2018年05月04日

女は二度決断する/AUS DEM NICHTS(IN THE FADE)

 ダイアン・クルーガー、いいですよね〜。 その彼女が初めて母国語・ドイツ語で演じたと知り、「初めてだったんだ!」と驚く。 確かにフランス語か英語が多かった記憶があるけれど。 ご本人出演の告知予告にて「こんなにも役に心を奪われたことはなかった」的なことを言っていたので、これは観なければ!、と思う(ちなみに、この映画で彼女はカンヌ映画祭の主演女優賞を受賞)。
 あたしが観に行った日がたまたまそうだったのかわからないが、男性客がすごく多かった! ダイアン・クルーガーのファンですか?

  女は二度決断するP.jpg 砕かれた愛、癒えぬ悲しみ、この魂が私を突き動かす。突然、最愛の家族を奪われた女。絶望の中、彼女の想いはどこへ向かうのか――。

 ドイツ・ハンブルク。 カティヤ(ダイアン・クルーガー)とヌーリ(ヌーマン・アチャル)は息子のロッコとともに幸せに暮らしていた。 ヌーリは以前麻薬売買にかかわっていた罪で服役していたが、出所後は犯罪から一切足を洗い、家族のために真面目に働いていた。
 ある日、ヌーリの会社の前に仕掛けられた爆弾が爆発し、ヌーリとロッコは命を落とす。 ヌーリの犯歴から個人的な怨恨が疑われたが、ヌーリがトルコ系移民であること・移民街で起こった事件ということから、ネオナチによる外国人排斥テロだと判明。 同じドイツが自分の愛する家族を奪ったのだと知ったカティアは・・・という話。
 映画は<1.家族>・<2.正義>・<3.海>という三部構成でなる。

  女は二度決断する3.jpg 結婚式の二人。
 映画は二人の結婚式を撮ったホームムービー映像から始まる。 その後も、家族三人でいるところをヌーリが撮ったものなどが時折挿入され(それはカティアの記憶や夢などとリンクするのだが)、ドキュメンタリータッチの雰囲気が強まる。 実際、この映画は現実に起こったネオナチによる連続爆破事件にインスパイアされたものだそうである。 でも実話の映画化ではない。
 まだ刑務所で服役中の相手と結婚(だからこの結婚式は刑務所のある場所で行われたものである)、全身に毎年ひとつずつ入れるタトゥー、とカティアがただものではないことは最初から示唆されるが、だからといって彼女が家族を奪われるそれが理由になるはずもなく。 でも、そこで彼女に嫌悪感を抱くか否か、観客は試されているのかもしれない。

  女は二度決断する2.jpg こんなにもかわいい息子がいて。
 当たり前に続くと思っていた日常が突然奪われる、あまりにも理不尽で残酷な方法で。
 誰だって絶望し、「自分も死にたい」と思うのではないだろうか。 このつらさから少しでも逃れたいとマリファナやコカインなどに手を出してしまったカティアの気持ちを責められない(せめて精神安定剤にしておけば・・・と思わなくもないが、精神科医に事情を話すことも耐えられなかったのだろうと想像できる)。
 そもそも、誰もがそんなにも聖人君子なのか?、という話。
 が、残念なことに警察の家宅捜査が入り、カティアが薬物を使用していることが記録に残ってしまった。 そのことがのちに、裁判においてカティアの証人としての信頼性の問題にかかわってきてしまうのだが・・・。
 またドイツ人とトルコ人、という違いもあるでしょうが、ヌーリの両親がカティアにいう言葉がひどい。
 「ヌーリにロッコを預けていかなければ、せめてロッコだけでも生きていたのに」 ← えっ、息子が死んだことは受け入れちゃうわけ?
 「ヌーリとロッコの遺体をトルコに持ち帰るわ」 ← えっ、今はドイツで暮らしててドイツ国籍なんだから、それを決めるのは妻であり母であるカティアではないの? せめて分骨とかならわかりますが、そこには「ともに愛する者たちを失った者同士のかなしみの連帯」のようなものはまったくなくて・・・こういうのも嫁姑問題なわけ?
 カティアの孤独が深まるわけです。

  女は二度決断する5.jpg 自転車を置いていった女性の顔が目に焼き付く。
 邦題は『女は二度決断する』ですが、カティアの決断は正確には二度ではない。 ラストシーンにつながる部分は二度の決断が行われているものの、そこに至るまでに彼女は大小さまざまな決断をしている。
 ネオナチの犯行と特定され、犯人が捕まったという連絡が入ったとき、彼女は生きて裁判に立ち会うことを決めた。 あたしはここが最初のいちばん大きな決断だったように思う。

  女は二度決断する1.jpg ドイツの法廷はちょっと特殊な感じがすることを、シーラッハの作品群で知っていたはずなのに、改めて目にするとやはり驚く。 いや、むしろ日本のほうが特殊なのかもしれない。 閉鎖性のようなものは感じられなかった。
 日本の裁判だったらほぼ有罪判決が出る案件ですが、さすがドイツというべきか、「疑わしきは罰せず」精神が厳格で。 日本もこのくらいしなければ、矛盾を解決しないままの調書で起訴されることは減らないのでは・・・と自分の国の裁判制度が心配になりました。
 しかしカティアにとっては不本意な結果・・・あとは自力で証拠をつかむしか。
 社会派な題材なのに国や司法制度などに重心が置かれず(被告側弁護士の発言は弱い者いじめでしかないが、それが彼の仕事なのだから仕方がない)、カティア個人の物語に収斂していくところがよかった。 あくまでカティアの決断はカティアのもので、「自分だったらどうするか」を考えさせることで観客に自分の考えを掘り下げさせる。
 衝撃のラスト、とありましたが、あたしには「もうそうなるしかないだろうなぁ」と必然の結果のように思えたけれど(つまりあたしも、もしカティアと同じ立場になったら同じようなことをするかもしれないということだ)。 なので逆に、「えっ、これで終わりなの?」とちょっと拍子抜けしたけれど、エンドロールの間にじわじわと彼女の気持ちが広がってきた。 <3.海>はほとんどカティアの一人芝居ともいえる流れで、ダイアン・クルーガーのカティアに憑依したような姿は素晴らしかった。 まさに彼女のための映画だった。
 ドラマティックな題材で、いくらでも扇情的なシーンの組み立てもできるのに、あくまで淡々とした筆致で進んでいくのはカティアの感情が一部死んでしまった・麻痺してしまったからからだろう。 けれど神経が張り詰めている分、映画も静かな緊張をずっと保っている。 おかげであたしも途中で寝てしまうことなく、ワンシーンも見逃さなかった。 ストーリーがどうこう、というより、全体に緊迫感とか緊張感とかがあったほうがあたしには伝染しやすいようだ(特に仕事場から走って駅まで、また駅から走って映画館まで、みたいに時間的に余裕のない移動で疲労してしまうと、うっかり寝てしまうことがあるので)。 『ラブレス』もその系統だった。 『ダンガル』は逆に映画からパワーをもらえたから大丈夫だった。
 スケジューリングだけでなく、映画館における自分のコンディションも考えないといけない状態になってきたな・・・。

posted by かしこん at 05:16| Comment(0) | 映画 movie | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする