ほぼ半年弱のブランクを経て、<クリフトン年代記>に復帰。
第3部は1945年から1957年まで、バリントン家を継ぐのは誰かの結論が出るところから始まる。
結構間が空いたつもりだったのに、読み始めたらグングン物語世界に戻れるすごさ。 「この人、誰だっけ?」がほとんどないから(それは勿論、本文中で過去のかかわりをちらりと見せてくれるからだが)。 本国でも一年に一部ペースの出版だったそうなので、そのあたりもしっかり計算済みなんでしょう。
それにしても、ハリーとエマの息子セバスティアンは第3部最初の段階で5歳なのに、終盤ではもう大学に進む年頃に。 子供の頃はADHDの気配濃厚な感じで<育てづらい子供>として描かれるのかと思ったら、エマたちの苦労描写はそんなになくて「あれ?」と肩透かし気味に。 それにしても成長、早くないか? いくら他人の子供が育つのは早いっていってもさぁ。 なので第1・2部と比べると展開が駆け足気味というか、時間における密度は少々減り気味と言えるかもしれない。
とはいえ、『ケインとアベル』と違ってメインの二人、ハリーとジャイルズが(今のところ。 先のことはわからないけど)対立していない、というのは読んでいてだいぶ気分が楽である。 ジャイルズがとんでもなくバカな真似をしていようともね。


それにしても、よくもまぁこれだけ次々と悪役を出してくるもんだなぁ、とついつい感心する。
しかもその<悪役>とは『犬の力』に出てくるような「立場によって悪か否か変わってくる、一筋縄ではいかない複雑さ」を持つものではなく、はっきりステレオタイプの“悪いやつ”。 こいつらがひどいことをすればするほど、最終的にきちんと報いを受けることになるんだろうなぁ、という安心感があるので理不尽さにも耐えられます。
そして悪役よりも目立たないけれど、たまたま出会う“いい人”たちもちゃんといて、人間が持つ誠実さというものを信じさせてくれる。
実験的で文学の新たな可能性を追求する新しさのようなものからは遠い場所にいるかもしれないけど、「物語をかたる」ことの魅力にこれでもかと特化した作品はこれはこれで必要なんですよ!
また次巻へと引っ張る終わらせ方は「ズルい!」を通り越してお約束の感まであるよ・・・。
まんまと第4部を手に取ってしまったじゃないか。