「あぁ、そういえば邦訳が出たから読みたいと思っていたのにすっかり忘れてたなぁ」とその本の実物を見て思い出す。 確か、発売時期になんかの書評で取り上げられていたのです。 奥付の発行は2015年9月ですよ・・・4年以上も忘れていたとは。 でも、逆に言えばその後、話題に出なかった(新事実が判明していない)ということでは。
犯罪ノンフィクションを結構好んで読んでしまうほうですが、ゾディアック事件に関しては未解決なのと専門の邦訳書が少ないこともあり、あたしの知識は映画『ゾディアック』(デヴィッド・フィンチャー監督)に上書きされてしまいました。 映画の原作であるロバート・グレイスミスの『ゾディアック』邦訳を読んでも「映画と固有名詞のカタカナのふり方が違う(トースキーがタースキーになっている、など)、なにより最有力容疑者の名前が全然違う」とパニくるほど。 本書でもかなり違うので(トースキーはトスチに、ヴァレーホがヴァエホーに、など)、どれがどれなのか納得するのに時間がかかって。
でもある程度わかってきたら、本書の主張は映画ともグレイスミスの主張とも符合すると感じられて「おぉ!」となる。
しかし本書の読みどころはゾディアック事件の真実というよりも、親に捨てられた子が過去を振り切ることのほうだった。

表紙は著者の父親の写真。
2002年5月、39歳であった“私”(筆者)は初めて実の母親の名を知る。 素晴らしい養父母に育てられ愛情を感じてはいたが、実の親には見捨てられたという感覚からずっと逃れられない著者は、母親に実の父親のことを尋ねるが、母はあまり覚えていないという。 それならば、と自力で調べ始めたら・・・父親はゾディアックだったのではないかと考えに至った。
何故、そんなにも自分の生物学上の両親のことを知りたがるのか不思議でたまらなかった。
養父母がいて関係が円満なのだからそれでいいではないか。 知ったからっていいことばかりじゃないのに、とあたしは思ってしまったが、筆者は信心深い養父母から愛と赦しの大切さを学んでしまったので、生物学上の両親のことも愛して赦したくてたまらないらしい。
遺伝上の父親と別の母親との間に生まれた子供(筆者にとっては義妹弟になる)に、自分が見つけ出した手掛かり(父親はゾディアックらしい)を突きつけて「兄妹だから(一緒に受け止めよう)」みたいに迫るのは・・・すげー迷惑だと思うんですけど、筆者はなかなか気づかないし(自分の妹だというだけで通じ合えると思っていた、と書いている)、「実の親に捨てられた悲しみは一生付きまとって離れない」と自分のことだけでなく妹弟のことも含めて断言している。 彼とは違う形で対処している可能性を考えに入れてない・・・「すべてを赦し、受け入れる」という筆者の想いは素晴らしいと思うが、それをすべての人に強要しないでほしいな、と感じてしまった。 彼はそうしなければならなかったのだろうけど、誰もがそうではないのに。
とはいえ、父親の親族との交流が描かれると、「なるほど、そうやって縁が続く・親戚の輪が増えていくのは面白いかも」と思わされるけれど・・・もし自分だったらそこまでしたいだろうか、したくないとしたらそれは何故なのか、と考える。
筆者は「愛されたい」という渇望に忠実に行動している。 愛されたいから自分も愛していく、という感じ? それでやっと自由になった。
あたしは、自分が愛していない人に愛されることを求めない。 その気持ちに至ってようやく自由になった。
多分、到達した気分は似ているけど、その過程は千差万別なのだ。 筆者の心の平穏に祝福あれ。