2019年10月03日

沈黙する教室 1956年東ドイツ − 自由のために国境を越えた高校生たちの真実の物語/ディートリッヒ・ガルスカ

 先日観た映画『僕たちは希望という名の列車に乗った』の印象が深く残っており、原作を読むことに(というか、映画の前から図書館に予約を入れていたのだが、やっと来てくれたのである)。
 クラスメイトの中の一人であったディートリッヒ・ガルスカが、その当時のこと・その後のことを閲覧可能になった資料を掘り起こしてまとめたもの。 ジャンルとしてはノンフィクションながら、著者はプロではないためか翻訳の問題なのか中途半端感がいなめない。
 逆に、これからあんなドラマティックな映画を作ったのがすごいな、と思った。

  沈黙する教室.jpg 1956年の秋、東ドイツの小さな町シュトルコーの高校で起きたある出来事。 「西側のラジオがハンガリー動乱の犠牲者にむけた黙祷を呼びかけてるぞ!!」という級友の言葉に応えた形でクラス全員が授業中に5分間沈黙を守った、それも2回。 その当時ソ連支配下の社会主義国家であった東ドイツにおいて、それはいつしか<国家への叛逆>と見なされるようになった・・・。

 映画の舞台となった町とは違った(もっと小さい町だった)。 黙祷も2分ではなく5分だった。 やってることの意味を彼らはちょっとわかっていた。 ここには映画には描かれていない現実がある。
 そして映画には書かれていない、西側に行った人たち・いかなかった人たちのその後、40年後の同窓会についてのほうが多くページを割かれている。 それがまたせつなく・・・だからベルリンの壁は築かれることになってしまったのか、それを撤廃するまでにどれだけの人が犠牲になったのかと考えずにはいられない。 東から西に行ったとしても西は<地上の楽園>ではないし、そもそも人間のいるところに楽園などありえないのに、何故そのような宣伝をしてしまうことができるのか(それにだまされてしまう人を作り出す状況が生まれるのか)。
 これは当時の東西ドイツだけではなく、のちの北朝鮮や中国にも言えること。 言論の規制と独裁にいいところなど何もない。

 筆者は自分を「私」と書いたり、「私たち」と書いたり、「ディートリッヒ」と書く。
 どこまで意図したものかはわからないが、それがときにものすごく効果的で、ときに違和感を抱かせた。 映画を観て状況を把握できていなかったら、読み通せたかどうか自信がない。 決して長い本ではないのだが・・・意向を確かめていないクラスメイトをかばうためか個人情報をできるだけ出さないためか、かなりぼやかされたり省略されているところがあるので。 きっかけになった出来事自体は同じだが、全面的にオリジナルキャラクターで物語を紡ぎあげた映画版のディテールにノンフィクションのほうが及ばないのだ。
 とはいえ、「もしこの時代に自分が生きていたら」と考えさせられることは必定で、つまり「もうそんな世の中にしてはならない」ということなのだ。

posted by かしこん at 23:59| Comment(0) | ☆ 読んじゃいました | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする