「シスターフッド映画」として宣伝されているこちら、映画制作には時間がかかるので流行に乗ったわけではなく、このテーマで・この素材で語りたい内容だったんだろうな、と興味あり。 原作の山内マリコはフェミニズムを意識した作品を描いているし、岨手由貴子監督も女性だし、日本映画での女子の描かれ方に新しいものを持ちこみたいんだな。 それ、是非、観たいです!

同じ空の下、私たちは違う階層<セカイ>を生きている――。
榛原華子(門脇麦)は27歳、東京の松濤の家で生まれ育ち、今も住んでいるお嬢様。 お正月の家族のホテルでの食事会に遅刻してきた彼女は、婚約していた彼と「別れてきました」と言う。 結婚して子供を産むことが女の幸せと育てられてきた華子は、少し焦ってまわりの人たちからお見合い相手を紹介してもらう。
時岡美紀(水原希子)は富山から慶應義塾大学に進学するために上京したが、実家の都合で学費が払えなくなり、アルバイトで学費を賄おうとするも・・・現在はイベント運営系の仕事をしている。
決して交わることのない二人が、あることをきっかけに知り合い、話し合う−−。
住む世界が違う人々の邂逅が何を生むのか、運命という偶然がもたらしたもののこと。

でもそれも相楽逸子(石橋静河)の存在があればこそ。
華子さんはびっくりするほど、「自分の意志はないんですか?」と聞きたくなるタイプのお嬢様。 最初の方は大変イラっとしそうになりますが、「あぁ、この人は想像力や好奇心を持たないように育てられたのだ」と気づき、哀しくなる。 逸子ちゃんは小学校から一緒の幼馴染だが、ヴァイオリニストで一人で海外留学・演奏旅行などしてるので考え方が非常にリベラルで合理的。 お嬢様がたで集まれば集まるほど、逸子ちゃんは周囲になじまないのだが、本人は割り切っていて、華子だけが飾らずに話ができる相手という感じ(華子は他の子と違って逸子の陰口など言わないから)。
一方、美紀の実家の風景にはあたしも見おぼえがあり(田んぼを突っ切るように建つ高架のバイパスとか、シャッター商店街とか、車社会とか)、東日本北側の光景に、なんだか泣きそうになった。 あたしは美紀の側なので、「あぁ、なんで慶應に行っちゃったのだ、ちょっとレベルを下げても国立大学に行けばよかったのに(教科の負担は増えるけど、こんな明確なヒエラルキーのあるところに行かなくても)」とほんとに美紀に言いたかったよ! それに国立大学ならば授業料免除制度があるから、あとはバイトで十分カバーできるのに・・・と、いろいろ身につまされる。 ただ華子の生活のほうが「あぁ、お嬢様って大変なのね・・・」と思うことは多かった。
華子のすぐ上の姉に離婚歴があり、「華子のやりたいようにしなさい」と言ってくれるけど具体的なアドバイスはない(自分が遊びたいの優先)。 そんな姉が篠原ゆき子さん(『相棒』の元白バイ隊の出雲麗音さんです)だとすぐ気づかなくて、この人はほんとにいつも違う感じだわと感嘆。 いちばん上の姉の夫が山中崇さんで、程よいマスオさん感が素敵(だから華子は甘えたり、相談したりするんだろう)。

逸子ちゃんの仲立ちで、二人は会う。
その会話の最初のかみ合わなさというか、浮世離れ感にドギマギしますが、同世代の女子ということで話がないわけではなく。 お互いにないものというか、違う世界にいるひとと話すことで見えてくるものがある。 逸子ちゃんが違う階層を意識せずに動けるのは、芸術を軸に生きているからか(芸術とスポーツは階層を流動させる装置)。 華子は美紀から得るものが多かったと思うが、それに匹敵するものを美紀に返せているかは疑問。 しかも華子が想像力を発揮したのが「もし自分に子供が生まれて、その子供をどこでどう育てるのか」きっかけだったし、社会構造を見る必要が彼女にはないんだろうな・・・せつない。

美紀の親友は、高校が同じで一緒に慶應にも行った平田里英(山下リオ)。
こっちの二人は、「あたしたちって東京の養分だよね」と搾取されている現状をわかったうえで笑い飛ばし、その中で自分のできること・したいことをしようと前を向いて進み始めてる。 自転車の二人乗りって青春だなぁ、きゅんとしちゃうよ。 水原希子・山下リオのふたりはすごくよかった! 「自分は人に世話をかけてしまう、だからせめて迷惑を最小限に」という考え方は小市民的かもしれないが、彼女たちにできるせいいっぱいのリスクヘッジ。 華子たちの階層の人は、多分「自分が人に迷惑をかけることがある」という発想自体がないんだろうな・・・大切に育てられたから。 けれどそれは「〇〇家の子」であるからで、個人としての評価ではないんだよね。
行き違う見知らぬ人ともふと手を振り合ってみたり、あ、地元にいたときそういうことよくあったなぁ、と個人的な記憶が出てきました。 神戸に暮らすようになってからそういうことはない。 あたしが都市に心を開いていないのだろうか。
シスターフッド、女性の自立など、ほっこり要素が静かな中にも描かれ、同時に女子への抑圧もしっかり描かれているんだけど、やっぱり描写は静か目。 それ故に、登場人物たちの表情が多く語る。 自分で自分の人生を選択していくという、当たり前なんだけど難しいことが軽やかに進んでいくおだやかさ。
でも、ラストシーンは結局お嬢様とお坊ちゃまの出逢い直しの話のようにも見えて・・・“お貴族様”が多くのものを得たような気がする。 下層のものとしては、そういう人たちにかかわらずに生きていく、というのが平和なのかな〜。
posted by かしこん at 04:19| 兵庫 |
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