたし同様よく見えないようで・・・「あれって誰?」な話を



していた。



 「ヒムラーって、あのしゅっとした人やよなぁ」



 「そうそう、しゅっとした人」



 そうか、段田さんは若い演劇ファンには「しゅっとした人」で通っているのか・・・



それが休憩時間の収穫でございました。



 第一幕は「お揃いになったのでお食事にいたしましょう」なところで終わり、第二幕は



食事が終わり、客人たちが食後の時間を思い思いに過ごしているところから始まる。



 そしてゆるやかに、「実はこの舞台のほんとうの主役はフリッツである」という



前振りがきっちりなされているのに気付く。



 以前、“かわいそうな、哀れなユダヤ人”という立場を脱却しなければ新たな



ホロコースト映画をつくる意味はない、と誰かが発言していたのを見たことがあるん



だけど、それを踏まえるとこの『国民の映画』にも、“今、何故、この題材なのか”を



わからせる義務がある。 当然脚本家もそういうことは意識しているわけで、劇中で



「ヒトラー」という名前は一度も出てこない。 「ユダヤ人」という言葉は2回、



一度目は恐ろしい悲劇の引き金として、二度目は人間の無意識の冷酷さの証明として



使われる。 “盲目的に差別を信じる気持ち”は特に3・11後、対岸の花火では



ないため、脚本家が意識した以上に背筋の凍る台詞になってしまったのはよかったのか



悪かったのか。 そしてマグダの最後の台詞は実際の彼女のその後にしっかりと



つながるようになっており、あたしの中のイメージも守ってもらえました。



 登場人物たちのその後紹介で、レニが死んだのが2003年とわかると観客から



どよめきが起こった(え、そんな最近まで生きてた人なの?、みたいな)。 え、



亡くなったとき「政治と芸術は相いれるのか」みたいな論争が『意志の勝利』・



『民族の祭典』・『オリンピア』を引き合いに出されて新聞記事に踊ったではないか。



ちょっと前、ニュープリントで再上映するとかで話題になったではないか。 



 知られてないんだなー、ってことに驚く(パンフレットの三谷幸喜インタビューで



「エーリヒ・ケストナーもお客さんは知らない人ばかりかも」みたいな記述があって



「まさか」と思ったけどありうる話だ・・・とはいえあたしのなかでもケストナーは



『飛ぶ教室』の人ですが)。



 前半はかなり笑いがちりばめられておりますが、最後の30分でドスンと重くなり、



その重たさは家に帰ってからも続きます。 歴史が示すのは事実だけだけれど、それを



するのは人間、しかも一人一人は“普通の人”。 では、何が普通の人を変えてしまう



のか、そもそも“普通”とはなんなのか。 その基準は時代の空気によって変わるもの



かもしれないけれど、その空気もつくるのは人のはず。 自ら信じるもののために命を



捨てて抵抗するか、うまく空気を読んで立ちまわるか、たとえどんな状況でも「これは



おかしい」と思う気持ちを持ち続けることができるのか。 抵抗の仕方は人それぞれ、



でも誰しもが考えなければいけないこと、ということだと受け止めました。



 一言でいうならば、テーマは「誰しも芸術を愛する権利はある、しかし芸術の側に



だって選ぶ権利はある」ということかもしれない。



 本質的なところでは『笑の大学』に通じるところもあるんだけれど、なにせ実話が



ベースなので歴史的事実の重さが加わっちゃってるためしんどさは計りしれず。



 ただ唯一の心残りは・・・段田さん、結構予想通りだったなぁ、ということ。



 あたしは何を期待していたのかしら。 ・・・近い席で見たかったなぁ。


posted by かしこん at 05:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 舞台・演劇・芸術・イベント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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