2017年08月02日

セールスマン/FORUSHANDE

 話題のアカデミー賞外国語映画賞受賞作品。 話題はむしろ内容よりも、授賞式をあえて欠席した、という部分にあったのだが。
 とはいえ、『別離』のアスガー・ファルハディ監督だから・・・男と女の間には深くて長い川がある、みたいな話なんだろうなぁ、と予測。

  セールスマンP.jpg ある夜の闖入者―― たどり着いた真実は、憎悪か、それとも愛か――。

 突然、ブルトーザーの音が響き渡り、住民の悲鳴がこだまする。 マンション(アパート?)の強引な工事のため、今にも倒壊しそうな危険建築物になってしまったのだ。 その建物に住んでいる妻ラナ(タラネ・アリドゥスティ)と夫エマッド(シャハブ・ホセイニ)はどうにもならず、人からの紹介で別の建物に引っ越すことになる。
 夫は学校で演劇・戯曲を教えていて、更に夫妻は揃って劇団に所属する役者で、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』の公演中でもあった。 家に一人でいた妻は、ノックの音に夫が帰ってきたのだと思い込みドアを開けてしまうが、それはまったく知らない何者かで・・・それ以来、二人の間には一定の緊張と不協和音が鳴り続ける、という話。
 冒頭から、描写がどことなく舞台劇っぽい感じがしていた。 なので二人が演劇関係の人であるとわかると妙に納得し、内容が内容なのであまりリアリティを出さないようにしたのだろうか、などと感じる。 『セールスマンの死』は劇中劇の扱いだが(タイトルもここから来たのか)、この物語事態<劇>要素が強いので、劇中劇中劇ぐらいの雰囲気。

  セールスマン2.jpg 楽屋にて。
 イランでもアーサー・ミラーはメジャーなんだ!、ということに少し驚き、驚いてしまったことに自分の固定観念を思い知らされる。 かつてイランではゴジラ映画も上映されたことがあると知っているのに。 今の<閉鎖的なイスラム>のイメージにあたしも毒されすぎている。
 だからいろんな国の映画を見ることは大事なのだ。
 世間体を気にして警察に行かず、夫以外誰にも知られたくない妻(夫に告げたことものちには後悔した模様)。 その妻の気持ちを理解しつつも、復讐の念にとりつかれて犯人捜しをやめられない夫(しかも意識的にか無意識的にか、被害に遭った妻を内心責めている)。 そんな構図は、日本でも普通にありそうではないか。

  セールスマン3.jpg 国語教師として教壇に立つ。 人前に立つことは彼のひとつのアイデンティティかも。
 だからこそ彼は自分の怒りを正義だと思い込む。 それが妻を余計に苦しめていることにも気づかずに。
 だが、被害者であることに閉じこもってしまって、すべてをなかったことにしたいと願う妻の気持ちもまた正しいのか(気持ちはわかるが、状況はなにひとつ解決せず悪化するばかり)。 都会であるテヘランにおいてもイラン的道徳、女性が「自分に不手際はなかった」と公に訴えることに抵抗がある、むしろ「自分に落ち度があった」と考えてしまう傾向は消えていない。
 よく調べずに引っ越してしまったことが悪いのか、その部屋を紹介した人が悪いのか、本来それは善意からはじまったはずなのに、いつしかやりきれない気持ちに満ちている。 そんな状態で、舞台に立てるわけもなく。
 夫妻にとっての日常生活と、舞台上の“生活”が対比されることで現実の空虚さがはっきりする。
 あぁ、やっぱりこの監督の描く世界、こわい。

  セールスマン4.jpg “役者”がそろった。
 夫は自分で犯人を捕まえるために奮闘し、容疑者を絞り込む。 いざ対決、と場をセッティングするが、現れたのはまったく予想外の人物で・・・というのはミステリ的にはお約束ではあるものの、犯人捜しはこの映画にとっては最重要な要素ではないので、問題なのはその後の展開である。
 正義とは法的なものよりもその人の良心なり、内面にあるもの。 だからその形は人によって違う。
 だから報いを受けるのならば、それもまた法律によるものではない。
 それをどう受け止めるのか・・・それがつらいから、法律に任せたほうがいいのだろうか。 でもそのためには仔細が白日の下にさらされるわけで、知られたくない人にも知りたくない人にもその希望はかなえられない。
 正しさとは何なのか、つまりはそういう話だったのか。

  セールスマン1.jpg 結局のところ、印象に残るのはラナの美しさ。
 しかしこれから、この二人はいったいどうなるのだろう・・・。
 答えの出ない、突き放すような終わり方。
 やはり「男と女は分かり合えない」という話だったのか・・・呆然として、席を立つ。

ラベル:映画館 外国映画
posted by かしこん at 23:59| Comment(0) | 映画 movie | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする