2017年08月20日

黒い迷宮/リチャード・ロイド・パリー

 <ルーシー・ブラックマン事件>について、報道されていた記憶はある。 イギリス在住のご家族が来日して記者会見したり、Missingの貼り紙がされたことも、遺体が海のそばの洞窟で見つかったことも、犯人が捕まったことも覚えている。 でもそれはすべて断片的なもので、それらの情報があたしの中でひとつながりになっていないことに気づいた。 凶悪犯罪には興味あるあたしなのに、何故。
 それが、この本を手に取らせたいちばんの理由だった。 事件発生当時のあたしは北東北に住んでおり、それ故にまったく想像の付かないこと(日常生活において気にかけたことが一度もないこと)が要因の一つとして大きく取り上げられていることに驚いた。 現在は関西に住んでいるのでそういう発想(?)があることには気づかされたが・・・でも当時はそういう報道に触れた記憶はなかった。 すべて追いかけていたわけではないけど・・・日本のマスコミに自主規制があったのだろうと今では推測できる。
 でもねー、北東北の片田舎に住んでいると、近くにいる人たちに対して「この人は本当に日本人だろうか、日本国籍を持っているのだろうか」なんて考えることもない、そもそも、思いつきもしない。

  黒い迷宮1.jpeg黒い迷宮2.jpeg きちんと裏取りをしたルポルタージュだが、まるで小説のように感じることもある。
    多分それは、筆者がこの事件に入り込んでしまったからだろう。 冒頭に川端康成の『眠れる美女』が引用されているのだが、事件の内容そのものを考えたら川端康成への冒涜とも取れてしまうのだが・・・イギリス人にはそういう発想はないのかな? それとも、こういう妄想を持ちうる人間には国籍関係ないといいたいのだろうか。 どちらにせよ、筆者は被害者遺族やその関係者とも信頼関係を結び、被告側にも同じように接触を試みる。

 事件が起こったのは2000年の7月。
 あの頃のあたしは何をしていたか・・・地元で働き始めていて、あまりテレビを見ていなかった(新聞は隅から隅まで目を通し、興味ある項目だけ読んでいた)。 当時個人のパソコンは持っていなかったので、インターネットはしていなかった。 でも今はなき『今日の出来事』ぐらいは見ていたような気がするし・・・多分映像として記憶に残っているものの元ネタはそのあたりだろう。 あとはもっぱら活字で事件の経過を追うことになる。
 実は今回、容疑者となった織原城二という名前の読み方が「おはら・じょうじ」であることを初めて知ったというか・・・ずっと「おりはら」だと思っていたのだ。 それもまた、音で聞かず文字で認識していた証拠かな。 そもそもこの名前の字面が一昔前のマンガの登場人物のようで、「なんか偽名っぽい」と当時あたしは感じていた。 単に自分の身元を明かしたくなくて、とりあえず名乗った仮称ではないか、と。
 が、あたしの感じた胡散臭さの正体がこのようなものだとは思いもよらなかった。 あとあと自分でつけた名前だったのだ、どことなく自己愛が漂うのも当たり前である。

 ふと思うのは・・・もしこの事件のときに裁判員制度が導入されていたらどういうことになっただろう、ということだ。
 もっと警察は証拠固めをしっかりしたはずだろう、自白がなくても証明ができるように。 そして基本前例主義の裁判官でなく、裁判員がいたなら、そこまで偶然が重なるかは審議になっただろうし、検察側も弁護側ももっと力の入った論戦を繰り広げていただろう(そして弁護側の繰り出す矛盾点に、もっとツッコミが入ったはずである)。 そう考えると、裁判員制度の導入は「よかったこと」になる。 裁判官側の意識改革だけでなく、硬直した警察の取調べ制度にもメスが入るようになったのだから(となれば取調べ可視化は当然の流れである)。
 あたしはずっと不思議だった。 海外ドラマや警察小説を読んでいると自白なしでも証拠が確実ならば起訴はできるのに、何故日本ではそういうことにならないのか(もっとも、外国ではその分証拠の調査・保管手順が重要視され、そこで不手際を起こすと起訴が取り下げられて犯人は釈放されてしまうという危険性もあり、弁護士の力量次第でなんとでもなってしまうという印象がある。 日本の司法がまだまだであるのは事実だが、外国がパーフェクトであるともいえないのも事実だ)。
 日本の警察が優秀とは言えないのは、難解で複雑怪奇な事件に対応できないからである(そういう事件が諸外国と比べて起こる件数が極端に少ないから)。 日本の警察がうまく機能してるように見えるのは(日本の治安がいいのは)、警察が優秀なのではなく日本社会が順法精神にあふれおとなしく従順であるからに過ぎない、というように著者に断言されてしまう部分は「確かに・・・」と思わずにはいられなかった。 地元の県警、収賄や横領なんかにはすごく能力を発揮するんだけど、殺人事件となると勢いが弱まるのわかったもん。 現行犯とか、犯人が親族・顔見知り以外の事件は解決に時間がかかってたし、語り継がれる迷宮入り事件もあった。
 2017年現在、多少変わってきたと思うけど(それだけ想定外の事件が起こるようになってきたからだが)、2000年の東京でもまだこうだったのか、というのは地方出身者にとって驚きに近い。 それだけ人の数が多いからというのはあるかもしれないが・・・刑事ドラマや警察小説がこんなにも人気なのは、現実はそこまで行ってないという証明なのかもしれない。

 しかし著者はイギリス人なれど、『ザ・タイムズ』の日本特派員として20年以上日本に住んでいる。 普通の日本人にもインタビューしているから日本語の日常会話には困らない程度なのだろう(さすがにすべて日本語でこの本を書くことは難しかったのか、最初から英語圏での出版を考えていたからなのか)。 それでもそういう歴史認識なのか・・・という部分は読んでいて悲しくなる(大英帝国はそういう帝国主義で植民地化を押し進めた経緯があるから同じだと思っているのだろうか)。 あたしも当時生きてたわけじゃないからなんともいえないけど・・・やはりそこは日本人とは違うなぁ、と。 でもこの本がアメリカ・イギリスの犯罪ノンフィクション賞を受賞したりノミネートされたりしてるってことはそれだけ国際的に読まれてしまったわけで、ここに書かれた歴史認識がそのまま広まるのは不本意である、と感じる。 勿論、読者側がすべてを信じてしまわないというリテラシーを持っていることも重要だけど、他の考え方も発信していかなければいけないということ。 日本国内でも議論になっているのに、一方的な情報だけ広まるのはよろしくない。

 同時に、外国のノンフィクションを読む際にもあたしは同様に考え、気をつけなければならないということだ。 わからないことが多いから「ひえーっ」と思ってしまうけど、別の書物を読むことで視点を広げないと。
 日本は特異な国だといわれる、いい意味でも悪い意味でも。
 けれど日本にいるとそれが当たり前で・・・外国のほうが特異に思えるんだけど。
 それぞれが「お国の違い・個性」として見るだけでは、もう世界は狭くなりすぎたってことなんだろう。 これもまたグローバル化の産物か。

posted by かしこん at 23:59| Comment(0) | ☆ 読んじゃいました | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする