2017年10月14日

ふざけたこと言わないでください

 ネットニュースで、こんなのを見つけまして。

 10月13日に開催された<全国図書館大会 東京大会>で、文芸春秋社の松井社長が、「『文庫』の売上げが大幅に減少しはじめたのは2014年のこと」と前置きし、「確たるデータはありませんが、近年、文庫を積極的に貸し出す図書館が増えています。それが文庫市場低迷の原因などと言うつもりは毛頭ありませんが、まったく無関係ではないだろう、少なからぬ影響があるのではないかと、私は考えています」と主張。
 「文庫くらいは自分で買おう。そんな空気が醸成されていくことが何より重要」としつつ、公共図書館に文庫の貸し出しをやめるよう要望を出すと共に、読者に向けても「借りずに買ってください」と呼びかけた。

 ・・・はい???
 図書館に文庫が置いてあるのなんてずっと昔からですけど?
 ていうか、そういうこと言うなら絶版書をなくしてよ!
 以前より<品切れ・重版未定>になる周期が明らかに短くなっているんですけど。 本屋で売ってないから図書館で借りるしかないんですよ。
 文庫を「恒久的に保存していく蔵書」という位置づけから「薄利多売」に切り替えたのは出版社のほうじゃないの? 一冊で済む本をわざわざ上下巻に分けて値段を吊り上げたりしてるくせに、図書館のせいにするのか!
 なんかすごく、腹が立っちゃいました。

 ちょっと冷静になって、考えてみます。
 「出版社だって商売だ」という気持ちはわかります。 でも、出版社はただの商売じゃない、文化事業です。 それを理解していない人が社長ってのは・・・残念です。
 本がタダではないこともわかっています。 でも時間も体力もあってたくさん本を読むことができた若い頃、あたしにはお金がありませんでした。 だから図書館と古本屋さんのお世話になって、その後の人生に影響を与えられた本に数えきれないほど出会ってきました。 それはとても感謝していますし、だからこそ同じような境遇の人たちのために安価でたくさんの本が読める環境は残しておいてほしいのです。
 あたしは成長して自分でお金を稼げるようになりました。 だからあの頃の恩返しの意味もあって、できる限り買える本は買おうと思っていますし、実践しているつもりです。 でも本との出会いってタイミングもあって、「あ、こんなの出てるんだ!」と気づいて探した時には絶版・・・ということもあるわけで(それは単行本も文庫もあり。 単行本だったら文庫になるかもという望みを抱くこともできるけど、最初から文庫の場合はほぼ復刊は望み薄)、そうなったら図書館を頼るしかないわけですよ。 古本屋さんも<新古書店>みたいなところが増えたから探したいものはなかなか見つからないしね。
 それに、いろいろ不景気な昨今、「文庫本くらい自分で買え」っていうのはちょっと乱暴な論調かと。
 読みたい、ほしいものであれば黙ってても買いますよ。
 なのに、キングの『IT』の映画(11月3日公開)に合わせて出したのは電子書籍の合本版って・・・(それ、文芸春秋社ですよ)。 さすがに文句が出たんか文庫が増刷されましたけど、そもそも『IT』を絶版にしていることがあり得ないよ(あたしは最初に文庫が出たとき全4巻買いましたけど・・・実家に置いて来た。 また読みたいけど・・・映画見てからにしようかな。 それとも電子書籍版にしようかな。 でも解説とかなかったりするから微妙なんですよね)。

 でも、読みたい気持ちはあっても「どれを選んでいいのかわからない」っていう人も大人でもたくさんいます。
 ノーベル文学賞の影響でカズオ・イシグロが今売れまくっているのは、そういう人の需要にはまったから。 「文学だからお堅いのでは・・・」と悩んでいる人には、「『ダウントン・アビー』見てた? だったら『日の名残り』はいいと思うよ。 同じように貴族社会が没落していく中で、執事であることがアイデンティティである、って人の話だよ」みたいなこというと、「そうなの! 読んでみたい!」って返事が来るし、「タイトルからだと『わたしを離さないで』はラブストーリー色が強めっぽいけど、完全にSFだから」というと興味津々になる人もいる。
 要はプレゼンの仕方です。
 本屋さんのPOPは林立しすぎて逆に読みにくくなってるし、ビブリオバトル的イベントも有効でしょうが、同じ時間に人を集めることがたいへん。 となると結局ネット書店のレビューが参考になる、になっちゃうのかな。 それに、初めての作家の人をいきなり買うのは勇気がいるよね。 その入り口として<図書館>ってすごく大事なのに。
 それに、シリーズものだけど途中で翻訳が止まるとか、次作が出るかわからない、とはじめに言われちゃったら「じゃあ読まないほうがいいかなぁ」ってなるのが人情じゃない? そのあたりの解決策を出さずに要求だけ出すなんて・・・ひどいよ。
 図書館で出会って、その後、「自分にとって大切な作家」になる人もいる。 出版社自らその出会いをなくそうとするなんて、読書人口が育たないじゃないか。
 もっと大きな目で見てくださいよ。
 ブログを無料で公開している文筆家の人だって、それがきっかけで自分の著作に興味を持ってくれれば、とリンクフリーにしている人が多いのに。 文芸春秋、時代に逆行してるなぁ。
 というわけで、腹の立ったニュースでした。

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2017年10月12日

エイリアン:コヴェナント/ALIEN:COVENANT

 結局観に行ってしまった、『エイリアン』新作。 結構ギリギリになってしまいましたが・・・行ってよかったんだろうか、と悩んでしまった作品だった。

  エイリアン:コヴェナントP.jpg 絶望の、産声。

 西暦2104年。 入植船コヴェナント号は目的地である惑星オリガエ6に向かう途中で永い眠りの中にあった。 入植者2000人と数十人のクルーはコールドスリープ中で、最新型アンドロイドのウォルター(マイケル・ファスベンダー)が船の管理を任されていた。 が、小惑星帯に突入したことで船の運航に支障が出、果てに船長の他に入植者を含め47名もの犠牲者を出してしまう。 目覚めさせられたクルーはコヴェナント号の修理にかかるが、その途中で“カントリー・ロード”が繰り返し流れる発信を傍受する。 どうやらそこはここからすぐ近くにある人類が移住可能な惑星だと判明するが、もともとの目的地であるオリガエ6に向かうべきだという意見と対立する。 結局副船長が船長の代理として判断を下し、未知の惑星に調査隊を送ることにする・・・という話。
 このコヴェナント号の故障の理由(?)も『パッセンジャー』と似てるんだよね〜。 なんかもう、既視感がいっぱい。 ちなみにカプセルごと燃えた船長は、ジェームズ・フランコでした。

   エイリアン:コヴェナント1.jpg オープニング、「あ、ガイ・ピアースだ!」とびっくりし、「そういえば『プロメテウス』に出てたんだった」と思い出す(そして『プロメテウス』のことも)。 このエピソードは『プロメテウス』よりも前の時間。 しかし、オープニングタイトルが出た後の展開はすべて『プロメテウス』よりも後の話(行方不明になったのが10年前・・・という台詞があるが、宇宙を長期航行中の人間にとってその基準ってどういう意味があるんだろうか)。 そして『プロメテウス』よりも結構前の出来事であるはずなのに、アンドロイドのデヴィッド(マイケル・ファスベンダー)はなんか老けている。 ここはメイクでちょっとでも若返りさせてくれよ!
 そんなわけで『エイリアン:コヴェナント』はサイエンス的にとても正しかった『ライフ』を観た後では、イラつくこと満載である。

  エイリアン:コヴェナント3.jpg 当然、調査のために降り立った惑星というのは『プロメテウス』と同じ場所なわけですが。
 ちなみにマイケル・ファスフェンダーはアンドロイドのウォルターとデヴィッドの二役。 この写真はウォルターです。
 いくら大気の組成が人体に無害だからといって、どんな病原体がいるかもわからないのにマスクもせずに外に出るとは何事か。 しかも葉巻をくわえたまま出てくるものや、「ちょっと用を足してくる」とその場を立ち去り、物陰でタバコを吸うやつもいる(当然、吸い終わったタバコは足で踏み潰す)。 それが見知らぬ惑星にどういう影響を及ぼすかもわからないのに! クルーたちが所詮二流である(一流の人は一部しかいない)という場面がそれまでにあればいいのだが、特にないので大変腹が立つ。 それとも、このシーンをもって「こいつらはエイリアンの犠牲になっても仕方のないやつらなのだ」ということをいいたいのか? あ、マスクをしない問題は『プロメテウス』のときも思ったので、そういう世界観というか、質の低いクルーしかいない時代なんだと思うしかないのかしら。

  エイリアン:コヴェナント5.jpg だから文字通り、やつらに寄生されようとも、自分たちの危機管理の甘さでぶっとぼうとも、まったく同情ができないのであった・・・。
 で、「エイリアンの起源」とやらの説明を受けるのですが、これがまたどうでもいいというか、もうそれは重要ではないところまで行ってしまっているというか・・・。 『プロメテウス』のほうはまだ神話的な荘厳さがあったけど、これは・・・「結局、悪いのは人間ですか、そうですか」というところで完結してしまっていて・・・なんか新しさが感じられない。 こういうネタ、SFで散々使われまくってるからね!
 ほんとにこれが『エイリアン』(一作目)につながるの?
 てことは・・・人間の欲と軍需産業には終わりも際限もない、ということですね。
 というか、進化したAIの負の側面ばかりが描かれていて、やつらの出番も少なかったんですけど。 なのにタイトルに『エイリアン』と入れちゃうのはどうなの・・・と思ってしまうぐらいに。
 やつらの進化については『エイリアン3』『AVP』(エイリアンVSプレデター)でも描かれていたし、特に『AVP』はキワモノ映画だと思っていたけど人類との関係については意外にしっかり設定がなされていて、ちょっと納得しちゃったのですよね。 ここまで複雑に進化した生物に対し(ある種、あのエイリアンは<完全体>ですから)、もう<起源>とかどうでもいいじゃないですか・・・と思ってしまってはダメですか? むしろ解き明かさないほうがいいんじゃないでしょうか。
 もう完全に<before『エイリアン』三部作>のコンセプトを否定する感じになってしまいましたが、だって観ていて気持ちが全然盛り上がらないんだもん・・・。 たとえバッドエンディングでも意外性があれば「おぉっ!」ってなるけど、そういうのもなかったし・・・ほとんどが想定内だったから。
 次でどこまでこちらの予想をひっくり返してくれるのか。
 リドリー・スコット御大、すでに79歳だそうで・・・あとは好きなように作ってくださいよ、それが長生きの秘訣なのならば。
 しかしガイ・ピアースはクレジットになかった気がする。 あたしが気づけなかっただけか、ノーギャラ特別出演なのか。 もしろそっちのほうが気になるかな。

ラベル:外国映画 映画館
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2017年10月11日

三度目の殺人

 これも結構前に観ていたのだけれど・・・なんというか結末に「もやっと感」があるのでいろいろ考えこんでしまっていた。
 まぁ、答えは出ないんだけど・・・多分こういうことなんだろう、という自分なりの消化はできた。
 ともかくも、「役所広司、すげー」に尽きます。 『関ケ原』と比較的近い日程で観たけど、全然違ったし(しかもこっちのほうがより本領発揮って感じ)。 これって助演男優のくくりになっちゃうのかな、主演男優だと思ってしまうけど。 福山とダブル主演なのかなぁ、でも賞をとるなら役所広司のほうだよな、うん、としみじみ思った。

  三度目の殺人P.jpg 犯人は捕まった。真実は逃げ続けた。

 殺人の前科を持つ三隅(役所広司)という男が、働いていた工場を突然クビになったことから社長を恨んで殺し、更に死体に燃料をかけて放火した容疑で逮捕され、自供の結果起訴された。 二度目の殺人、再犯ということで死刑が出てもおかしくない案件。 勝つことが重要と考えている弁護士の重盛(福山雅治)にとっては意味のない裁判だが、所属する事務所の先輩からの頼みでいやいやながら三隅の弁護を引き受けることに。 だが、三隅は会うたびに言うことが変わり、彼の自供は信用できないのではないかと疑い始める。 挙句、被害者の妻である美津江(斉藤由貴)に同情した・彼女から殺人を依頼されたと供述は二転三転。 死刑回避・無期懲役で「勝ち」と考えていた重盛だったが、三隅と接見するたびに自分の中で何かが変化していくような気がして、事件を、三隅という男の存在を再度洗い直していくことにする・・・という話。

  三度目の殺人4.jpg やっぱり今の福山雅治は感情抑え目、エリート系の役のほうが似合う気がする。 コートや鞄も「いかにも弁護士」だし。 『SCOOP!』が残念だったのは、キャラクターに自分自身に近い要素があったためかデフォルメしすぎた感があった。 逆に自分にない“エリート性”を体現するほうが抑えて役に自分をはめていこうとする努力がみられる。 満島くんは若き熱血後輩弁護士です。
 重盛は弁護士としては有能でも、結婚生活は破綻していて時折会う娘との関係も微妙という「エリート的によくある」キャラ。 『そして父になる』要素も抱えていて、弁護士としても偏った思考は後輩や先輩(吉田鋼太郎)からも「それはどうよ・・・」と思われてしまう。 この映画の隠しテーマは『そして弁護士になる』かもしれない。 不本意かもしれないが、彼はこの事件・裁判を通じて自分を見つめ直すことになり、もしかしたらそれを“成長”と呼ぶかもしれない。 でもこの年齢での成長は、否応なく痛みを伴うわけで。

  三度目の殺人2.jpg 斉藤由貴、「母である前に女」という役がプライベートのスキャンダルと相まってものすごくリアルで怖い。 あぁ、スキャンダルがなかったら演技者としてより高く評価されただろうに・・・「てことは地ですか?」と思われかねないこのタイミングでの公開は非常に残念だ。
 そして、ここには更に歪んだ母娘関係が。 美津江の娘・咲江(広瀬すず)は表情があまりない。 ここの家族にも何か秘密があることが早々に明らかに。 キーパーソンである咲江の存在がまさにすべてのカギなんだけれど、女優広瀬すず的にはもう少しがんばってほしかった。 「彼女は(生まれつき)足が悪い」という属性に重きを置きすぎ、もっと表情や目で表現すべきことがあっただろう!、という気がする(そうすればもっとわかりやすい話になったのに)。 でもそう演出したのは監督だしな・・・あえて「もやっと」させるためなんだろう。
 三隅も重盛も北海道出身、という共通点から、すべてを覆いつくす勢いの雪景色が何度も挿入される。 重盛の夢の中でも。 雪や寒さに伴う静謐さのイメージが、この映画の抱える不条理感をちょっと美しいものにしてしまっている、と感じるのは、あたしが北東北出身だからだろうか。 雪がすべてを浄化してくれるような思いを皮膚感覚で理解しているから。 そのあたりは少し佐々木丸美的世界観にも似て、これは是枝監督が意図したものなのかあたし自身のノスタルジー故なのか、ちょっとわからない。
 そして三隅が繰り出す十字架に似たモチーフ(縦が長いキリスト教的なものよりは、赤十字的な縦横の長さが近いもの)の意味は。
 自分を「からっぽ」であると表現する三隅。 それに対して「器」という言葉をチョイスするのはなんだか重盛らしくないなぁ、と感じた。
 そう、なにひとつしっくりこないのだ。 まるで他人の夢解釈のように。
 でも是枝監督がずっと追い求めているテーマ<家族>から読み解けば、これもまた<家族の話>なのである。 血の繋がりによらない、自分で選んだ家族、という意味で。 それが実行か心情かは区別なく、共犯関係ということになる。

  三度目の殺人1.jpg この二人の対峙場面が、いちばんの見どころ。 三隅の底知れなさに重盛が引きずり込まれそうになる心理戦。
 もう、ここ! 役所広司の真骨頂! それにひきずられて、福山も予想以上のことができちゃった感じ。
 どう見ても、キャラとしても三隅のほうが“役者として上”なのである。 それは人生経験の種類の多さでもあり、すべきことはしてもはや守っておきたいものは何もないから。 彼はもう人生を捨てている。 自分にできる目的はもう果たしたから。 そんな捨て身の人間に、普通の人間が勝てるわけがない。
 それ故に、裁判シーンがあまり盛り上がらないというか・・・サスペンス&ミステリー映画として予告していたけれど、そっちを期待すると肩透かしになるかも。 それ以前に、被害者像が出てこないしもはや真犯人はどうでもよい方向に映画は進んでしまっているから。 ただ、心理サスペンスの部分と、死刑制度についても考えさせる社会派の一面はある。
 「結局どうなの?!」と言いたくなるけれども、役所広司の存在感でそこは封じられてしまう。 オープニングのシークエンスすらも、ほんとうは事実ではないのではないか、という疑念すら浮かぶ。
 うまい人だと思ってたけど、こんなにうまかったんだね〜、と改めて納得。
 それだけで、この映画を観た価値はあると思う。 まぁ、映画自体が役所広司に頼ってしまっているようにも見えちゃうけど。

  三度目の殺人6.jpg 役所広司っていくつだっけ。 ついそう思ってしまうくらい、老けこんだというか老いをあえて強調している感じ。
 登場人物たちはみなさんそれぞれ「三隅に振り回された」という感覚のようなのだが・・・供述が二転三転するのは、三隅が「相手が聞きたいこと・知りたいことを察して、その期待に応えるべく話をしている」だけのこと。 意識的か無意識的かはわからないけれど、彼は相手をよろこばせたいのだ。 そして自分の言葉をそのときどきで本当のことだと信じている。 自分の希望はもうすべてかなえたから、自分のことをもう振り返る必要がないから。 だから三隅は揺らがないけど重盛は揺らぐ。 毎回変わる真実の中から<不変の真実>を探そうとするから。
 ラストシーンで、重盛はそのことに気づいただろうか。
 あたしが気になるのはそこだけだ。

ラベル:映画館 日本映画
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2017年10月10日

新感染 ファイナル・エクスプレス/TRAIN TO BUSAN

 毎回言っているようですが、あたしは韓国映画が苦手です。 ハングル文字を見ると頭が痛くなるし(似てるけどちょっと違うものがたくさん並ぶと、その違いを認識しようとして目がフル稼働してしまい、結果として眩暈を起こしかねない)、日本語と文法的に語順が同じだということはわかるけど口調が常に怒っているみたいなのがイラっとするとか、まぁ理由はいろいろありますが・・・今回は韓国初のゾンビ映画ということで、ゾンビ映画(ロメロ系)好きな身としては放っておけなくて。 監督も元々アニメ出身で、日本のアニメ映画やジョージ・A・ロメロへのリスペクトをインタビューで口にしていたから。
 しかし『釜山行きの列車』(原題直訳)はちょっとダサい。 邦題『新感染』はダジャレではあるものの、妙な勢いはある。 久し振りに成功した邦題かな?

  新感染P.jpg 何があっても、守り抜け!

 オープニングで、張られた非常線を抜けていく地元の車、それに衝突してしまう鹿、それから感染してあやしくなってしまうドライバー、という一連のシークエンスはなかなかよい出来で、いい雰囲気の緊張感があった。 それで期待してしまったんだけど・・・さすが韓国初のゾンビ映画、「お勉強して作りました」感がだんだん出てきてしまって・・・残念だった。
 ファンドマネージャーのソグ(コン・ユ)は自他ともに認める仕事人間。 ソウルの高級マンションに住んでいるが、妻とは別居中、幼い娘スアンの世話は母親に任せっきりの毎日だった。 しかし娘の誕生日、母親と過ごしたいとねだられ、妻がいるプサンへと娘を送り届けるため、ほぼ始発のKTX(韓国の長距離特急列車)に乗り込むことに。 それなりに混雑してきた車内に、挙動不審な女性客が乗ってくる。 彼女は何かに感染しており、苦しんでいる彼女を見つけて介抱しようとする乗務員にかみつき、得体の知れない何かと凶暴性は伝染していく。 それを目の当たりにした乗客からパニック状態も特急列車内に瞬く間に伝染していくが、車内TVによれば韓国の各地で暴動が起こって軍が鎮圧に動いているという話。 それはこの騒動と関係があるのか? ソグは乗客のサンファ(マ・ドンソク)とその妻で身重のソンギョン(チョン・ユミ)らとともに娘を守りながら生き残り策を模索する・・・という話。
 とはいえ、ソグは基本「自分とその関係者さえ無事なら他は関係ない」という実にファンドマネージャー的な考えの持ち主で、主人公なのにここまで感じ悪いやつも珍しい(『トガニ 幼き瞳の告発』の人だとすぐに気づかなかったよ)。 多分農村出身で(同居している母親がやってることがそれっぽかった)、今の地位に這い上がった自負もあるのだろうし、エリート意識と貧乏に戻りたくない感覚がないまぜになっている人という感じ。 娘と一緒にいても、娘をほぼ優先しないところはあまり一緒に過ごしていない証拠でもある。 だから他の乗客たちのいいところが引き立つというか、特にサンファは顔が怖くて態度も一見粗暴であるが、誰より妻を大切に思っていて正義感が強い人であることが目立ちます。

  新感染3.jpg こういう体がねじれたような動き、お約束ですね。
 まぁ、ゾンビ映画というか、正確にはパンデミック系映画に分類されるのですが、何かに感染した結果、全員が同じ特徴を持ち同じ行動をとり、次から次へと非感染者に襲い掛かって感染者を増やしていく・・・という属性がゾンビ映画っぽいところ。 国が非常事態宣言を発令し、実際は違っても「鎮圧は時間の問題」とか発表するあたり、ロメロ的社会風刺の流れも汲んではいる。 
 でも、そもそもこのような非常事態において自然ににじみ出るのがその人間の本性なので、過度の装飾は必要ないと思うのです。
 なのに、子供や老人、果ては妊婦まで揃えるとは・・・感動させようという意図が丸見え(それとも、韓国映画においてはそういう部分がないとダメなんでしょうか)。 しかも絵に描いたような嫌なやつも出してきて、「こいつ、早く死ね」と思わせちゃうあたりもキャラ的な計算を感じてしまう。 あぁ、すんなり楽しめないなんてあたしはどんどんひねくれ者になっていくなぁ!

  新感染1.jpg 先頭車両を目指して大奮闘。
 心を金に売ったような人間を主人公に据えたのは、極限状態において何が最も大切なのか気づかせるため、人として目を覚まさせるため。 だから社会的弱者ともいえる妊婦や老人、高校生や浮浪者といった方々に見せ場を作り、「人間らしさとはなんなのか」と訴えてくるのはいいのですが、それに<家族の絆>的なものまでのっけてくるのは重すぎます・・・結果的に泣いてしまうのはありだけど、最初から「泣ける映画です!」と宣伝するのはいかがなものか・・・(これは日本における映画宣伝の問題でもあるが)。
 だから最初の頃の被害者はあっという間に感染するのに、観客が感情移入できるようになってきたキャラは感染するまで時間がかかるという現象に少し違和感(かまれる場所によって違うとかルールはあるみたいですが、そこらへんはちょっと微妙)。 なんかずるい!

  新感染4.jpg 感染者たちの襲い掛かり具合とかは韓国映画らしくグロさも容赦なし。 「人(?)がごみのようだ」をリアルに表現しております。

 結構各方面で絶賛されているこの映画ですが、ちょっとあたしには微妙だった。 途中、中弛みを感じてだるくなったこともあり。
 まったくダメではないんだけど・・・「お勉強感」が見えちゃったのがつらかったか。
 むしろラストシーンはバッドエンドで終わってくれたら、また評価が変わったかも。
 今後、韓国発のゾンビ系映画がどのように発展していくのかによっても、変わるかもしれないかな。

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2017年10月09日

10月のはじめは、8冊(その2)。

 というわけで次は河出文庫から2冊。

  見知らぬ乗客新訳版.jpg 見知らぬ乗客/パトリシア・ハイスミス
 スティーヴン・キング等でおなじみの白石朗氏による新訳版。 なのになんだか装丁が新しくない感じ・・・。
 ヒッチコックの映画のほうが有名かもしれませんが・・・原作です。 そしてミステリ界においてはじめて<交換殺人>という概念が導入された作品。 でもハイスミスはそれがまったく新しいトリックだとは思っていなかったらしい。 それもまたすごい。
 なんか最近、ハイスミス再評価(いや、何度目?)の波が来てるよなぁ。

  黒猫ジュリエットの話.jpg 黒猫ジュリエットの話/森茉莉
 あの人は猫が好きそう、というイメージを見事に裏切らない本である。
 また、この表紙の黒猫さん、とても美猫。 薄いエメラルドのような目、つやつやした毛並み。
 みとれるよね、つい。

 そして文春文庫から2冊。
  キリングゲーム文庫.jpg キリング・ゲーム/ジャック・カーリイ
 帯にも裏表紙あとがきにも<カーソン・ライダー刑事シリーズ>と書いてないけど大丈夫ですか?、と一瞬不安になった。
 どうも『ブラッド・ブラザー』までは順番通り訳してたのに、日本版前作『髑髏の檻』から飛ばしが入っているようで、本書は日本版としては7冊目なんだけど、実際は11作目とからしい・・・。 お兄ちゃん問題がそんなに絡まなければ、一話完結として割り切るってことか。 それとも未訳のやつは出来がいまいちだとか、文化的な問題で日本人にはわかりづらいとか?!
 そのあたりの理由もちゃんと教えてほしいんだけどなぁ(しかし大手の出版社ほど、そういう事情は伏せがちである)。

  マリファナも銃もバカもOKの国.jpg マリファナも銃もバカもOKの国/町山智浩
 町山さんのおバカ系エッセイ、たまに読みたくなる。 だいたい映画関係が多いけど・・・この<USA語録>シリーズのように“現在のアメリカ”をおバカ視点で切り取ったものも、楽しい。 雑誌連載から本になるまで時差はあるものの、その時差が程よくこっちの「アメリカへの理解(?)」が深まったり深まらなかったりするので。
 映画や小説ではわからないアメリカの別の視点がここにある。 別に知らなくていいことも。
 日本のことをこうやって世界に発信している人はいるのだろうか。 そう思うとやはり、アメリカは腐っても鯛なのかも。

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2017年10月08日

関ケ原

 結構前に観たのですが、感想を書くのが遅れてしまいました(上映が終わってしまいそうな小規模公開作品を優先してしまったので)。
 日本映画で、大作、そこそこヒット、とあれば割と長く上映してるし〜、と思って油断していたらそろそろこっちも終わりが近いような気配。 まとめて映画を観に行くと、それはそれで楽しい時間ではあるのだけれど、だんだん身体的に疲労が出るようになってきてしまった・・・。 そして書くべきものがいっぱいたまってくると、ちょっと気が重くなる。
 自分で勝手にやってることなのに、いつやめてもいいことなのに、なんでそんな風に考えちゃうかな!
 と、自分の性格についても、反省。

  関ケ原P.jpg 「愛」と「野望」、激突!
   日本の未来を決した、わずか6時間の戦い。誰もが知る「関ケ原」の誰も知らない真実――

 司馬遼太郎の原作は未読。 あの時代のことはなんとなく知ってはいるし(一応日本史取ってたし、ドラマとかもこれまで結構見てきたし)、と思ってあえて予習はせずに。 むしろ『日本のいちばん長い日』のほうが予習が必要だったよな、とか思い出してみたり。
 まぁあたしは原田眞人監督の<男まつり>の雰囲気が大好きなので、題材がなんだろうが観てしまうと思うのですが。
 かなり端折ってあるだろうな、というのは予想していた(だって、原作は文庫で上中下巻だよ)。 そこはナレーションとテロップでカバー。 映画では人物名のテロップって結構禁じ手というか、勇気がないとできない気がしてたけど(年号とか場所とかはありだけど)、ここまで堂々とやられると潔いな! それでも、事前知識がゼロだったらかなりつらいと思う・・・週間興行成績一位を二週連続取っちゃったのは、映画館に行く人たちの平均年齢の高さを証明してしまっている気がする。 地上波で時代劇が観られない、というフラストレーションもあるかもしれないけど(CS・CATVの『時代劇専門チャンネル』は好評らしいけど)。
 というわけで、「ある程度のことはわかってますよね!」が前提の映画です。

  関ケ原3.jpg ところどころ、すごく色が印象的に使われていて、美術さんの仕事の素晴らしさに目を見張った。

 西暦1600年10月21日(慶長5年9月15日)、実際は数時間でカタがついてしまった<天下分け目の関ケ原の合戦>。 それに至るまでの道程を、石田三成(岡田准一)側をメインに徳川家康(役所広司)側とともに描く。
 光成が島左近(平岳大)を三顧の礼で臣下に迎えたとか、興味深いエピソードをちりばめた結果、全体像が見えにくくなったきらいもあるけれど、でも流れだけ追っていったら年表になっちゃうし仕方ないのかな。 多い台詞を早口でやり切っているみなさん、おつかれさまです。 でも役所広司はさすがそんな感じはなかったけど、岡田くんはちょっと聞き取れないかな?、というところが・・・(まぁ、それだけ台詞が多いんですけどね)。 時代劇特有の単語もあるし、それを知らないと更に聞き取れない可能性も。
 個人的には豊臣秀吉を滝藤賢一さんがこれまでにないアプローチでやっていたのが新鮮。 あぁ、『クライマーズ・ハイ』から何年たったんだっけ・・・としみじみしちゃいました。 他にも、中村育二・辻萬長・堀部くんなどなど脇を原田組常連役者さんたちが固めているのがうれしい! あれ、木場勝己さんがいない!、と途中で焦りましたが、ナレーターでした・・・(またなんか語りがうまいんだ。 台詞とは声の出し方が違うから最初気づかなかった)。 まぁ、登場人物多いので、見逃している人もいるかも。

 あたしが子供の頃に観た史実を踏まえた風の時代劇ドラマでは、石田三成といえば悪役のイメージが強く(それこそ淀殿と謀って権力狙っちゃいます的な)、「実は義の人でただ不器用なだけ」という解釈は最近なのかと思っていたんだけれど、<司馬史観>とまで言われる歴史のイメージの作り手が最初から光成をこうやって描いていたのか!、というのは驚きでした。 となると何故、悪役のイメージが付いたのかが不思議ですが、どうせ過去の人だからよくわからないし、イメージ変えてみよう!、みたいな時期があったのかもな・・・。 吉良上野介も井伊直弼も、悪役っぽさは薄れてきたし(まぁそれは一次資料等、新しい研究成果が出てきたこともあるけど)。
 <大一大万大吉>を旗印にする石田三成はまっすぐなほどの理想主義者で義を最も重んじる人。 けれど短気で性急に結果を求めるところがあり、「理解できない者に理解してもらわずとも構わぬ」という姿勢。 三成の近くにいる者はそういう欠点も含めて彼を愛しているのだが、そこまで近くない者たちには彼の美点が伝わらない(むしろよろしくない部分こそ広まる)、というのが三成の敗因だったというのがすぐわかる。 自ら心酔して仕えていた豊臣秀吉の人たらし的な要素、何故真似しなかったのか。 性格的に真似できなかったのか。 有能ではあれど人の上に立つ柄ではなかったのに、立たざるを得なかったというのもまた三成の悲劇か。
 でもそんな痛々しさを痛々しく見せない、壮大な夢を見る頑固な癇癪持ちとしていたのが岡田准一版石田三成でした。
 一方、まさに<タヌキおやじ>そのものなのが、徳川家康。

  関ケ原1.jpg どんどん巨漢になっていく家康。 作り物のおなかが面白すぎる。
 <鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥>の例え通り、結果を急がず、着実に豊臣の臣下を一人一人切り崩していく様子は「わー、あくどい」という感じ。 老獪という言葉はこの人のためにある、というくらい。 そりゃ石田三成とは性格合わないよな、と納得できる。 あくまで秀吉の家臣という立場から出なかった三成と、もっと先を見ていた家康とはスタートラインがそもそも違うわけで、目的のためなら何でもやる家康のほうが勝つのは当たり前だよね、と思ってしまう。 ただどっちが好きかはそれぞれ個人の問題で。
 家康、結構ひどいんだけど・・・役所広司は「ちょっとユーモラスで、なんかちょっと憎めない」部分を少し強調しているようで面白かった。 本多正信の気持ちがちょっとわかって余計おかしい。 その分、福島正則らがかなり単純バカっぽく描かれていて、ちょっと気の毒になってきた。
 忍びの方々の生き残り策も興味深かった。 原作を読んだことのある人に聞いたところ、初芽(有村架純)は忍びではなかったようですが・・・三成との関係性を示すにはそのほうがわかりやすかった(活躍させやすかった)からかな?

  関ケ原2.jpg 合戦シーンは現時点でできる最大限の迫力。
 戦争は情報戦、というのは現代では常識だけど、その当時でもその意識があるかないかが大違いだということがしみじみ。
 なんで西軍が有利って思われたんだろう・・・どう見たって不利でしょうよ、と感じるけど、それは未来から見てるから、全体の流れを俯瞰で見れているからだろう。 この視点が三成にあったら、<関ケ原の戦い>はなかったかもしれない。 敵を一掃し、味方か否か見抜く機会を得られた家康は、もしこの戦がなかったら天下統一が遅れたかもしれない。 歴史にIFはご法度だというけれど、ついつい考えてしまう。
 小早川秀秋(東出昌大)がキーマンとして描かれていたけど(いわゆる「臆病な卑怯者」のイメージではなく、「義と利の間で苦悩する優柔不断な人物」になっている)・・・それは一つの要素でしかなくて、すべては家康の目論見の末。 天下を取るための用意周到さを前に、結局三成は対抗しきれなかった、という感じか。
 男まつりを期待したけど(ある程度は楽しめたけど)・・・思いのほか女性たちの活躍が目立っていたのでびっくり。 ジェンダーフリー?
 あと、島津側とか地方から応援に駆けつけてきた下級武士たちのお国言葉丸出し感もすごく面白かった(一部では「何言ってるのか全然わからない」と不評のようですが・・・別に一字一句聞き逃してはいけないようなセリフってわけではないし、ここは雰囲気が伝われは十分なのでは)。 標準語(共通語)制定前の日本、って感じがリアルっぽくて。
 木場さんの語りは司馬遼太郎のものなのか、それとも監督のものなのか、それもちょっと気になった(原作を読めということですかね・・・)。 ともかく、原田監督の「この題材で映画を作りたかった!」という熱量は感じました。 でも明らかに時間が足りてない・・・特に前半。 いっそのこと前後編5時間とかにすればよかったのに。 劇場公開が厳しければテレビドラマでも・・・予算出せなかったかな。
 でも、監督の次回作が『検察側の罪人』だというのはなんか微妙・・・。 原田監督発信の企画なのかどうか、今の段階では感じられないのだけれど、今回は「岡田くんが三成を演じられる年になるのを待っていた」とのことなので、若い俳優もチェックしているんですね。

ラベル:日本映画 映画館
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2017年10月07日

10月のはじめは、8冊(その1)。

 早川書房の話が結果的に続いております。
 今月初めのハヤカワ文庫、新刊からまず4冊。

  日本SF傑作選2小松左京.jpg 日本SF傑作選 2 小松左京
 『神への長い道』『継ぐのは誰か?』がタイトルになっていますが、なんと『お召し』が入っている!
 当然『Away』からの影響かと思ったら、編者あとがきではそのことにまったく触れられず。 ちょっとがっかり。

  ダークマター文庫.jpg ダーク・マター/ブレイク・クラウチ
 <『パインズ』三部作>の作者、ブレイク・クラウチによる新作。 これもまた映画化決定らしいですが・・・。
 量子力学がどう関係しているのでしょうか。 気になる・・・。

  タイタンプロジェクト.jpg タイタン・プロジェクト/A・G・リトル
 墜落した飛行機がらみの話、というシチュエーションだけでちょっとドキドキ。 キングの『ランゴリアーズ』っぽいところも感じつつ、全然違う話になってる感じがしてそれも期待。

  ノクターナルアニマルズ文庫.jpg ノクターナル・アニマルズ/オースティン・ライト
 結構前に『ミステリ原稿』というタイトルで単行本が出たままだった作品が、映画化を機に映画と同じタイトルに改題し、文庫化(原題はまた違うんですよ)。
 こういう早業、早川書房得意です。
 しかし『ミステリ原稿』ではインパクトが薄いというか、残念ながら売れなそうなタイトル。 ほんとにタイトル付けは難しいなぁ。
 ちなみにこれ原作の映画はジェイク・ギレンホール&エイミー・アダムス共演ということですごく期待。 絶対観る!

 ちなみに・・・カズオ・イシグロ最新刊『忘れられた巨人』ですが、当初10月19日だった文庫版の発売日が10月13日に繰り上がりました。 しかも初刷25000部予定のところ、倍の5万部にするとか(他の作品も併せて、実質全部で22万5千部の増刷)。
 多分、こんな大量増刷をかけたのは初めてではないだろうか・・・帯も「ノーベル文学賞受賞」のに変えるというし。 ハヤカワが、というか、こうなると印刷所が心配だ。

ラベル:SF 新刊
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2017年10月06日

早川書房、おめでとう!!

 家に帰ってきてシャワーを浴び、髪をタオルでガシガシと乾かしながら、「あー、ヨーグルト食べようか」と思ったとき。
 なんとなくふと思いついて、タブレットのスイッチを入れた。
 <速報>として、「ノーベル文学賞にカズオ・イシグロ氏」の文字。
 「へーっ!、すごーい」と思わず声が出てしまった。
 ここしばらくノーベル文学賞受賞者は知らない人か読んだことがない人がずっと続いていたので・・・(ボブ・ディランは除く)。
 自分が知っている、読んだこともある作家で、しかも自分としては好印象の相手。 なんかすごい。 これが同時代感?
 まだご本人若いから、候補に挙がっているとは思ってなかったから余計びっくりだった。

 で、同時に思ったことは、「早川書房、おめでとう!!」である。
 現在、カズオ・イシグロの著作の版元はすべて早川書房なのです。
 その時点でツイッターのトレンドワード上位に<早川書房>が入っていたので、思わずクリック。
 そこには「早川書房、おめでとう!!」的なコメントがごそっと続いており・・・(うち半分ぐらいは、そのあとに「カズオ・イシグロ特需で儲けが出たら、中断してる『〇×』(人によって違うが、翻訳物のSF)の続きを出してね」と書いていたりして、ここの出版社事情に詳しい人たちの存在を教えてくれる)、なんだか読んでてジーンとしてしまっていた。
 勿論、<早川書房>という出版社のことを知らない人もいて、知らない人がいるということにショックを受けている人もいて、TVニュースで早川書房の社長がインタビュー受けていたことを教えてもらい、帰宅途中だった営業部員がニュースを知って自主的に会社に戻り、鳴り止まない電話に対応して結構動揺してたこととか(「入社して初めて5桁の注文を受けた」とか・・・)、これまでにない大騒ぎの早川書房の様子を垣間見ました。 ツイッターは多少更新されているけれど、HPのニュース欄にもフェイスブックも更新されていない。 注文殺到の電話に全社一丸となって対応したことがうかがえる。
 しかもタイミングがいい。 10月19日にカズオ・イシグロの新刊『忘れられた巨人』が文庫になる。
 でも、ハヤカワ的には映画『ブレードランナー』続編の公開に合わせてフィリップ・K・ディックまつりを開催中なんだよね〜。
 確かに<特需>はあるだろうけど、大量の増刷はハヤカワの契約印刷所に可能だろうか・・・今月前半の新刊がだいたい刷り上がっているタイミングとはいえ。 カズオ・イシグロの著作はそれほど多くないうえどれも絶版になっていないし、すべて電子書籍化されている。 大きい本屋さんならそれなりの在庫を抱えているだろう。 あまり早川書房の人たちに負荷のかからない方法で、この時期を乗り切ってほしい。
 早川書房の知名度が上がるのはすごくうれしいことだし、主にSFとミステリの翻訳書中心の専門出版社の老舗でありながら、しばらく前から科学ノンフィクションにも力を入れているし、SF・ミステリ要素はあるけどより文学性の高い作品も発掘してきている(その結果がこれ)。 なにより今はあまり売れない翻訳物に力を入れてるんです!、という会社の姿勢がもっと広まってほしい。
 なんか、「カズオ・イシグロおめでとう」なんだけど、それが「早川書房おめでとう」になっちゃっているあたりに、一部SF・ミステリジャンルを愛する人たちの早川書房への愛を感じ取って(勿論その気持ち、あたしも同じなんだけど)、とにかくうれしいのです。
 だから逆に、「カズオ・イシグロ、ありがとう!!」みたいな気持ち。

ラベル:海外文学
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2017年10月05日

The 500/マシュー・クワーク

 <サム・ドライデンシリーズ>を2作続けて読んで、翻訳者の田村義進氏の言葉の選び方が面白いな、と思った。 キャリアも長いみたいだから(なんと越前敏弥氏の師匠だそうである!)、多分これまでにも読んだことあると思うんだけど・・・これってのが浮かばないなぁ、と検索してみたら、スティーヴン・キングの『書くことについて』やジェイムズ・エルロイやカール・ハイアセンの作品群、アガサ・クリスティーの『ゴルフ場殺人事件』なんかも訳してる!
 読んでた〜、でも全然記憶になかった・・・結構昔に読んでるものが多いから、翻訳者の名前を覚える、という意識が薄かったのかな。 何冊か続けて読んでたら違ったかもしれないけど(ハヤカワのアガサ・クリスティーはほとんど田村隆一が訳していたと思っていた・・・。 新訳かな?)。
 というわけで、田村義進氏の訳書、という観点から探してみた。

  The 500.jpg ポケミス初の横文字タイトルだそうです。 読み方は『ファイブ・ハンドレッド』。 そう思うとハヤカワの仕事が多いのかな?
 しがない貧乏学生である“わたし”(マイク・フォード)は、ロー・スクールの三年生で、同時に政治学も学んでいた。 理由はよくわからなかったが、そうすればワシントンDCで結構な職を得られるのではないかと思ったようだ。 “わたし”の父は詐欺と窃盗の罪で服役中で、母はとっくに亡くなった。 父のようにはなるまい、まっとうな道を歩もうと思っている“わたし”だが、実は父や父の仕事仲間たちからいろんなことを学んでいた。 道を踏み外そうと思えばすぐにできたが、すでにペナルティを受けた過去があるため踏みとどまった。
 ある日、“わたし”は客員講師として招かれた名うてのロビィスト、ヘンリー・デイヴィスの講義にもぐりこんだところ、質問に対する答えが気に入られ、“わたし”は<デイヴィス・グループ>にスカウトされた。 目的のためには手段を選ばない会社の方針は“わたし”の競争心をあおり、着々と出世街道を歩むことに。 使い切れない給与・報酬、豪華すぎる家や車、DCにありがちな上流社会との人脈、そして美しく賢い恋人、この世のすべてを“わたし”は手に入れた。 だがそんなしあわせなど長くは続かない・・・という話。
 <ファイブ・ハンドレッド>とは、政治家などワシントンDCを動かしている実力者たちのこと。
 またロビィストとは、ある目的を達成するため政策決定に影響を与える人たちのこと。 全米ライフル協会のように大きすぎ、有名すぎる団体もあるが、<デイヴィス・グループ>は戦略コンサルタント会社と名乗りながら裏でロビィ活動をする、DCの裏社会を知り尽くした最強のロビィスト集団である、という設定。
 日本は世界でもロビィ活動の下手(いや、そもそもそういう活動をしているかどうかも疑問)な国として有名だが、こんな海千山千を相手にしなきゃいけないなら確かに難しいわ!、と感じる。 というか、正確にはそこまでやりたくないというか・・・。
 小規模なロビィストの実態としてはドラマ『スキャンダル 託された秘密』でオリヴィア・ポープが体現してくれているので想像できない世界ではなかったが・・・仕事の基準が自分の信念かお金かでここまで違うものかとおののく(ま、どちらもえげつないことはしているのであるが)。
 その点、マイクの本質は揺らぎつつも「正義の側に立ちたい」人。 まぁ生い立ちのせいでいっぱしの金庫破り(解錠師)ではあるものの。
 スティーヴ・ハミルトンの『解錠師』をちょっと思い出させる部分はあれど、とにかく相手を出し抜く・自分の弱みを隠し通すというあたりはドラマ『スーツ』のような弁護士物にも通じる。
 一人称なのでスリリングさが強く、途中で読むのをやめられないが、描かれる事件のスケールは割と小さい?
 前半はリーガルサスペンステイストなんだけど、後半はアクションものになり・・・いろいろてんこ盛りなんだけど、結局大事なのは<家族>だという・・・いかにもアメリカンな話。
 でもやっぱりスピード感はある。 それが田村氏の得意技のひとつなのか。 マイクの自嘲的な語りがハードボイルドっぽいし。
 映画化権は売れたみたいだけど・・・それから5年以上たってるし、お蔵入り企画かな?

ラベル:海外ミステリ
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2017年10月04日

3月のライオン 13/羽海野チカ

 待ち望んでいた『3月のライオン』、新刊。
 これまでと全然テイストの違う表紙にまず驚かされる。 でも中を読めば、この表紙にするしかない理由もわかった。
 今回は、登場人物たちそれぞれが、少しずつ前に進む話だった(まぁ、進み具合は・・・人それぞれ差はあるけれど)。

  3月のライオン13.jpg 巻頭ピンナップの零くんは、「零くんになっている神木隆之介」だった。 でもその裏は、いつもの零くんと二階堂、島田八段です。 アニメ化(今月からNHKで第二期がスタートだとか)についてのコメントも多く・・・雑誌と違ってコミックスは常にリアルタイムで読むとは限らないのだから、そういうのは帯か本に挟むチラシでやるべきことじゃないのかなぁ、とちょっと思った。

 期待の(?)、あかりさんをめぐる林田先生と島田八段については林田先生目線で語られてて、島田八段かっこいいことこの上ない。
 二階堂くんはついに宗谷名人と対局(一応、この部分が13巻の肝ではある)。
 あの滑川さんが弟さんと会話する場面まで出てくる。
 大きなうねりのある物語ではないけれども、その前の小休止というか、主な登場人物の心の動きが点描画のようにひとつの絵を作っていく。 主人公なのにほぼ出番の少ない零くんも、川本家に癒されていることに改めて気づくし。
 ただ、香子さんのエピソードはちょっと唐突だったというか、それに関連したもう一話ぐらいほしいところです(それまでの伏線はあったけど・・・ちょっと急に変わりすぎというか、そこに至る彼女の苦悩と覚悟を見たい)。
 そして・・・あかりさんの気持ち、すごくよくわかる。 母親を通じて<恋愛感情の負の部分>をすべて見届けてしまった彼女が自分から恋愛に踏み出せるわけがない。 林田先生でも島田八段でもどっちでもいいから、もう本気であかりさんにぶつかってくださいよ!、と言いたい(でもなんとなく島田八段優勢の気配・・・でも自分のダメな部分を突き詰める林田先生の「受け入れたみっともなさ」も捨てがたい。 そんな林田先生に助言する野口先輩、別の意味でかっこいいです)。
 あっという間に終わってしまって・・・まだページ残ってるのに!、と思うとほとんど広告だった・・・先崎さんのコラムがなかったから余計に物語に没頭してしまったからかもしれないけれど、もう一話収録してからで単行本化はよかったのでは。
 はっ、アニメ放送にタイミングを合わせるためか?!
 白泉社までこんな手を使うなんて思わなかったよ!

ラベル:新刊 マンガ
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2017年10月03日

明日は最高のはじまり/DEMAIN TOUT COMMENCE

 またなんか漠然としたありがち邦題・・・。 どうなんだろうなぁ、これ、と思いつつ、「うーん、オマール・シーはシリアスな役も悪役もできるけど、やっぱり底抜けの笑顔を見せるような役柄のほうが彼には似合うし、最も魅力的なんじゃないか」ということを考え、底抜けに明るいオマール・シーを見るために鑑賞。
 でもこれが意外に拾い物というか、予告編で感じさせた内容を裏切る展開でびっくり!
 外国映画の日本の宣伝マンの仕事を信用してはいけないとつくづく思い知ったのであった。

  明日は最高のはじまりP.jpg きっと、ふたりなら明日を変えられる。

 南フランスのコートダジュール、観光客相手のクルージングの仕事をしているサミュエル(オマール・シー)は「毎日楽しく過ごすのがいちばん」をモットーにほぼ遊び暮らしていた。 オーナーに怒られても夜遊びを繰り返し、女性との付き合いも常にオープン。
 そんなある日、彼の前にクリスティン(クレマンス・ポエジー)と名乗る女性が現れる。 サミュエルはすぐに思い出せなかったが、以前関係を持ったことのある相手だった。 「あなたの子よ」とサミュエルに赤ん坊を手渡すと、クリスティンは姿を消す。 「おい、ちょっと待ってくれよ!」と慌てるサミュエルは、彼女がロンドン出身であること、フェイスブックに載っている背景写真に写っているロンドン市内のカフェバーを頼りに子供を返すため急遽ロンドンへ。 しかし彼女はもうそこにはいなかった。 途方に暮れるサミュエルに手を差し伸べたのは、地下鉄で道を聞いたベルキー(アントワーヌ・ベルトラン)。 サミュエルの優れた身体能力を見抜きスタントマンをやってみないかとスカウトしたのだ。 またゲイであるベルキーは子育てにも興味津々。 こうして二人は協力しながら赤ちゃん−グロリア(グロリア・コルストン)を育てていくことになる・・・という話。

  明日は最高のはじまり1.jpg 時間の問題もあるだろうけれど、あっという間に子供は大きくなる。
 その過程は多少は描かれてはいるが・・・子育てってこんなに順調にいかないだろ!、といいとこどりの映像にはモノ申したいほど。 ただ、サミュエルが(ベルキーも)グロリアにメロメロになっていく様子はよくわかる。 まめなプレイボーイが子供、特に女の子を持つと子煩悩な父親に変わるとはよく言われるが、文字通りそんな展開に。 そして確かに愛されている・自分を大事にしてもらっていると実感しながら育つ子供はこんなにも素直で表情豊かになるのだと、グロリアをとてもまぶしく感じてしまうのだ。
 最高の父親、最高のおじさん(ベルキーのことね)がいるグロリアにとって、あと足りないのは最高の母親だけ。 しかし母親は娘を捨てて行方不明だとは言えないサミュエル、母親の名前でグロリアにメールを送って彼女の母親への幻想を壊さないようにしていた。 「いつかばれたら逆にグロリアが傷つくぞ、そろそろやめたほうがいい」とベルキーからは忠告されているのだが、グロリアの寂しそうな姿を見ていられないサミュエルなのだった。 愛のある嘘は許されると思うんだけどね。

  明日は最高のはじまり2.jpg ある意味、これも運命の出会い。
 結局、ロンドンで暮らすことになったサミュエル。 英語が片言のままほとんどフランス語で過ごせちゃうのは、バルキーとのちにグロリアが通訳になってくれているおかげ。 なんとかなるさの精神でスタントマン生活もクリアし、娘二人で暮らしていくには十分な収入も得ている。 無責任男と呼ばれていた彼が娘を得たことでこんなにも変わる!、というありがちコメディ映画だと思っていたんですよ。 実際、映画もこのあたりまでは(さりげなく伏線を張りつつも)そういうノリだったし。
 ところが、グロリアの「ママに直接会いたい」という願いをかなえるためにどうにかクリスティンとの接触を図っていたサミュエル(あれ以来クリスティンがログインした気配はなかったものの、サミュエルはフェイスブックにグロリアの様子を日々書き込み続けていた)、ついにクリスティンがログインし、「明日、ロンドンに向かうわ」とメッセージが来てから雰囲気は一変する。 グロリアは「パパとママ」と思っているが、実際のサミュエルとクリスティンはほぼ見知らぬ他人に近いわけで。

  明日は最高のはじまり5.jpg しかしクリスティンとしても母親としての愛情はあるわけで・・・育児ノイローゼで逃げたんだろうな、でも逃げたことを許してもらえないかもという気持ちが連絡することを妨げていたのだろうと想像はつきます。 素直に「ママ!」と慕ってくる言葉の通じる相手に対して愛情が更に増すのもわかる気はする。 でも、それもサミュエルの隠れた努力があってこそ。
 父親目線で父性を描くと、今度は母性を否定することになってしまう、みたいな感じはなんとかならないものだろうか・・・でもこれまでは母性目線で父性が否定される話のほうが多かったのでこれも時代の流れなのか。 遺伝子上の親と育ててくれた人、という比較ももういいんじゃないかと個人的には思うけど、そうじゃない考えもまだまだ根強いのか・・・なんかいろいろ考えさせられちゃって重たい気分に。 なにより子供には罪はない。 まだ見ぬ母親を理想化し、恋慕うことを責められるはずがない。 いつか時間がたったらわかることかもしれないけれど、急いで真実を伝える必要はない。
 ところがクリスティンは恋人を連れてきていて、グロリアを連れて一緒にアメリカに行くと言い出す。 サミュエルが賛成してくれないなら裁判を起こすとまでいう。 え、それはあまりに勝手すぎやしませんか! サミュエルやバルキーだけじゃなく、観客だって怒りますよ。

  明日は最高のはじまり3.jpg グロリアの願いはパパとママ(とバルキー)が一緒にいてくれること。
 しかし大人の事情は子供の希望をかなえてくれない・・・。
 どんどん重たい話になってくる・・・でも娘の前ではいつも通りの笑顔で振る舞おうとするサミュエルの心意気が、泣けるよ・・・。
 クリスティンのキャラは結構ひどい。 これは女性でも感情移入がしづらいし、女優としてはその分やりがいのある役だろうけど・・・女優魂を感じる、というだけでほんとにひどい役だった。 でもその理不尽さは映画全体を通したテーマ「人生における不条理なまでの理不尽さをどう受け止めるのか」をストレートに体現しているキャラでもあるので・・・こういう女性もいるよ、ということにしておくか。
 子役とは思えぬグロリアの自然で達者な演技に脱帽しつつ、「やっぱりこの邦題はおかしい・・・」と感じた映画。 いや、展開とか結構無理もあったんだけどね、そこはオマール・シーのパワーで乗り切ってるから。

ラベル:映画館 外国映画
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2017年10月02日

パターソン/PATERSON

 ジム・ジャームッシュってなんとなく「オシャレ映画」のイメージがあるような気がするのはなんでだろう。
 過去の『ストレンジャー・ザンパラダイス』『ダウン・バイ・ロー』のせいであろうか。 『ミステリー・トレイン』『ナイト・オン・ザ・プラネット』のあたりもそうだったけど、「他の人にはわからないかもしれないけれど、私にはわかる」という、今で言うところの<意識高い系>の方たちがメディアを通じてジム・ジャームッシュをほめていたような気がしてたから。 その頃はあたしも若かったし、地元の映画館で公開されてなかったと思う(ミニシアター系作品、ほんとにやってなかった。 唯一観ることができたのは特別上映された『ベルリン・天使の詩』だけである)。 でも、その後あたしがジム・ジャームッシュ作品を観るようになって感じたことは・・・「これって、コントだよね?」ということ。
 一見シリアスな場面のように見えても、すべては笑いのために構成されているような気がして。 でもその<笑い>の種類も受け取り方によって面白かったり面白くなかったりするような微妙なもので・・・「映像がきれい」とか「構図が面白い」という映画として正しい(?)部分があるのでコントだと気づきにくいんだけれど。
 結局のところ、あたしは彼の映画をシティボーイズライヴと同じような系統にあるものとしてとらえているんだけど、昔からの<オシャレ映画>の刷り込まれを分離できてない、ということか(うーん、でも音楽が題材のときにはオシャレのほうが優先されている気がするし・・・)。
 自分の中にあるイメージを、はっきり形にしたり説明するのは難しい。

  パターソンP.jpg 毎日が、新しい。

 アメリカ、ニュージャージー州パターソンという町での出来事。 バスの運転手をしているパターソン(アダム・ドライヴァー)は、実は詩人である。 毎日ノートを常に携帯し、頭に浮かぶ言葉を書き留めている。 そんな彼の、ほとんど変化のない同じような日々の繰り返しでありながら、もしかしたら彼のその後の人生に影響を与えてしまったかもしれない一週間を描く。
 はじまりは月曜日の朝から。 妻のローラ(ゴルシフテ・ファラハニ)よりも早く起き、ドーナツ型のシリアルを食べて出勤、出発前のバスの中でノートにペンを走らせ、時間だからとバスの運行を始める。 乗っては降りていくお客さんたちの会話の断片が詩にインスピレーションを与えてくれることもある。 ローラが作ってくれていたランチボックスで昼食。 仕事を終え、歩いて家に戻るとローラは何か新しいものに挑戦しており、その話を聞きながら夕食。 そのあと飼っている犬の散歩に出かけ、行きつけのバーでビールを一杯。 それがパターソンの基本の行動パターン。

  パターソン4.jpg この犬がブサカワ系代表のような佇まいで・・・大変キュート。
 でも同じように見えて、同じ毎日が繰り返されるはずもなく、基本は外さずとも変化はそれなりにある。 <事件>というレベルではなくとも<出来事>はあって、そのささやかさがささやかですまないのは、やはり主人公が“詩人”だからなんだろう。 といっても彼はプロの詩人ではなく、一人でノートに書き溜め、外に発表する気もないアマチュア詩人ではあるのだが、生き方として詩人の道を選んでいるから。 誰もが見逃してしまいそうなことを掬い取り、繰り返し言葉を吟味する。 はじめに思い付いたフレーズをどう推敲していき、どう詩を続けるかの過程がナレーションでわかって結構面白かった。 ま、それはあくまで彼のやり方ではあるけれど。

  パターソン5.jpg パターソンという町に住む、パターソンという名の人物。 それだけでギャグにはなるが。
 しかしこの町はやたら双子の出現率が高い。 いつものバーで常連同士顔見知りの人物が兄弟を連れてくると顔がそっくりだったり(おまけにその二人の名前はサムとデイヴなのである、黒人で。 サム&デイヴ!)。 なので名前が面白い(?)のはパターソンだけではないのだった。
 そういう、ちょっとニヤリとさせる部分が、この映画にはたくさんある。 まさに、愛すべき日常。
 帰宅途中に出会った少女が詩を書く人で、彼女の口からエミリー・ディキンソンの名前が出てくる。 やはり彼女はアメリカで愛されている偉大な詩人なのだね。
 また、彼の詠む詩がスクリーンにテロップで出るのはすごく親切。 その文字と対訳とを比較できるし、はっきり単語がわかる分、韻を踏んでいるのかどうかも分かりやすい。

  パターソン1.jpg パターソンがあまりに誠実で純朴に映るが故に、ローラの行動はあまりにエキセントリックで自分勝手に見えてしまうのが玉に瑕。
 モノトーンと奇抜な柄を愛し、芸術家気質のローラは毎日のように部屋の模様替えにいそしむ。 そして「あなたの詩は素晴らしいんだから、きちんと写しを取っておくべきよ」と再三勧め(実はパターソンはあまり乗り気ではないのでなんとかごまかして時間を稼いでいる)、「ギターほしいの」とおねだりもする。 夫がつつましい生活をしているのにどういう妻だよ、ほしいものがあれば自分で働けよ!、と一瞬あたしは思ってしまったのだが・・・パターソンくんがこの妻をとても愛しているらしいことに気づき何にも言えなくなる。 あなたたちがそれでいいのなら、いいんです(のちのち、公園のバザーみたいなものでローラがカーテンの模様のようなマフィンを大量に作って見事完売させたりしているので、金銭問題は特にないと考えることにした)。

  パターソン2.jpg だが、不意に<事件>は起こり・・・。
 落ち込んでいた時に出会ったのが日本から来た観光客(永瀬正敏)。 彼は日本で詩を書いていると言い、ずっと好きだったパターソン出身の詩人ウィリアム・カーロス・ウィリアムズが生まれ育って詩を詠み続けた場所を見てみたかったのだと告げる。 彼の手には日本語に翻訳された『パターソン』という詩集が(中は原文と対訳という構成で、外国映画の場面で日本語の文字を見るというシュールで不思議な体験をしてしまった)。
 彼は言う。 「詩は翻訳してしまったら大事なニュアンスが失われてしまう。 元の言語で読まなければ」。 だから彼は日本語で詩を書くのだと。 見た目は明らかに日本人ビジネスマンみたいなんだけど、彼もまた詩人としての生き方を選んだ人なのだろうか(でも若干、永瀬正敏やりすぎじゃない?、というくらい癖のある言い回しは笑っていいものかどうなのか・・・ここで日本人を登場させるのがオフビートなのか)。
 彼との出会いがパターソンにどのような影響を与えたのかははっきりとはわからない。 でもこの一週間は、パターソンの何かを変えた。
 次の一週間がまた同じように始まりそうなエンディングではあるけれど、彼の変化がどちら側に転ぶのかはわからなかった。 どっちにもとれるんだけど・・・希望があるほうを信じたいけれど・・・どうだろう。 観る側の精神状態でも受け取り方が変わる可能性があるなぁ。
 ちなみに、作中でパターソンが詠む詩は、実在の詩人ロン・パジェットのものとのこと。 この映画のための書き下ろしなのか、もともとある詩から映画に合ったものを選んだのかは、エンドロールからはわからず。
 言語とは文化そのものでとても繊細なものである、というメッセージは明快なんだけど、言語に不案内な人はどうしたら・・・その橋渡しをする翻訳者という存在を否定してはいないと思うんだけど、すごく重要だってことが言いたいのかもしれない。
 しみじみ、じんわりと来る面白さにあふれた映画なんだけど・・・最後、ちょっともやもや。
 そのへんを含めて、ジム・ジャームッシュなのかな。

ラベル:映画館 外国映画
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2017年10月01日

ダンケルク/DUNKIRK

 クリストファー・ノーランが史実を撮る!、という情報だけですでにニュースだった。 しかも題材はあの<ダンケルク撤退>。 これは期待できないわけないでしょうよ!、というわけでかなり前から公開を心待ちに。 でもちゃんと時間とは経ってしまうのですねぇ。
 しかも週間興行成績初登場一位とか! 日本ではすっかり有名な監督になった、ということかしら。
 ただ・・・あたしはすごく盛り上がってしまったのですが(そういうお客さんも多いと思いますが)、残念ながら「意味わかんない」・「結局何だったの」と言いながら帰るお客さんもいて・・・まぁ史実なので多少の下調べは必要かもしれないですが(と言っておきながらあたしの知識のネタは『ブラックアウト』&『オールクリア』なんですけど)、そもそもこれまでのノーラン作品が結構トリッキー&わかりにくい傾向にあるんだから、それはわかってきてるんじゃないのかな? メインは無名の若手俳優だし、監督の名前がいちばんのネームバリューなのだから。
 でも、それで今後も話題の映画を観に行こうという気持ちが薄れられても困るし・・・むずかしい。

  ダンケルクP.jpg 絶体絶命の“ダンケルク”の40万人。残り時間わずか、生き抜け、若者たち。

 が、わかりにくいという人の気持ちもわかる。 この映画はほとんど説明なしで進むから。 登場人物の名前すら、あまり重要ではない。
 若い兵士が、追われるように、逃れるように人気のない街中を走る。 どうにかこうにか友軍らしき塹壕に飛び込むが、相手の話す言葉はフランス語でよくわからない。 向こうへ行け、と身振りで示された方向へ行けば、建物が不意に切れてそこからはどこまでも続くように見える海岸線。 そこはドーバー海峡に面したフランス北端の港町ダンケルク。 トミー(フィオン・ホワイトヘッド)がそこに着いた時には、すでに連合軍の兵士40万人あまりが足止めを食らっていた。
 そんな1940年のダンケルクを舞台に、海岸線にいる者たちの一か月、イギリス側からダンケルクに救助の船を出す海の上で過ごす者たちの一週間、スピットファイアで空中戦を繰り広げるパイロットのファリア(トム・ハーディ)ら空にいる者たちの一時間を、体感時間で等価にして同じ時間軸で<ダンケルク撤退>を表現したのがこの映画である。

  ダンケルク2.jpg だから観客も、彼のようにぽつんと取り残され、放り出された気持ちでこの映画に参加することになる。
 なので「意味がわからない」というのは正しい感想かもしれぬ。 新兵として参加させられている彼らは「何故戦争になったのか」に背景を理解しているとは思えないし、とりあえずこの状況から逃げたい・国に帰りたいという気持ちだけ。 でも軍規に逆らうわけにもいかないし、かといって自分がどこにいるかも実はよくわかっていない気配(自分の才覚で帰ることは無理だから、帰還船にどうにか乗り込みたい、という思いだけ)。 
 しかしダンケルクの海岸線は遠浅で、大型船に乗り込むには長い桟橋が必要。 少ない資材で作ったらしき桟橋は水平線まで見渡せる海の中で頼りなく存在していて、けれど敵はピンポイントでそこを爆撃してくるから気の休まる暇なんてない(勿論敵はドイツ軍、飛んでくるのはメッサーシュミットだが、固有名詞が出てくることはない。 ただ“敵:enemy”と表現されるだけ)。

  ダンケルク5.jpeg 桟橋の上はすごすぎる渋滞。
 こうやって、やってくる救助・帰還船を待つのだが・・・40万人と一言でいうけど、どれだけの数なのか想像できない。 それが浜辺に並んでいるのだから、敵からしたら格好の標的だよね・・・。 船がやってきてどうにか乗り込んでも、その船自体が爆撃されて沈んでしまうこともある。 戦争に安全なんてないが、いつ来るかわからない敵機におびえ、いつ国に帰れるかわからないことに精神的に消耗し、戦うことはしていないけど、彼らはただひたすら待つだけの時間を多く過ごすことになる。

  ダンケルク1.jpg 向こうの海にも波の花はあるのね。
 つまりはそれだけダンケルクの海は波が荒いということです。
 なのに、イギリスの民間船の船長ミスター・ドーソン(マーク・ライランス)は息子らとともに兵隊救出のためダンケルクに向かう。 息子の兄のほうは空軍で出兵、船長自身も第一次世界大戦に参加したことがあるようで、自分の船が軍に接収されるくらいなら自分の力で救出に行ってやる、という気骨の男。 弟のほうもそれをよくわかっているようで、無茶を承知で同行する。
 海は荒れている、途中で撃沈された味方の船を見つけて生存者を救出したり、彼らの航程に休息はないのだ(だから一週間の出来事になっている)。

  ダンケルク4.jpg ノーラン作品にキリアン・マーフィーが出ているとなんだかうれしくなる。 でも今回は、恐ろしいものを見てしまったPTSDの兵士として、精神的にあやうい人物を好演。 またそういう役が似合うしな!

 船は非力ながら助ける側として、そしてスピットファイアのパイロットも残りの燃料や弾薬を考えながら、不意に現れる敵機と戦いながら海岸で待つ兵士たちを守ろうとする。 最近の戦闘機に比べれば驚くほどレトロな飛行機同士が、命中率の悪い武器で戦うさまは逆にすごくハラハラする。 燃料もそんなに多くは積めないはずだし、燃費も悪かっただろうし、彼らが飛べるのは一時間が限界。 でもその一時間、彼らは常に緊張を強いられ、生命の危機にさらされつつ他者を守るという任務を遂行しなければならないのだ。
 だからこそ、トム・ハーディがすごくかっこいい!(出番はそんなに多くないけど)

  ダンケルク3.jpg 司令官・・・(ケネス・ブラナーです)。
 敵機が姿を見せるたびに驚きの表情を浮かべる。 司令官なのにまったく情報が伝わっていない。 ならばなおさら新兵なんかわかっていることがあるわけがなく。 とはいえ「戦うことなく逃げる」ということに対して新兵でさえうしろめたさを感じているというのが、やっぱりそういう時代なんですね。
 「撤退するのも勇気がいること」ということは簡単だけど、その撤退のタイミングを正しく見抜ける指導者がいるのかどうか。
 やはり戦争はなにもいいことがない、と海岸にいる兵隊同様に閉塞感にとらわれる観客はしみじみと実感する。
 けれど終盤は、壮大なドラマに移行して、観客は突然物語の渦に巻き込まれる。 歴史的事実として知っていたことが、実際の出来事として目の前で展開する躍動感と、それを知る術もなく絶望の中にいた彼らに突然に訪れる希望として。
 これがドラマティックということか!
 なんだかうっすら泣きそうになっていた。
 エンドロール見てびっくり。 今回は監督だけでなく脚本もクリストファー・ノーラン。 兄弟の共同作業は解消? 今回だけ? それとも二人それぞれやりたいことが単独でできる環境になったから、自然な移行?
 結局、あたしはノーラン兄弟がどちらも好きみたいです(役者の好みも、なんか近いし)。

ラベル:映画館 外国映画
posted by かしこん at 23:59| Comment(0) | 映画 movie | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする