2018年01月19日

ストーナー/ジョン・ウィリアムズ

 『ストーナー』、この本を読むことにはためらいがあった。
 躊躇というか、葛藤というか。 「読みたいのだが!、読んでしまうのはいかがなものか・・・」的な気持ちというか。
 何故かといえば、これが翻訳家東江一紀の最期の作品だからである(しかも最後の1ページを前に力尽きたということを聞いていたので)。 読んでしまったら、その事実を受け入れるしかなくなる。 でも、最後になるであろうと選んだ仕事を見届けたい。 そんな、背反する気持ちにずっと揺り動かされてきた。
 で、まぁ図書館が、蔵書数に比べなかなかの予約数があったから、来るまでしばらくかかるだろうなぁ、と安易な気持ちで予約を入れた。 そしたら時間は経つもので、連絡が来てしまったのだ。
 次の予約が入っているから二週間以内に読み終わらなければ。
 そうやって追い込まれなければ、あたしは覚悟ができないらしい。

  ストーナー.jpg 表紙は書架の一部を表している。
 物語は、のちに大学で英文学を教えることになるウィリアム・ストーナーの、地味でありつつも波乱に満ちた人生を描いたものである。
 なんというか・・・とても端正な小説だった。
 事実を淡々と積み上げていくだけの話のようにも見えるのに、そして主人公のストーナー自身が比較的感情の動きに乏しい(そういうことに自分でなかなか気づかない)人なので、「えっ、そんなすごいことをそんなさらっと書いて終わり?!」と読者のほうが驚愕する。 あたし自身がわりと感情のアップダウンがそんなに大きくないタイプだと思っていたのだけれど、ストーナーには負けた。 とても静かなのに、穏やかな状況を望みながらそれを得られないストーナーの日々の生活に忍び寄る、次に何が起こるかわからない予感に満ちたスリリングな作品で・・・続きを読むのがやめられない。
 なんといったらいいのだろう、ストーナーは人生というものがままならないことを最初から本能的に知っていて、それにあらがうことをあきらめているというか、あきらめとともに受け入れているというか、諦観の人なのかもしれない。 けれど完全に悟りを開いているわけではなく、やっぱり思い悩むし、不意に訪れた幸福におののいたりする。 あるがままを受け入れているからこそ、奇跡のような時間をとても大切な記憶として慈しみ、その輝きをずっと忘れずにいられる。 理不尽な出来事がいくつも彼のまわりで起こるけれど、その輝きの価値を知るが故に、彼は幸福だったのではないか。
 アメリカ人が書いたものなのに、アメリカでは最初あまり売れず、ヨーロッパで翻訳されて大ヒット、というのも納得。 舞台はアメリカなんだけれど、読んでいてイギリスのような気持ちになっていたから。 はっきり自分の感情を言葉にしない、ピンチに対して明確な反撃をしないストーナーのキャラクターはあまりアメリカ人的ではないけど、逆に日本人には共感しやすいような気がする。
 そんなわけでそれほど長くない(350ページくらい?)小説なのだけれど、一行たりとも読み飛ばせない、何故そこにその言葉が置かれたのかを考えながら読むことになったので、通勤往復3日+自宅で少し分の時間がかかりました(これを読んでいる間は他の本が読めなかった)。 そして電車の中でぼろぼろと涙をこぼすことになってしまった。
 イアン・マキューアンやジュリアン・バーンズがこの本をものすごく褒めているが、それだけではあたしはこの本を手に取ることはなかっただろう。 やはり、「東江さんが訳した」からだ。
 校正を担当したお弟子さんによる<訳者あとがきに代えて>を読んで、また違う涙がにじみそうになる。
 なにか大きな病気をしたらしい、というのは予定していた翻訳書の出版スケジュールが大幅に遅れたときに知ってはいたんだけど・・・そんなに生死にかかわる病気だったとは知らなかったのだ(だから訃報にはものすごい衝撃を受けた)。 余命を突きつけられながら最後までずっと仕事をしていたとほんとうのところを初めて知った。 ごめんなさい。
 作家も大事だが、翻訳者も大事だ。 翻訳者の技量やセンスにも作家と同じように差があり、「この人なら大丈夫」と自分が思った翻訳者が訳した作品に間違いはない、と小学生だったあたしに教えてくれたのは福島正実で、「悩んだときは翻訳者で選べ!」と大学生だったあたしに教えてくれたのが東江一紀だった。 勿論、他にもたくさんの翻訳者の方にお世話になったしこれからもなる予定だけれど、このお二人があたしに与えた影響はとても大きい。
 東江さんが新しく訳してくれる本はもうない。 でも、これからもそんな人に出会えるかもしれない可能性はゼロではない。 そして東江さんが育てた、東江さんに影響を受けた翻訳者はたくさんいる。 それはストーナーが生涯教師として生きたことと重なるし、あたしもまた「よき師」に出会えた生徒である、ということかもしれない(あたしは翻訳者ではないが、翻訳文学を読むことに抵抗がないから翻訳者のみなさんを支えられる、海外文学を翻訳で読むことをやめる気がないという意味で)。
 読んでよかった、と思う。 でも今だからそう思って受け入れられたのかもしれない、とも感じる。
 やはりあたしには、時間が必要だったのです。

ラベル:海外文学
posted by かしこん at 23:59| Comment(0) | ☆ 読んじゃいました | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする