2019年09月13日

劇場版おっさんずラブ LOVE or DEAD

 あぁ、ネタバレが世の中にあふれている・・・早く、早く観ておかなければ・・・。

  劇場版おっさんずラブP.jpg おっさんたちの愛の頂上決戦、ついに完結。

 あれから一年がたち、春田創一(田中圭)は上海・香港での勤務を終えて帰国、黒澤武蔵(吉田鋼太郎)らが待つ天空不動産第二営業所に帰ってきた。 新入社員の山田正義(志尊淳)など新しいメンバーもいた。 しかし本社の特別プロジェクトチーム<Genius7>のリーダー狸穴迅(沢村一樹)が営業所に戦力外通知。 状況が理解できない春田たちの前に現れたのは、狸穴の右腕という立場の牧凌太(林遣都)だった・・・という話?

  劇場版おっさんずラブ3.jpg 主要メンバー勢ぞろい。
 ドラマの映画化って、やはり難しいと思うのです。 同じ感じでやるならスペシャルドラマでよくない?、となるし、「どうせ映画にするなら」とスケールを大きくしちゃって(しなきゃいけなくて)世界観が壊れたり。 個人的には『相棒』もクラシカルなミステリっぽい事件のときがいちばん“らしい”と思うのですよ。 そんな中でたまに大きな事件や社会派なのがあるから引き立つわけで、最初から『相棒』は社会派じゃなかった・・・映画化と高視聴率に引っ張られてシリーズそのものの方向性も変わってしまった気がする(勿論、長く続くシリーズはマイナーチェンジを余儀なくされるものではありますが)。
 『おっさんずラブ』にはそうなってほしくなかった・・・でもそうなっちゃったのね。

  劇場版おっさんずラブ5.jpg ジャスくん、かわいい!
 『Heaven?』の川合くんと同一人物とは思えない山田ジャスティスに、志尊淳の実力を感じます。 そう、『おっさんずラブ』の面白さとは、役者たちの全力投球と化学反応。 ドラマ版が完璧だったというわけではない、脚本や演出には未熟なところがあった。 でも役者さんたちの熱量でカバーできてしまっていたからあんなにも盛り上がり、今観たって面白いといえる。
 しかし残念ながら、映画では粗が出すぎた。 みなさんの熱演をもってしても覆い隠せないスタッフ側の力量不足と経験不足がはっきり見えてしまった。 不意に与えられたチャンスをものにできなくてどうするのだ。

  劇場版おっさんずラブ4.jpg 勿論、役者さんたちは期待に応えてくれています。
 吉田鋼太郎さん、サイコー! なんてキュートなの!
 何回も見たい場面はだいたいアドリブ展開なんじゃないのかな。 そういう、舞台のような“リアルタイム感”にワクワクしてしまうということなのかも。 沢村一樹もこの世界観にはまろうとしていたのは感じたし、うまい人たちの情熱は眩しい。

  劇場版おっさんずラブ1.jpg このすがりつきかた、ステキ。
 でも、一度はケリをつけたはずの気持ちにまた向き合わされる部長が不憫・・・。 というか武川さん、どうしたの?、とか居酒屋わんだほうの移転改装とか、蝶子さんとマロとか、「この一年の間、何があったんでしょう」のほうがむしろ知りたいというかね。
 そんな中、前半の牧くんの「これが“ツンデレ”というやつですか!」な言動にドギマギ、そりゃ春田くんよそ見なんてできませんよね・・・と傍から見ると二人がお互いを思っていることはわかるのに、本人たちはそれをわかってないというのがせつないのですよ。

  劇場版おっさんずラブ2.jpg 死にそうな目に遭ってやっと素直になるのかい!
 それが若者のラブストーリーなのかもしれないけど。 ドラマで割と丁寧に追いかけてきた心の動きが、映画ではかなりすっ飛ばされた感。 ハイスピードカメラ撮影も多すぎて悪目立ち・・・前半はそうではないのだが、後半は省略が多くて! その間のことは想像してくださいということなのか・・・ほんとに大事なことも言っているのだが、その結論に至る葛藤がこれまで全然見えなかったので「え、いきなりそれ? それで大丈夫なの?」って思っちゃう。 違う意味でハラハラする。
 そう、ハラハラしてしまったのだ。 これで終わりになるのか! それでいいのか!、と。

 個人的には、<特茶>×はるたんのCMってそういうことなのか〜、とわかり、直接描かれていなくても彼らの生活は続いている、と思えるのはうれしいことだった。 映画の不完全燃焼感を、特茶のCMがフォローしてくれた形に。
 しかし! 『おっさんずラブ』のドラマの続編が10月から始まるというではないか! これで終わりじゃないのかよ!

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2019年09月12日

船に乗れ! T・U・V/藤谷治

 『蜜蜂と遠雷』の流れで、音楽小説を。
 これも何年も積みっぱなしにしていたような気が・・・でも奥付を見たら3年ほどだったので逆に驚く。 とはいえこれは再文庫化されたもので、最初に本が出たのは2009年、本屋大賞ノミネートは2010年である。 約十年、と言われればそんな感じもするし、「えっ、そんなに前なの?」という気もするし。 あぁ、時の流れって。

  船に乗れ1.jpg船に乗れ2.jpg船に乗れ3.jpg 音楽大学付属高校での3年間。
 “僕”、津島サトルはチェロ専攻で芸術大学付属高校を受験するも、あえなく失敗し、祖父が創始者である新生音楽大学の付属高校に入学する。 受験の失敗は筆記試験のせいで、チェロ奏者としては才能ある、自分は特別な存在だと考えている“僕”にとって三流の音楽高校に進むことは屈辱だったが、そこで様々な人と出会い・・・という話。

 ピアノではなく、こっちは弦楽器とオーケストラの話。
 しかも天才ばかり出て来た『蜜蜂と遠雷』と違って、まず楽譜通りに演奏することもできない人たちが大半。 それ故に音楽と格闘し、じたばたする様が素人の読者にわかりやすく共感しやすい部分多し。 「音楽を文章で表現する」難しさはあれど、日常生活の描写が多いのでむしお音楽が少ないぐらいじゃない?、と感じてしまう。
 というか、これは音楽小説なのだろうかとすら思う。 勿論、彼らの生活において音楽は重要で大半を占めてはいるが・・・あくまで音楽は素材にすぎず、本質はビターな青春小説。
 何故か、あたしはずっと村上春樹の『ノルウェイの森』を連想・・・いい年になってから若きを回想する、という形式だからかしら。 語り手である“僕”がほんとにダメなやつだからかしら(また自分はちっともダメだとは思っていないところも)。
 サトルくん、自分は精神的に“高貴な存在”で、芸術を愛し哲学を理解し、まわりの他の人とは全然違うと思っているのは自意識過剰系の男子としてよくあるパターンだが、同級生のヴァイオリンを弾く女子に「美人だから」という理由で一目惚れしてしまうこともまた男子としてよくあるパターンだと自覚できないのがダメなんだよ・・・そのくせ南さん(恋に落ちた相手)がコバルト文庫とか読むみたいだとがっかりしたりして・・・コバルト読む女子だってシェイクスピアも読めばコクトーも読んだりするんですよ! 自分だってニーチェが好きとか言いながら隠れてエロ本見てるじゃないの!、とガンガンつっこみながら読んでしまいました。
 時代設定的にサトルくんはあたしよりも10歳ぐらい上かな、と感じたせいもあり(主人公の名字が津島なのはあまりにもベタではずかしい!)。 カタカナ表記が違うのがあるのは、あの時代はそう言っていたのだろうか?、それとも校正のチェックミス?、それともサトルくんがそう誤解していた?(自分はすごいとうぬぼれているが、実は知識も大したことなかったことのあらわれ?)、どれですか! 気になる!
 そんな“僕”の苦い成長となった三年間だけど、終わりはいささか駆け足だったかな。 最終楽章にはもっと余韻が欲しい。
 いまいち満たされない気持ちになったのは、あの友情は大事なものだったと回想している割に共に過ごした人たちへの描写が少ない。 鮎川さんと伊藤くんは別格だとしても、他の人たちへの表現が急なんだよな・・・そこもまた男子と女子の違いなのかもしれないけど。
 とはいえ、三冊ほぼ一気読みではありました。 ただこれを<三部作>と呼ぶのは違う気がする。

ラベル:国内文学
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2019年09月10日

永遠に僕のもの/EL ANGEL

 アルゼンチンに実在する殺人者の話で、製作はペドロ・アルモドバル。 もうそれだけで「観るべき感じ!」がしてしまう。 実際に事件の知識はないのだが・・・。

  永遠に僕のものP.jpg 堕ちる
  1971年、天使の顔をした殺人犯に世界は発情した。

 1971年のブエノスアイレス。 17歳のカルリートス(ロレンソ・フェロ)は「もっと自由に生きたらいいのに」と周囲を見渡して思いながら、心の赴くままにあいた窓から他人の留守宅に入り込み、レコードをかけて踊りながら、そこで気に入った品を盗んで出ていく。 そこには全く罪悪感などない。 善良で優しい両親に愛されて育っている彼には家庭に問題もないが、うすうすカルリートスの行状に気づいている母親から転校を言い渡される。 新しい学校で出会ったラモン(チノ・ダリン)は粗雑で乱暴だが、カルリートスは彼を一目で気に入る。 ラモンもカルリートスの美しさと当たり前に罪を犯すギャップに魅せられ、二人はコンビを組んで(時にはラモンの父親も絡んで)様々な犯罪に手を染めていく・・・という話。

  永遠に僕のもの3.jpg 高校で出会った二人。
 ラモンはわかりやすい男性系ハンサムで、単純バカなところが気に入ったんだろうか? お互いにまったく違うから。 しかしラモンはどんどんおバカ寄りになっていき(泥棒しているところを目撃されたりしているのに、テレビのオーディション番組に出るとか! 松本清張の『顔』の恐怖はないんだな!)、その当時の“男らしさ”みたいなものの窮屈さを感じる。

  永遠に僕のもの2.jpg 一方、カルリートスは。
 お母さん(セシリア・ロス)が彼を呼ぶときは「カルロス」と聞こえる(字幕では「カルリートス」)。 お母さんはドイツ系だということがわかり、なんとも微妙な気持ちに(おかあさんが『オール・アバウト・マイ・マザー』の主人公だとあとから知り、衝撃だった)。 カルリートス、ときどき瀬戸康史にすごく似て見えるときがあって、「似た系統の顔立ちなのか?」と思ってしまう。 化粧すると女性っぽい、角度によっては天使にも妖艶にも見える美形、なのに服を脱ぐと幼児体形というギャップ。 なるほど、ロレンソ・フェロという逸材を見つけたが故のこの映画!、ですね。

  永遠に僕のもの1.jpg 金髪のくるくる巻き毛、というのが絵になる。
 70年代のアルゼンチンってそんな感じだったのですか?、というのは興味深かった。
 ただ事件の実録ものというよりは、実際の出来事をベースにした幻想という感じ。 人を殺すのもその場の勢いだったりで計画性はない。 むしろ重視される犯罪は窃盗のほうで、「あれ、あたしが期待してたものとなんか違う」と肩透かし気味。 殺人に対してもっと覚悟を持った人を描いてほしかったのだろうか、あたしは。 彼は道徳や常識などに縛られる気は最初からなく、自分が何をしているのか気に留めていないのが(わかっていない、ではなく)ずっともどかしかった。
 そんな挑発的なところがいかにもペドロ・アルモドバル的。 でももう彼には撮れないだろう勢いと粗削り感が、アルゼンチン映画界の若手がどんどん出てきている証拠ですかね。
 BL的要素はそんなになく、ただカルリートスがラモンに恋してたというだけなので・・・片思いが行動原理の引き金だったというのは、それはそれで悲しいけど。
 「でも、ほんとにきれいな顔だよね!」と上映終了後に大学生ぐらいの女子たちがキャーキャー言っていて、「なるほど、やっぱりそうなんですね」と妙に納得。 ティモシー・シャラメも美少年なんだろうな、とは思うのですが、そのことだけであたしは盛り上がれないことに改めて気づく。

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2019年09月09日

虫刺されの薬を買うまで

 なんか、今シーズン、やたら虫に刺されているのである。
 ここしばらくは一年に一度刺されるかどうか、まったく刺されない年もあるのに、である。
 もしや家でダニとかがすごく増えているのだろうか、と掃除機をかけまくり、洗えるものは全部洗って・・・それでも刺されているので、バルサン的なものを家中で一斉に焚かねばならないだろうか・・・というところまで追い込まれ、ふと気づく。
 「あ、なんかかゆい!」とか「なんでここ赤くなってるの!」と気づくのは仕事帰りの電車の中だったり、帰宅してシャワーを浴びているときだった。
 刺されての反応が年齢とともに鈍くなっているとしても、あまりに遅くないか?
 ・・・もしかして、仕事場かその周辺で、刺されているのでは?
 仕事場までの徒歩で、アゲハチョウや何かのハチを毎日のように見るのである。 セミの鳴き声も時間差含んで4・5種類が聞こえてた。 側溝でメタリックのしっぽを持つトカゲっぽいものも見たし、舗装された川にはスズメやムクドリだけでなく、キジバトやカモも水を飲んでいる。 自然豊かというわけではないが、都市の中では緑も生き物も多いほうではないか? てことは蚊もいるのでは?
 ということで、原因は家ではないのではないか、と考えることにした(家になにかいる、と意識していると、何を触ってもかゆい気がしている)。
 それまでは掃除その他に意識がいっており、虫刺されの薬を買うことを忘れていた。 しかしそうではないのだ、と思うと、帰りにドラッグストアに寄ることができたね! そしてそれまでは「大人なので」かゆくてもがまんしてたのですが・・・薬を塗ったらかゆみは割とすぐにおさまるね! メントールでスースーする心地がいいよ! なんでもっと早く薬を買うことに気づかなかったのか・・・。
 あたしの血はあまりおいしくないのだ、産卵のために命がけなのかもしれないが、もうあたしを狙わないでくれ!
 ま、でも、薬があるから、気は楽になったけど。

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2019年09月07日

今日は9冊。

 夏がぶり返したかのような気候に、なんだかもうこりごり。 いや、例年まだ今頃は暑いのですが、最低気温はさすがに25℃を切っているはず・・・なのにまだ27℃とかある今年。 早く涼しくなってくれ!

  わが母なるロージー ピエール・ルメートル.jpg わが母なるロージー/ピエール・ルメートル
 なんとカミーユ・ヴェルーヴェン警部が帰ってきた!、ということで事前告知が派手でしたが、実際手に取ってみたら本がめちゃめちゃ薄い! どうやらおまけ?的に書かれたものらしい。 シリーズ三部作の時間軸的には『その女アレックス』と『傷だらけのカミーユ』の間の出来事ということで、2.5作目だということです。

  東京會舘とわたし1旧館.jpg東京會舘とわたし2新館.jpg 東京會舘とわたし/辻村深月
 東京會舘をめぐるこの100年の出来事、ということで、大正から令和へかけての物語。 こういう近現代っぽい設定が好き! 少女マンガの大河ロマンみたいではないか。

  オイディプスの刃 新版.jpg オイディプスの刃/赤江瀑
 おお! 何故いまこれが復刊!
 服部まゆみの復刊と同じイラスト・装丁の方のようですが・・・昔の装丁がよかったわけではないが、なんかちょっと軽い感じになっている気が。 でもそれが今っぽいのかなぁ、新しい読者を獲得するための努力なのかなぁ。

  家なき子1新訳決定版.jpg家なき子2新訳決定版.jpg 家なき子【新訳決定版】/エクトール・マロ
 子供の頃、読んでいますが(アニメは途中からかな?)、こんなに厚くなかった。 きっと子供向けの抄訳版だったのだろう。 完訳が出ること自体珍しいようなので、買っておく。 時代背景とか、今読んだほうが理解が深まるかもしれぬ(というか深まらないとまずい)。

  幽霊島 ブラックウッド平井呈一.jpg 幽霊島 平井呈一怪談翻訳集成/A・ブラックウッド他
 ジョン・ポリドリの『吸血鬼』も収録の、ホラーの王道古典13編収録。 むしろ平井呈一の名に反応してしまいましたが、紀田順一郎の解説によると平井呈一本人は品行方正とは程遠いとんでもない人物だったとか!(いま荒俣宏が年表を作成中とのこと、気になる)、そういうこと全然考えたことなかったなぁ!

  堕落刑事マンチェスター市警エイダン・ウェイツ.jpg 堕落刑事 マンチェスター市警エイダン・ウェイツ/ジョセフ・ノックス
 新たな警察小説シリーズ開始!、ですが、続きが出てくれるのかどうか・・・(翻訳が池田真紀子さんなので可能性は高いと思うが、新潮文庫だし)、と思って買っておく。 一定の売り上げがないと続巻が出ないもんね。

  ソウナンですか?05.jpg ソウナンですか? 5/作画・さがら梨々 原作・岡本健太郎
 無人島遭難生活も一か月、安定期に入ったのでしょうか・・・「少年誌・青年誌にはパンチラが絶対必要」みたいな哲学(?)を感じていたたまれない・・・。 『山賊ダイアリー』ファンとして読み始めたため、男ウケ視点でのJK描写がつらいぜ・・・。
 サバイバル状況下でのタイプがまったく違う4人の友情物語なんですけどね・・・そこは好きなんだが。

 エドワード・ゴーリーのプチ特集が組まれていたり、ジェフリー・ディーヴァーの新刊告知も出ていたりと、本棚はすでに秋モード。 あたしも早く秋の服が着たい・・・。

ラベル:マンガ 新刊
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2019年09月06日

ロケットマン/ROCKETMAN

 比較してはいけないとわかっているが・・・本作の監督デクスター・フレッチャーはブライアン・シンガーがクビになったあと残り二週間の撮影を仕切り、『ボヘミアン・ラプソディー』を完成させた人だということなのでついほんのちょっと思ってしまう。 あれほどでなくても、近い感動があるのではないか・・・とつい・・・どうなんだろう、なんかもやもやするので、早々に自分の目で確かめることにする。

  ロケットマンP.jpg そのメロディは、世界中を魔法にかける。

 ロンドンの下町に住む人見知りの少年レジナルド・ドワイトは、音楽の神に祝福されていたが両親の不仲で愛を感じられずにいた。 だが音楽を通じて王立音楽院に進み仲間もでき、エルトン・ジョン(タロン・エガートン、エジャトン?)という新たな名前で前に進むことができた。 詞を書くバーニー・トーピン(ジェイミー・ベル)と運命的に出会って作詞作曲のコンビを組んでからは世界的にヒットを飛ばすようになる。
 だが、大スターの階段を登っていくにつれ、エルトンの孤独は深まっていき・・・という話。
 いきなりのミュージカル展開にびっくりする。
 えっ、音楽映画じゃなくてこれそのまま舞台のミュージカルにできちゃうタイプ? まだミュージカルを完全に受け入れていない身としては厳しいんですけど!、と誰かに訴えたいような気持ちになる。
 ここで思い出したのがデクスター・フレッチャー監督の『サンシャイン/歌声が響く街』。 これも音楽を使った映画かと思ってたらミュージカルだったんだよね・・・なんかこの唐突感、通じるものがあるわ〜。

  ロケットマン4.jpg 町のみなさんを巻き込んでの歌い踊り。
 もうちょっとうまいことシーンを繋げなかったのか、それともこのままブロードウェイミュージカルにするつもりなのか。 ものすごい“舞台感”が全体から漂っている。 いや、そもそもこれはミュージカル舞台の映画化なのか?、ぐらいの。 それであたしはちょっと気持ちが引いてしまった。

  ロケットマン5.jpg そんな中、バーニーの存在が唯一のよりどころ。
 うおぉ、ジェイミー・ベルったらすっかりいい役者になった!、と近所のおばちゃんみたいな気持ちになったけど、この映画の中でまともな感覚を持っているのがバーニーしかいないので・・・ほんとに彼がカッコいいと思うわけです。
 ミュージカルでエルトン・ジョン役を演じているので、歌は全部タロンくんが歌っている。 それはすごくうまいのですが・・・原曲を聴くつもりでいるとちょっと微妙? 映画用にかなりミュージカル調にアレンジもされてるし・・・その点も原曲にほぼ忠実、アレンジはアップデートのみだった『ボヘミアン・ラプソディ』と徹底的に違うところ。

  ロケットマン2.jpg でも“Your Song”ができる過程には感動!
 個人的にはここがピークでした。
 ヒット曲が沢山ある人は仕方がないんだけど、エルトン・ジョンのヒット曲ってこれだけじゃないよねぇ!、“グッバイ・イエロー・ブリック・ロード”もスルーされるのかと思ったし!(後半の重要な場面で使われます)、と「あの曲がないんですけど」問題は発生します。
 映画のサントラよりも、エルトン・ジョンのベスト盤が欲しくなる。

  ロケットマン1.jpg 左の人がのちにマネージャーとしてすべてを仕切るジョン・リード(リチャード・マッデン)。
 ジョン・リードは『ボヘミアン・ラプソディ』にも出てくるから・・・やっぱり比べちゃいますよね。 まだ若い頃だし演じる役者さんも違うのですが、エルトンから見たらジョン・リードは<悪役>なんでしょう、全然キャラに深みがない・・・。
 そう、エルトンのセラピーに観客が付き合わされている、みたいな感じというか。
 親に愛されない、という恨みはここまで人を蝕むのか・・・と自らも省みて戦慄する。 母親役のブライス・ダラス・ハワードがまた強烈だということもあるけど。
 酒やドラッグにおぼれ、同性愛者という苦悩も抱えて孤独にさいなまれる描写は痛々しくもあれど、あまりに類型的で、「これ、別にエルトン・ジョンじゃなくてもよくない?」、と。 親に愛されない悲しみはわかったよ、でもあなたは音楽の神様に愛されてるじゃないか、音楽を通じて多くの人に愛されてるじゃないか、でも本人はそのことに気づいていないもしくは大事なことだと思っていないのかと感じてしまい、ひどく悲しくなる。

  ロケットマン6.jpg おばあちゃんだってずっと理解者だったじゃないか。
 この映画の中には音楽を聴く、エルトンのステージを見に来る観客視点が不在なのだ。 そりゃ曲は作った人のものだけど、発表されたら聴いた人のものになるのでは(それこそ『僕の歌は君の歌』、“君”がすべての人になって、曲は永遠の輝きを手にするのでは)。 なのにここにはエルトンの周囲の人間しか出てこないし現れないのがもどかしい。 だからあたしも置き去りにされたような感じで、バーニーに救われるだけ。
 むしろこの映画で描かれなかった後の時代のほうが重要なんじゃないのかな(エンディングテロップでさらっと流されるけど)。
 エンドロールでタロンくんの姿と実際のエルトンの写真とを対比させてるけど、それも「ここまで再現したんですよ、すごいでしょ?」と自慢しているみたいでなんかダサい・・・。 ベルの音で場面転換、というのはデクスター・フレッチャーのアイディアだったのかな? それでも、クビにはなってもブライアン・シンガーのほうが監督としてのレベルは上なのかなぁと感じさせられたり。
 あぁ、やっぱり『ボヘミアン・ラプソディ』は奇跡的な作品だったのだなぁ、あの編集はほんとに素晴らしいよ、としみじみ(結局比較してるじゃん)。
 でも、『ボヘミアン・ラプソディ』を悪しざまに罵っていた人たちは『ロケットマン』をほめていたりする。 そこは好みなんですねぇ、決して相いれないものが世の中にはあることを実感して、また悲しくなる。

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2019年09月04日

蜜蜂と遠雷/恩田陸

 文庫発売と同時に買っていたのですが、恩田陸だからすぐ読めるだろ、と思ってちょっと放っておいたら・・・先日、映画の予告編を観てしまい・・・「やばい、もう公開しちゃうじゃないか!」とあわてて、読むことに。 あたしはいろいろ、遅い。

  蜜蜂と遠雷1文庫.jpg蜜蜂と遠雷2文庫.jpg なんか、『はちみつとえんらい』だと思い込んでた・・・ハチミツ好きだから。
 最近、注目の芳ヶ江国際ピアノコンクールにて、書類審査・オーディションを経て第一次予選の出場者が決まる。
 その中には、かつて天才少女ピアニストとして名を馳せながら母親の死とともに業界から姿を消した20歳の栄伝亜夜、サラリーマンとして勤めながらもピアニストをあきらめきれない28歳高島明石、名門音楽学校に在籍中で完璧な才能とスター性を併せ持つ19歳マサル・カルロス・レヴィ・アナトール、そして養蜂職の父親とともに世界中を渡り歩くが故に自分のピアノを持たない(けれどすごい実力者がバックアップしてた)16歳の風間塵がいる。 そしてコンクールは始まる・・・という話。

 音楽を言葉に起こすのはすごく大変だっただろうと思うのだけど、読む分にはぐんぐん進みます。
 ただ、恩田陸ってこんな文章だったっけ?、と首をひねること多々。 たとえば同じ表現が近い範囲で何度も出てきたり、「図抜ける」という表現の1ページ後ぐらいに「ずば抜ける」が出てきたり・・・わざと、なのか?
 あまりに長編は直木賞を獲れない傾向がかつてはあったけど、今は獲れるんだなぁ、時代は変わったなぁ、としみじみする(『永遠の仔』や佐藤賢一『双頭の鷲』が獲れなかったのは何故か今もわからん)。 昔と比べてレベルが、と言うような自分になってしまっていることにもショックを覚え。 恩田陸らしさは少なめなんだけど、それで直木賞を獲ってよかったのかなぁ、『夜のピクニック』のほうがらしかったよね。
 とはいえ浜松国際ピアノコンクールのことを知れたのはよかった。 これを読む前にEテレのコンクールのドキュメンタリーを見たのだけれど、牛田智大くんを一目見て「かわいい!」と思ってしまった。 浦井健司にちょっと似ててさ。
 個人的にラフマニノフの協奏曲は3番より2番の方が好きだしピアニストのセンスが出やすいと思ってるけど、作中で3番を「ピアニストの自意識ダダ漏れ」とか表現されちゃうと、聴いたことのない人に先入観を植え付けるのではないか、とドキドキ。 もし3番が好きだったら、不愉快になってたかもしれん(3番を選ぶ演奏者もいるのだから)。
 あと、放浪の天才ピアニスト、風間塵が16歳という設定なのですが・・・読んでいて浮かんでくる姿は6歳・・・。
 コンテスタント(出場者)だけでなく師匠やら審査員やらにも天才が多すぎる。 だから天才ではない明石くん視点は興味深く面白い。 エピローグのとってつけた加減がすごい。 二次審査から三次審査あたりがすごく面白かったのは、あたしがあまりコンクールに興味がないせいだろうか。 でもドキュメンタリーでは本選もドキドキだった。
 本文に出てきたピアノコンチェルト、どんどん聴きたくなってしまいYouTubeをあさることに。 弾き手やオケによって同じ曲でも全然違うように聴こえるんだ!、ということにあらためて驚かされる。
 まったくもって、音楽は素晴らしい。 それを伝えてくれる物語。
 でも、読む前にドキュメンタリーで牛田くんが浜松駅の施設にある誰でも弾いていいピアノでぎりぎりまで練習する姿を見てしまったから・・・それを超える印象深いシーンはこの物語に中にはなかったかな〜。
 虚構だからこそ現実を鋭く抉り出すことができるんだけど、現実はいつでも虚構を軽々と乗り越えてしまうのだ。

ラベル:国内文学
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2019年09月02日

存在のない子供たち/CAPHARNAUM

 予告を観たときに・・・「この映画はヤバい」と思った。 観なければヤバい!、と。
 『灼熱の炎』以降ひどくレバノンが気になっているが、最近レバノンから続々社会派映画が出てきている。 世界中を自分の目で見て回らないあたしは、その土地の“今”を撮ろうという強い意欲を持つ人たちの心意気を見届けたい。
 それと、子供が主役なのも惹かれてしまう原因かと。

  存在のない子供たちP.jpg 両親を告訴する。こんな世の中に僕を産んだから。
  少年ゼインは自分の誕生日を知らない――。
  過酷な現実を懸命に生きる姿を描いた奇跡の物語。

 スラム街に両親と多くの弟妹と共に暮らし、主たる家計を担っているゼイン(ゼイン・アル・ラフィーア)は12歳。 近所には学校に行っている子供もいるが、それを横目に見ながら毎日店の手伝いをしたり、通りに出てジュースを売ったりと少しでもお金を稼ぐ。 が、両親がカネのために一歳下の妹を嫁に出すと知り、妹と二人で家を出ようとするのだが・・・という話。
 イスラム教がかかわっているので11歳でも結婚できる(させられる)とか、成人男性の権力が強すぎる(女性に権利がない)とか感覚的に理解しがたいことはあれども、この貧しさはかつての日本でもあったことなので・・・冒頭からかなり入り込んでしまった。

  存在のない子供たち1.jpg このゼインのまなざしに!
 12歳、子供ですよ! なのにすべてを引き受ける強さと、この状況に対する怒り、そしてあきらめ。
 なんかもう、「どうにからなんのか!」と観ていてじたばたしてしまう。 大人って!、というか、なんなんだこの社会情勢は!、と怒りがわいて止まらないのだが、解決するために何から手を付けていいのかわからない無力感に押しつぶされそうになりながら、放浪(?)するゼインを見つめることしかできない。

  存在のない子供たち3.jpg この赤ちゃんも演技してる!、という。
 数々の困難にもゼインは立ち向かう。 驚くほどたくましく、それ故に痛々しい。 次第にゼインには手に負えない状況になっていくのが(いや、そもそものはじめから彼は重荷を負いすぎているのだが)、ほんとに苦しくて。 でもホッとできる場面もあって・・・ドキュメンタリーのようなのだが、ドキュメンタリーではないことに観客が救われる。
 ゼインがこの子との関係を聞かれて「兄弟だ」といったことに「肌の色が違うじゃないか」と返されて、「母親がコーヒーを飲みすぎたんだ」と答える・・・あんなにも賢いゼインが人種を知らないってある? いや、知らないからこそ違いを意識しない、差別などが生まれないのでは?、などと考える・・・。

  存在のない子供たち2.jpg 弁護士役はナディーン・ラバキー監督自身。
 『存在のない子供たち』とは、出生届が出されていない、統計にも反映されない子供のこと。 監督はゼインのような子供が存在することへの強い怒りをこの映画をつくる原動力にしたのだな・・・とわかるだけに、移民問題を否応なく考えざるを得ない。 日本にも無戸籍の人問題があるので「法律があればいいというわけではない、必ず想定からこぼれることはある」と想像できちゃうよね・・・。

  存在のない子供たち4.jpg ゼインの両親、彼らの気持ちもわかるけどさ・・・自分たちも証明書がなくて苦労してるんだから、それを子供に引き継がせるのもどうなのかと。
 個人としてできることはそれに尽きるが、個人にはできないことはどうすればいいのか。
 この映画は『万引き家族』が最高賞のときのカンヌ国際映画祭で審査員賞、アカデミー賞外国語映画賞にもノミネート、貧困が題材など『万引き家族』と共通項も多いのだが・・・あたしはこっちのほうに心を持っていかれた。 とにかくゼインに、子供たちにフォーカスしているから。 大人の状況も切り捨ててはいないけど、あくまで子供の視点を揺るがさないから。
 ゼイン役の子は、実際のシリア難民としてレバノンに来たのだという。 他の出演者もみな(監督以外)素人、撮影中に不法移民として国外退去にされた人もいるという(監督が保証人となって子供と再会できた)。 この映画に出演したことがきっかけで、ゼインの家族も正規のルートで北欧に移住することができたらしい。 オフィシャルホームページにある撮影風景とその後を見ると、また泣けてくる。
 児童虐待問題を解決できない日本に、移民問題を解決できるのだろうか。
 泣くだけでは終わらない問いかけに、考え込む。

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2019年09月01日

拳銃使いの娘/ジョーダン・ハーパー

 お久し振りのポケミス。
 装丁のインパクトと、思いのほかの薄さに「すぐ読めそうだ!」と手を伸ばした。 二段組、255ページ。 短くて畳みかける文章、あっさり読み終えた。

  拳銃使いの娘 ポケミス.jpg 原題“She Rides Shotgun”とは「助手席に乗る」というスラングらしい。 普通に「彼女はショットガンがうまい」という意味かと思ってた・・・。
 クマのぬいぐるみがいちばんの親友である11歳のポリーに突然会いに来たのはずっと会っていなかった実の父親のネイト。 ネイトは刑務所にいたのだが、そこで巨大な裏組織を敵に回してしまい、ネイトだけでなく妻と娘にも処刑命令が下ったのだ。 到着したときはポリーの母(ネイトとは離婚し、別の人物と再婚)はすでに殺されていて、あとはポリーを救うしかない。 父と娘は命がけの旅に出る・・・という話。

 視点人物が次々入れ替わるが、ポリーのための物語だった。
 「コーマック・マッカーシー文体を意識した『子連れ狼』」と言われたらその通り。
 アメリカ探偵作家クラブ最優秀新人賞はともかく、アレックス賞受賞作としては思いのほか血なまぐさかったけど・・・短いからよかったのか。 かなり省略している部分も多かったので寓話的な空気が出てるから?
 とはいえ、やられる前にやれ的な世界と臆病な少女の取り合わせは・・・つらい。 ポリーが“覚醒”していく様は高揚感を伴う読みどころではあるが、「そうならなくても生きていける世界はないのか」とも思ってしまい・・・力にものを言わせる人々や組織の話を自分が受け付けなくなってきたことに気づかされる。 これもトシのせいなのだろうか。
 しかしクマ! クマのけなげさが胸に刺さる。 ここは年齢は関係ないらしい。

ラベル:海外ミステリ
posted by かしこん at 18:02| Comment(0) | ☆ 読んじゃいました | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする