2017年07月12日

ハクソー・リッジ/HACKSAW RIDGE

 メル・ギブソン復帰作、かつ沖縄戦・前田高地での戦いを描いている(とはいえ宣伝はその点控えめ)というのが気になって、観る。
 オープニングからすさまじい戦場。 こんなんだったら敵も味方もわからなくなるんじゃないか、という大混乱ぶりに当時の戦闘のなんともいえないむごたらしさを見る。
 こんな戦い、したくない。 多分誰もがそう思うような描かれ方、これが『プライベート・ライアン』を超えた、といわれる所以なのか。

  ハクソーリッジP.jpg 世界一の臆病者が、英雄になった理由とは――

 時は第2次世界大戦真っただ中。 デズモンド・ドス(アンドリュー・ガーフィールド)は敬虔なキリスト教徒で、人を殺してはいけないという信念を強く持っていた(その原因の決定打は、子供の頃兄とのケンカでつい近くにあったレンガで兄を殴ってしまい、あやうく兄の命を奪う・自分が人殺しになるという恐怖の経験をしたためである)。 その信仰心故に<良心的兵役拒否者>であったデズモンドだが、町の人々が次々戦場に行き、様々な報道を耳にするにつれ、自分も衛生兵として軍隊に入って役に立ちたいと思うようになった。  当然、武器は持たないという自分の信条を変えることはせずに。 父(ヒューゴ・ウィーヴィング)は前の大戦において従軍したが、深く心に傷を追いまだ立ち直れていない。 父はそれをうまく説明できるほど器用ではなく、デズモンドも理解するには若すぎた。
 そして彼は新兵訓練の末、衛生兵として沖縄戦に参加することになる・・・という話。 あ、実話だそうです。
 “ハクソー・リッジ”とは“のこぎり崖”の意。 それくらいほぼ直角に切り立った崖を登ったら、そこが戦場。

  ハクソーリッジ2.jpg やたらにやけ顔。
 とにかくデズモンドは、終始にやけ顔。 のちに妻となる看護婦のドロシー(テリーサ・パーマー)との会話時は、そのにやけ顔もヒートアップ。 アンドリュー・ガーフィールドってこんなしまらない顔してたっけ?、と感じるほど。 とにかく、空気の読めない男である。
 絶対軍人向いてないぞ、と思ってしまう口の利き方や態度。 それでよく(志願兵とはいえ)通ったな、新兵訓練受けさせる気になるな、というくらい。 それだけ、アメリカ側も軍人が足りなかったということだろうか(でも国力的には日本よりずっと余裕があったわけで・・・)。 そこには個人の自由意志を尊び(良心的兵役拒否者という存在が認められているわけだから・・・当時の日本なら「非国民」の一言でアウトだ)、一度仲間に加えたからには裏切らない・切り捨てないというアメリカ軍の規律もしくはアメリカ人としての誇りがあるからなのだろうか(そういえば『プライベート・ライアン』だって、一人を助けるために何人か犠牲になることは折り込み済み、という)。
 そんなわけでこの映画は、アメリカ軍の戦闘を描きつつ、結果的に組織の持つ懐の深さと合理的精神を突き詰めるとこうなる、という不思議な実例をも示していた。

  ハクソーリッジ3.jpg デズモンドの思想に最後まで理解を示さない同期(でも、軍人としてならそれは正しい)。
 同じ部隊に配属されたとして、隣にいる男が「僕は銃を持たないから。 ただひたすら怪我人を助けてまわるよ」というやつだったら・・・絶対組みたくない、という気持ちはわかる。 なにかあったとき、反撃してくれない相手を頼りにすることはできないし、むしろ戦場で足手まといになるんじゃないか、と考えるのは当たり前。 だから同じキャンプの新兵たちはあの手この手でデズモンドをギブアップさせるよう仕向ける。 「戦いはおれたちに任せて、家に帰れ」と小隊長に言われてしまうほどに。

  ハクソーリッジ1.jpg だが、子供の頃から野山を駆け回り、岩登りも普通にやっていたデズモンドは訓練をやすやすとこなしてしまう。 ただ、射撃訓練だけは絶対にやりません(というかそもそも、銃にすら絶対触れない)。
 そのうち考えを変えるだろう・・・と思っていた人たちもデズモンドの頑固ぶり(もしくは信念の強さ)に「これ、やばいんじゃね・・・」となり、「射撃訓練は必須科目、それをしないなら不名誉除隊とする」と軍法会議にかけられたりする。 それをサポートするのがヒューゴ・ウィーヴィング演じるPTSDに苦しんでいる父親だというのがぐっとくるよ。 だっておとうさんは戦争に行った過去を忘れたくてのんだくれたり妻や子に暴力をふるったり、失ったかつての仲間たちのことをずっと悔やんでいる人なのだ(時代が時代なので治療も受けられなく、家族にはすごく迷惑をかけているが)。 そんな人がかつての軍服に袖を通し、息子の援護に向かうのだ。 エージェント・スミスはすっかり老けこんだけど、やはり彼の声は素敵。 むしろ彼が助演男優賞にノミネートされなかったのが不思議。

  ハクソーリッジ5.jpg あ、サム・ワーシントンだ。
 前線に立つエリート小隊長殿はデズモンドの扱いに戸惑う。 でも彼の働きぶりを目にして考えを変える。 戦場とは予測不可能の集合体。 デズモンドを入隊させ、最終的に前線に送ると判断した元帥とか提督とかと呼ばれるような人たち(直接映画には出てくるわけではないけれど)は、小隊長殿よりもずっと経験は豊富なわけで、膠着している戦況を打破するために「もしかしたら、万が一」の可能性にかけて異分子を投入したのであろうか。 つまり本番で「ものは試し」をしているわけで、そんな余裕(?)を見せられたら「そりゃ日本、負けるよな」と納得してしまう。 その場では勝利しても、ずっと先まで見通す余裕は日本軍にはなかっただろう(個人として考えていた人はいただろうが、それを作戦として取り上げるような斬新過ぎる判断を軍部はできなかったと思う)。
 さて、デズモンドを突き動かしていたのは信仰心だけだったのか。
 キリスト教徒ではないあたしには、ちょっとわからない・・・。 怪我人であればアメリカ人だけでなく日本人も助けた記録が残っているそうであるが、多分動いているときのデズモンドは相手が何人かとか気にしていなかったのではないか。

  ハクソーリッジ4.jpg どうしようもない戦場。 その中をひたすら動き、怪我人を救出するために文字通り奔走するエドモンド。 何故か彼には銃弾が当たらない。

 帰るとき、比較的若めのカップルらしきお二人の男性側が、「ここ、感動するところだとわかってるんだけど、舞台沖縄やん。 ひめゆりの塔とか頭をよぎってしまって、彼はすごい人やなと思うけど、感動できへんかった。 やっぱり自分、日本人なんやな」とおっしゃっているのが聞こえた。
 すごく素直な感想だと思った。
 メル・ギブソンは日本軍を完全に悪者として描いていないけど、敵側の事情を説明することもしない(多分、それは当時のアメリカ軍の兵隊たちの共通認識だったのかもしれない―敵のことはよく知らない、ただ戦うのみ、みたいな)。 だからアメリカ的価値観でいくと理解できない行動をとる日本軍がほんとに不気味だったんだろうな、という。
 白旗掲げた振りして突入する、という日本側の卑怯っぷりも描かれるけど、火炎放射器で情け容赦なく日本兵を燃やしつくす(その炎の動きはどことなく原爆を連想させるものがあった)アメリカ側の残酷ぶりも描かれているし、「戦場においてはどちらに理(利)があるとかそういうことは吹っ飛び、ひたすら殺し合いになるだけだ」というどうしようもない事実を突き付けられ、結果反戦映画になっている気がする。
 エンドロールでは実際のエドモンド・ドス氏ご本人の映像が流れ、彼がなした偉業が称えられてますが・・・。
 結果的に善をなすものが信仰である、と言いたかったのだろうか。 信仰とテロとが切り離されないこの時代、あえて第二次世界大戦末期の事例を持ち出すのはそのためか。
 なんだかいろいろ、複雑な気持ちになった。

ラベル:映画館 外国映画
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2017年07月11日

TAP −THE LAST SHOW−

 実は、タップダンスが好きだったりする。 原因は子供の頃観たフレッド・アステアだろうか? 自分でも見よう見まねでやってみて・・・全然靴音高く鳴らないので憤った記憶がある。 金属板を張った専用靴じゃなきゃ無理、ということにも気がつかないくらい幼い頃。 <水谷豊初監督作品>ということはいったん忘れて、かつて楽しんだタップダンスへの夢を観に映画館へ。 なにしろあの頃は子供なのでだいたいできたような気がしたが、今となってはインドア派のただのおばさん。 なのに「これからタップダンス習おうかな」と思ってしまったよ!、この映画を観て。 昔の記憶、再来。

  タップP.jpg 魂が鳴り響くラストダンス24分。

 かつては天才タップダンサーとして絶大なる人気を誇っていた渡真二郎(水谷豊)だが、十数年前に舞台での事故により脚に致命的なダメージを受け、ダンサーとして再起不能となった。 以後、杖が手放せない生活となり、他人とのかかわりもできるだけ避けて酒浸りの日々を送っている。 が、ある日、彼は昔からの知人であり友人のある劇場支配人・毛利(岸部一徳)から、ついに劇場を閉めることになったので、と最後の公演の演出を依頼される。 まったく乗り気ではない渡だったが、オーディションにやってきた若者たちの情熱がいつしか彼の止まっていた時計を動かすことに・・・という話。 『セッション』のいい人ヴァージョンみたいな感じといえばいいのか(鬼の特訓はございます)。

  タップ1.jpg 一昔前の探偵事務所的ハードボイルドな佇まい。
 岸部一徳が超かっこいい(関西弁だけど)。 どうせ何もないだろうとカフェでテイクアウトのコーヒーを買い、渡の家(というか倉庫兼住居というか)を訪ねる。 で、そのコーヒーを飲もうが飲むまいが関係ないという。 手ぶらで行くのはかっこつかないが、それが気取ったものである必要はない、的な美学というかなんというか。 でもそれを意識してやっているわけじゃなくて、というのがかっこいいのだ。
 なんとなくの雰囲気ではあるが、かつてアメリカン・ニューシネマに憧れた世代が、それを取り入れて生活をしてきた、というのが見て取れるような。 それが“イタリア風ではないちょい悪オヤジ”というか、彼らの体現するダンディさに通じるというか。
 渡さんが飲んでいるのは常にジャック・ダニエル。 しかも容器に移したりせず、外出時には小瓶を、家ではフルサイズをとバリエーション豊かに取りそろえている。 そのお金はどこから? 着てる服もなんだかかっこいいし。
 現実的には、渡さん、事務所兼自宅みたいなところでどうやって暮らしているのかまったく不明だが、どんなにのんだくれようが人生あきらめた言葉をはこうが、生活感がまったくないので悲壮感もそんなにない。 それが、かつては一流だった人間が持ち続けるプライド(もしくは身についてしまった習慣)なのか。
 ある種の男性が憧れる男の美学、ってやつなんですかねぇ。

  タップ3.jpg オーディションに残った若者たち。
 一方、これから這い上がろうとする若きダンサーたちはとにかくぎらぎらしている。 あまり人物を広げ過ぎると時間が足りなくなる・掘り下げ不足になることを考慮してか、メインのダンサー4人に絞ってバックグラウンドを描くことにしたのは正しい判断だと思うが、ダンサーを起用する(つまり演技未経験者が多い)ことでダンスシーンに問題はないが、若者たちだけのシーンでは演技力的に厳しいものがあり・・・実力派の方々がチョイ役でサポートしてくれているおかげでなんとかなっているという。 これは水谷豊監督の個人的なコネによるものが大きいかと(六角精児さんも出ていたので、『相棒』降板による一部で流れた不仲説もこれで払拭されるかと思うと個人的にうれしい)。
 なので、「うおぅ、それはちょっとつらいよぅ」という場面もなくはなかったが・・・ダンスレッスンシーンのおかげで初期化できました。
 とはいえ<イマドキの若者>なので「意味のわからないシゴキは納得いかない」的な甘ったれたことも言うのであるが、やはり本心からこの先を目指す者たちは「この人についていけばもっと上に行ける」と本能的に察知し、つらい練習にも耐える。 というかそういう感覚を持ちえない者は一流になれないよな、というのがしみじみわかる流れです。 ショウビズ界は厳しいのだ。

  タップ2.jpg なんでしょう、この哀愁。
 とりあえず渡さんは右京さんとはまったくの別人であることはお断りしておきます。 というか、役者・水谷豊はもともと<動>のイメージ、ばしばし身体を動かす人だった。 <静>のイメージってほんとに杉下右京だけだと思うんだけど・・・長くやっているとそれが現在のパブリックイメージになってしまうのね。 でも久し振りに<動>の水谷豊を観た!、のだけれど、若者たちの話を聞いてやったり、かつての仲間たちと思い出話をする場面などでは自然に<静>になる。 それはやはり、キャリアの長さ故に身についてしまったものか。 ちょい悪オヤジもちゃんと実は大人なんです、というあらわれであり、若者を見てかつての自分たちを思い出すというレベルではないところにいる人だ、という表現だったりするのですよねぇ。 年相応、という言葉の難しさを知る。

  タップ4.jpg そして迎えるステージ本番。
 せっかくのタップダンス・ショウ。 基本、とてもいいのです。 練習場面で本番の内容を示唆するシーンがほとんどなかったので、幕が開くまでどう進むのか観客もドキドキワクワクする。 それは普通にステージを観るときの感覚。
 ただ一生懸命なダンサーの表情を撮りたいのはわかるけど、そうすると足の動きが切れてしまう。 だからって足だけをアップにすると全体が見えない。 観客席にダンサーたちの関係者がいるのはわかるが、そっちのほうを映しすぎるとショウの勢いがそがれる。 出てくれた人を映したいという事情があるかもしれないけど、そこはショウ序盤の紹介ぐらいでよかった。 関係者たちが感動しようが涙ぐもうが、それはステージのできばえそのもので観客に十分伝えられること。 「観客を、映画から舞台を観にきた感覚に」という意識があることは伝わるのだが、その演出(というかカット割り)は十分ではなかった。 むしろ邪魔だった。 初監督作品で完璧なものをつくられてもびっくりではあるのだけれど、素人の観客が気づいてしまう要素があるのはやっぱりちょっと残念なのだ。
 そういうちょっとしたことが残念に感じられてしまうのは、やはりこの映画がそこそこうまくできているからで、「この部分が気にならなければもっといい映画になったのに!」と観客としてもったいないと思ってしまうからなのだ。
 つまりタップダンスの魅力を伝えることにこの映画は成功しており・・・だからタップダンス習いに行きたい!、と思ってしまったんだな。

ラベル:映画館 日本映画
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2017年07月10日

今日は9冊(その2)。

 のこり7冊。 うち5冊はハヤカワ文庫です(上下巻含む)。

  晩夏の墜落1.jpeg晩夏の墜落2.jpeg 晩夏の墜落/ノア・ホーリー
 ポケミスと文庫版、同時刊行はジョン・ハート以来じゃないでしょうか。 ということはかなり期待されている・読み応えある作品ということでは。 ハヤカワ、この夏イチオシって感じがする。 MWAも獲っているようですし(個人的な好みとしてはCWAのほうが傾向が近い感じはするのだが、アメリカ作家のほうがMWAをとりやすいのは自明の理)。
 しかも飛行機ものときたら、あたしのツボです!

  機龍警察2自爆条項完全版1.jpeg機龍警察2自爆条項完全版2.jpeg 機龍警察 自爆条項【完全版】/月村了衛
 『機龍警察』、続編。 いつの間にかシリーズいっぱい刊行している・・・でもあたしは地道に文庫化を待つぞ。
 【完全版】が出ているのはいまのところ一作目と二作目だけらしい。 毎回リライトしてたら大変だし、シリーズものとしての道筋が出来上がった、ということかもしれない。
 しかしこのシリーズが終わるときって、いったいどんなことになるのか。
 いつまでも続く、となったら、それはそれで作中世界はヤバい方向に進んでいくしかない気もするのだが(でもそこは、現実世界と微妙にリンクしていたりするのだけどね)。
 個人的に、日本人作家の気になるシリーズが増えたのはよろこばしい。

  エル文庫.jpeg ELLE エル/フィリップ・ジャン
 ポール・ヴァーホーヴェン監督、イザベル・ユペール主演で話題の映画原作。
 フィリップ・ジャンはあの『ベティ・ブルー』の原作者でもあるようだ。 となると“女性”の描かれ方が非常に気になるわけで・・・。
 あー、でもこれは映画を先に観たいかなー。

 最後の二冊は、小学館文庫から。
  怒り1ポーランド.jpeg怒り2ポーランド.jpeg 怒り/ジグムント・ミウォシェフスキ
 筆者は<ポーランドのピエール・ルメートル>と呼ばれている人らしい。 尺度になっちゃったルメートル、すごいな。
 とはいえ翻訳は田口俊樹さんなので、ポーランド語からの一次訳ではなく、英語版からの二次訳ということになる。
 しかもこれ、シリーズ三部作の三作目らしいのよね! 順次一作目・二作目も刊行予定ということらしいんだけど・・・だったら何故順番通りに出してくれないのか。 初紹介の作家だからこそインパクトの強いものから、という気持ちはわかるけど、そうなると他の作品はグレード下がるってことになるじゃないの(しかもネタバレ含む可能性大)。
 でもルメートルのカミーユ警部三部作は、二作目の『その女アレックス』から出して結局大ヒットさせちゃったからな・・・(で、あたしも実際読んでみて、一作目から読まなくても大きな支障はなかったと感じちゃったし。 2 → 1 → 3の順で読みました)。
 しかし、最終章から読むのはさすがにどうなんだ?
 ちょっと、1・2作目出るのを待ってみようかしら・・・。

ラベル:新刊
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2017年07月09日

今日は9冊(その1)。

 なんやかんやと、7月はいろいろ新刊が出る!
 お盆休み前に出しておこうという作戦だろうか・・・(印刷所も休まないとね)。

  バーナム効果であるあるがある.jpeg バーナム効果であるあるがある/川原泉
 <川原泉、6年振りの新刊!>と帯に文字が躍っています。
 え、あれからもう6年もたつわけ?!、と一瞬絶句。 『コメットさんにも華がある』(2011年6月刊)の裏帯に「『〜がある』シリーズ、絶賛連載中!」とか書いてあった記憶があるんだけど、完結するまで時間がかかったの? 一冊にするには足りなかったの?
 で、初出見て謎が解けました・・・表題作『バーナム効果であるあるがある』は2011年8月から連載してるけど、完結まで一年かかってる(そんなに長くない話なのに<扉絵ギャラリー>が沢山あるのはそのせい)。
 収録されているもう一編『これから私は武士になる』にいたっては完結していない・・・(しかも2013年発表分ぐらいまではそこそこ続いていたが、2014年以降は連載ペースもぱったり。 2015年は一回しか連載がなくて、収録分それが最後)。 だったらもっと早く単行本出せたじゃない! でも編集部も、ギリギリまで待ったんだろうなぁ。 完結してから出版したい気持ちは誰しも同じ。
 巻末のおまけエッセイで右手首を骨折したとあったけど、それは2016年の出来事ですから! → でもそれ以降、カラー原稿もデジタル移行したらしい。
 『レナード現象には理由がある』はすごくおもしろかったけど、『コメットさんにも華がある』もよかったけど・・・なんか『バーナム効果で―』はキャラが立っていないというか、絵の描き分けがちゃんとできてない感がなきにしもあらず。 というか火星人出してきちゃったらそっち中心になっちゃうじゃん!(おかげで『ブレーメンU』とは話が繋がりましたが)。
 なんか消化不良だ。 続きはちゃんと出てくれるのだろうか、不安。

  ワタシの川原泉5.jpeg ワタシの川原泉X 笑う大天使/川原泉
 そんなわけでこの表紙が、初めてデジタルで描いたカラー原稿だそうです。
 <愛蔵版>と銘打ち、過去のカラー表紙・口絵全部収録。 コミックスだけにつく(文庫版ではカットされた)1/4コーナーも復活。 自己作解説的なインタビューも付き、「あぁ、これこそあたしが思うところの愛蔵版に近いもの」としみじみ。
 そして内容は・・・説明不要の傑作(まぁこれに後日談3編がつくからだけど)。
 これと中途半端な新作を同時に出してしまうとは・・・なんて勇気のある。

ラベル:新刊 マンガ
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2017年07月08日

シャーロック・ナイト

 今日からNHK−BSでBBCのドラマ『SHERLOCK』の第4シーズンが日本初放送!
 待ってました! シーズン3初回放送時からもう3年だそうで・・・もう3年もたったのかい!、とびっくり。
 今年1月にイギリスで放送されたことは知っていたので、NHKはいつも通り夏休み放送かな、と思っていたので、ちょっと前倒しの7月頭放送はうれしい誤算! でもシーズン1のときは3日連続放送とかやっていたことを考えると、一週間待たされるのはうれしいような、つらいような(だって、シーズンといっても3話しかないからね)。
 NHKも力を入れていろいろ特番をくっつけてたけど、特に面白くない・・・ホームズろくに知らない人をゲストに呼んでどうするのか、意味がわからない。 浅い会話にしかならないのはわかっているだろうに。 時間の無駄だった、さっさと本編に入ろう!

  シャーロックシーズン4.jpg なんかジョン、老けたよね?
     あ、髪の色が白くなっているせいか!
 あたしは基本的に名探偵タイプの方を好きになるのですが、このドラマにおいて初めてワトソン(ワトソン側の人)をより好きになりました。 よってあたしはジョン派! 勿論、シャーロックも好きなんだけど。
 マーティン・フリーマンが好きだからかな?(いや、ベネディクト・カンバーバッチも好きだけど)、ジョンが添えものではなく対等の相棒として描かれているから?(いや、グラナダTV制作の『シャーロック・ホームズの冒険』(ジェレミー・ブレッド版)以降はその形で定着しているし)、ジョンのけなげさが胸を打つから?、とか理由もいろいろ考えたのですが、シーズン3第3話『最後の誓い』でその謎が解けました。
 これまで映像化された数々の作品では、「ホームズに振り回されてばかりのワトソン、でもそれはワトソンの心が広くてお人よしだから」という解釈にとどまっていたけれど、そこから一歩踏み込んで、「彼もまた奇想天外な事件や犯罪というものに心惹かれる人間だから」まで描いてるところですかね。 つまりジョン・ワトソンもまた“ホームズ気質”の持ち主で、アプローチは違えども本質的なところでは通じるものを持っているから理解しあえるのだ、という。
 まぁ、それもこれもこの二人のコンビネーションが素晴らしいから、なんだろうなぁ。
 新シーズン放送に先駆けて、過去のシーズン一挙再放送もしていたので、「海外ドラマで面白いものを探してるんだけど」という友人に教えてまんまとファンにしてしまいました(彼女は原作のホームズものをあまり読んでいない人なのだけれど、はまってくれましたわ)。 ちなみに彼女はシャーロック派です(でも『ライヘンバッハ・ヒーロー』で、あたしの“ジョン推し”の気持ちは理解してくれたらしい)。

  シャーロックシーズン4−2.jpg 愛すべきレギュラー陣。
     ほんと、シーズン1の頃に比べたらぐっとファミリー感が出てます。
 そんなこんなで、待ちに待ったシーズン4、第1話。
 サブタイトル『六つのサッチャー』って、露骨に『六つのナポレオン像』じゃん!
 あたしも黒真珠がそこに入ってると思ってましたよ・・・原作ファンほど展開に原作をはめ込んでしまって裏切られるわ(それだけ制作陣が原作を読みこんでいるという証拠でもあるのだが)。
 アメリカでつくってる現代版ホームズ『エレメンタリー』の制作者インタビューを見たときに、「アメリカ人(視聴者のほう)、コナン・ドイルの原作はあまり読んでいないのか?」と思わされたんだけど、やはりイギリス人視聴者はイギリスが世界に誇る名探偵を結構ちゃんと読んでるな、という気がした。 まぁ、ミステリはイギリスの伝統でもあるし(以前イギリスでアンケートをとったら、シャーロック・ホームズよりモース警部のほうが人気があると知って驚いた)。 フランスではモーリス・ルブランはほとんど忘れられた作家になっているそうだけど、日本ではまだ読まれてるもんね・・・古典扱いになったら、いつまでも読みつなぐのが日本人?
 ま、それはともかく・・・今回のエピソードはジョン派にとってとても衝撃でしたよ。
 「え、ジョン、あなたはそんな人だったの?!」という。
 シャーロックへの怒りは、半分くらい(もしくはそれ以上)やつあたりじゃん・・・それは、ひどい。
 それもまた、ジョンが「人間的に器が大きいから」の逆説でもあって、このドラマにおいてはおかしくない流れなのですが・・・(そしてある意味、原作にも忠実)。
 2話以降の展開にもよりますが、もしかしたらあたし、シャーロック派になるかも・・・。

ラベル:ドラマ
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2017年07月07日

砕かれた少女/カリン・スローター

 『三連の殺意』に続く、GBI特別捜査官ウィル・トレントシリーズ第二弾。
 実はシリーズ三作目『ハンティング』を図書館に予約しているのだが、近々きそうなのだ。 予約は続いているだろうから延長はできまい。 なのでその前に、二作目を読んでおきたかった(なにしろ日本での刊行がシリーズの順番通りじゃないもんでね。 版元も違うし)。
 やはりすでに一作目を読んでいるせいか、600ページ越えだけどそれほど長くは感じなかった。 三日間の出来事だから、ということもあるかもしれないが。

  砕かれた少女.jpg やっぱりこの表紙、なんとかならなかったのか・・・。

 アトランタの高級住宅街で、恐ろしい事件が起こる。 上司アマンダと共に現場に行くことになったウィル・トレントだったが、彼はしばらく前にアトランタ警察の悪徳警官を徹底的に調べる捜査をし、結果的に数名を起訴と辞職に追い込むことになり、アトランタ警察の刑事から憎まれていた。 そんな中に乗り込むわけだからウィルは地元警察の協力をほぼ得られないが、上からの命令でフェイス・ミッチェルという女性刑事がウィルのサポートにつくことになる。 フェイスもはじめはウィルに反感を持っていたが、まったく捜査官らしくないウィルに興味を覚えていく。
 そして残忍な殺人事件に見えた現場は、実は誘拐事件を隠していた。 連れ去られた18歳のエマはどうしているのか。 誰もが最悪の状況を想定する中、ウィルだけはエマが生きていると信じて懸命に捜査を続ける・・・という話。
 『三連の殺意』は視点のずらしによるどんでん返しと構成が見事だったけれど、これはアクロバット度は少し控えめ。 ウィル視点・もしくはフェイス視点でほとんどの話が進んでいき、その分キャラクターが掘り下げられるのでとても<シリーズもの>らしい流れになったような気がする。
 ウィルの過去が更に明らかになり、そのかわりアマンダとの関係においては謎が増え・・・シリーズの先へ興味をもたせる展開に。
 更に事件の方も手抜かりはなく、ウィルのディスレクシア(失読症・難読症)が有効に使われることになる(若干、回り道もしましたが)。
 こういうタイプの犯人、「立証できる証拠がない」とかで野放しになったりしてるケース、現実に多いんだろうなぁと推測されて、大変イヤな気分になります。
 “砕かれた少女”はエマのことだけではなく、暴力の被害に遭った未成年者すべてのこと(それは肉体的暴力だけでなく精神的支配も含む)。 ウィルもまたその中の一人で、だからウィルは今も人との距離感がよくわからない。 彼のあやうさが、この先もとても気になる。
 フェイスが新しいパートナーになったことはきっとウィルにとってプラスに働いてくれるだろう・・・そう願わずにはいられない。
 今回出番の少なかったアンジー(ウィルの幼馴染)が、次はどんなトラブルを引き起こすのだろうと思うとおそろしい(出番は少なくとも、この作品でも不穏な空気は発してるからさ)。

 ただ、94ページに致命的な誤植がある・・・その場面にいない人が主語として登場してきたのは目を疑った。 こういうのがあると(どんなにいい作品の翻訳権を獲得しようとも)レーベルに対する信頼感が薄れるから、気をつけていただきたいですね。

ラベル:海外ミステリ
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2017年07月06日

怪物はささやく/A MONSTER CALLS

 実はそんなに期待してなかった。 上映館少ないし、まったく盛り上がっている気配がなかったから。 でも『永遠のこどもたち』は好きな映画だから、J・A・バヨナ監督目当てで行ってみたら・・・いい意味で予想を裏切られた。

  怪物はささやくP.jpg その怪物が喰らうのは、少年の真実――。

 13歳のコナー(ルイス・マクドゥーガル)はしばらく前からずっと悪夢にうなされている。 母親(フェリシティ・ジョーンズ)は重病で入院中、学校でもいじめられ、そりの合わない祖母(シガーニー・ウィーヴァー)がやってくるという心労などがいくつも重なっているためだ。
 そんなある日の真夜中12時7分、家のそばにあるイチイの巨木が動き出し、怪物となってコナーの前に現れる。 「わたしが三つの真実の物語をこれから語る。 その話が終わったら、四つ目の物語はお前が話せ」と迫る。 コナーは拒否するが、怪物は毎晩現れ、一夜にひとつずつ話を聞かせる・・・という話。
 まずオープニングがすごくきれい! モノクロだった原作イラストのイメージはそのままに、フルカラーで動きと立体感を与えた感じ。 ここで期待度がアップ。
 そして苦悩と闇を抱えたコナー役のルイス・マクドゥーガルくんの佇まい!

  怪物はささやく5.jpg ときに13歳には見えないほど大人っぽくもあり、影を背負った感じがたまらない。 これが全部演技力なら末恐ろしいんですけど。

 離婚した父親はアメリカで別の家庭を持ち、頼れない(しかも父親側もコナーに「いつでも遊びに来いよ」とは言うが、責任もって引き取る気はなし。 このへんに男親の根本的なところが表現されていると思うのは穿ち過ぎか)。 そして母親の病は重く、守りたいのに自分では助けられない。 だったらせめて自分のことは自分でできると言いたいけど、悲しいけれど彼は子供で社会の仕組みに対抗できない。 それがコナーの表情の暗さを形作っているのだけれど、いじめっ子ってのはどこの学校にもいるものなのね・・・。

  怪物はささやく3.jpg フェリシティー・ジョーンズ、母親役としては若いかと思ったけど・・・病を背負ったはかなさが強烈な印象を残す。 出番は意外と少ないのだが。

 さらに怪物の声を担当しているのはリーアム・ニーソン。 <『ナルニア国』シリーズ>でもアスランの声をやってますが、そういうド迫力と説得力のある声なのよねぇ。
 怪物が現れる場面はコナーの夢なのかそれとも現実なのか、そういう“答え”を早々に捨てた演出が好ましい。 「児童文学の映画化だから子供向け」の枠からはみ出た仕上がりになったのも多分そのせいだろうし(大人向けの宣伝をするべきだったような、でも子供向けの宣伝もしたのかどうかよくわからないが)。 重要なのはコナーにとってどうなのか、だから。

  怪物はささやく1.jpg なのでだんだん怪物が恐ろしい相手には見えなくなってきてしまうのはご愛敬。 いつしかコナーの話し相手であり理解者、まるでカウンセラーのような存在に。
 そう、コナーは自分の中にあるぐるぐるした感情を整理しなければならなかった。 そうでなければこれからずっと、罪悪感に押しつぶされることになるから。 喪失感はいつか埋められるかもしれないけれど、子供である時期に子供らしく感情を爆発させたってそれは悪いことではない。 けれど、「大人になること」と早い段階から強いられる子供は、うまいこと感情の落とし前をつけないといつまでも引きずる。 これは、コナーの自己治療の過程でもあるのだ。

 小説は読者対象を子供中心に書かれたかもしれない。 しかし原作者パトリック・ネスが自ら映画用に書いた脚本は、明らかに大人向け(原作にないラストシーン追加!)。 責任の重さを知らず、自己中心的でありつつ繊細で傷つきやすい<子供>だった人たちへのメッセージが加えられている。 それはもしかしたら、子供を育てている親世代の人たちへのメッセージかも。
 更に怪物が語る3つの物語は(そこが水彩タッチのアニメーションになるのも面白い)、コナーが成長するために必要なものだというだけではなく、「世界は善悪の二元論だけで語れるものではない・見たことがすべてではない・自分の都合で変わるものは信念ではない」という、ある意味テロリズム世界への提言でもあるような。 直接言えないことも、寓話の中にはひそめやすいものだから。
 こういう作品こそ夏休みに親子で観たほうがいいんじゃないか・・・と感じるのだけれど、小規模公開作品は、難しい。

ラベル:映画館 外国映画
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2017年07月05日

地方も開発されている

 実家の妹から、写メが届く。
 「家にコウモリが入り込んできちゃってさー、捕獲」
 えっ、あたしが住んでいた頃は家の近くでコウモリなんて見たことなかったけど?!
 海辺の岩陰の隙間とか、山の洞窟みたいなところに行けばいっぱいいるけど(まぁ、そういうところまで車ですぐ行ける環境なわけですが―さすがに山は少し歩きますよ)。
 普通に飛んでるコウモリ見たの、あたしなんか神戸に来てからだもんね。
 うーん、時代は変わった。

  実家のコウモリ.JPG 妹からの写真。
 トリミングしたので比較対象がないですが、そんなにおっきくないです。 12cmくらい?
 勿論、家の外に出してから解放したそうですが・・・「今年、2度目」だそうな。
 コウモリそのものは有毒ではないけれど、野生のやつはカラダにダニがついていたりフンにいろんなものが入っていそうだからな・・・。
 こっちでは自然と人間の住処が混在しちゃってて、ある意味人間の環境(都市)が動物たちにとっての生息域になっている(最寄駅では「ツバメの巣がございます」って貼り紙してあるもんね)。 アーケードの下に巣づくりも普通のこと。 でも地方では結構手つかずの自然というか、ほったらかしの場所が多くて(それは言いかえればお金がないからということなのだが)、それなりに棲み分けができていると思っていたのにな。
 でも、田舎ももうそんなことは言っていられなくなってきたらしい。 ミニ都市と完全なる過疎に二極化されてきているようだ。
 華やかな都会にずっと暮らしている人たちには、地方のそんな痛みなど想像もつかないだろうな(想像できたら「道州制」なんて発想が出てくるわけがない、格差がますます広がるだけではないか。 まぁ、だから一時期に比べてその話題、出てこなくなったのかな)。
 と、妹からの写メに、地方の未来を考えて落ち込んでみた。
 しかしあたしは都市生活を楽しんでいるわけだから、まったく皮肉な話なんだけど。

posted by かしこん at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 季節のこと/街の中の自然 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月04日

22年目の告白 ―私が殺人犯です―

 祝・入江悠監督、完全復活! おめでとう!!、と上映終了後にバンザイをしたくなった。
 身贔屓が入っているかもしれませんが・・・いまのところ、邦画、ベストワンです。
 ネタ元は韓国映画『殺人の告白』ですが、完全に別物。 日本でなければならない物語になっているし、ミステリとしてもフェアに成立している。 『ジョーカー・ゲーム』でがっかりさせられたけど『太陽』で盛り返し、満を持してのメジャー復活。
 もうこれは大成功としか言えないのではないでしょうか。 興行成績も、ついてきてるし。

  22年目の告白P.jpg すべての国民が、この男に狂わされる。

 1995年、5件の連続殺人事件が起こった。 当時、事件を追っていた刑事のひとり、牧村航(伊藤英明)は待ち伏せて犯人をもう一歩のところで取り押さえるところだったが、逆に犯人に切りつけられて大怪我を追う。 そのことで犯人の標的となった牧村は、尊敬する先輩刑事・滝さん(平田満)を殺されてしまう。 刑事が殺されるという事態に警察は総力を挙げて事件を追うが、ついに事件は時効を迎えてしまう。
 あれ以来、人が変わったような牧村は時効を迎えても事件のことは忘れてはいなかった。 それは被害者の関係者たちも同様で。
 そんなある日、曾根崎雅人(藤原竜也)と名乗る男が22年前の一連の事件についてまとめた手記『私が殺人犯です』を発表し、世間に顔をさらすという・・・という話。
 まず、冒頭のニュースの音声にどきりとする。 それは阪神淡路大震災のときのニュースだった。 今は神戸市民であるが、当時、あたしは北東北に住んでおり、でもあのニュースの衝撃は鮮明に覚えている。 映画館の中で、あの地震を経験し、思い出して具合の悪くなった人はいないだろうかと本気で心配になるほどの臨場感だった(実際に経験した人によると、「ニュースなんか聞いてる余裕なかったよ」ということだったので直接聞いている人は当事者ではない可能性が高いようである)。 「あ、『22年目の』というタイトルにはそういう意味もあるのか、と納得。 そして22年間を駆け足で走るオープニングに、大事な伏線もミスリードもほぼ込められているのだ!
 きっかけはニュース音声のせいかもしれないけれど、そのあと、ずっとあたしはドキドキしていた。
 <映画で観る・観せるミステリ>の覚悟が確かに感じられたから。

  22年目の告白2.jpg ついに姿を現す“犯人”。
 観目麗しい外見も相まって、「ソネさま」と呼ばれファンがつく。

 時効が成立してしまっている以上(現在、殺人などの重大事件には時効はないが、法律成立前に遡って適用できないため、日本の犯罪史上“最後の時効が成立した事件”となっている)、牧村はじめ警察は手が出せない。 むしろ、被害者の遺族や関係者が復讐に動くことから守ってやらなければいけないという理不尽さを抱える。
 牧村の苦悩をよそに、妻を殺された医師の山縣(岩松了)のもとに謝罪に行くなど、やりたい放題の曽根崎。 マスコミは群がり、彼は時代の寵児になっていく。
 そんなとき、当時この事件を追いかけていたジャーナリストの仙堂(仲村トオル)は、「法で裁けないのなら良心で裁きましょう」と自らがホストを務めるニュース番組に曽根崎に出演依頼。 曽根崎は「牧村刑事も出演するなら」と承諾する。
 もう、このテレビ討論のシーンはとても白熱。 真実へとつながるヒントが沢山こぼれるので、一言も聞き逃してはならない。
 緊張感あふれる演出、それに応える俳優たち、どれをとっても素晴らしい。

  22年目の告白4.jpg 挑発的なひそひそ話。
 藤原竜也がまたすごいイヤなヤツとして登場。 ドラマ『リバース』の愛すべきおどおどくん・深瀬の面影はかけらもなく、完全に<藤原竜也劇場>でした。 いつもより少し声がかすれている感じがしたけれど、それすらにも意味がある! 藤原竜也は入江監督と以前仕事したことがあるので、「お互いちょっとわかっている感」がかなりプラスの方向に働いた気がする。 たとえそうじゃなくても、曽根崎役は藤原竜也以外考えられないよ!、となっているので、ほんとすごい役者だと改めて実感する。
 脇の方々も適材適所というか(先輩刑事が平田満なんてぴったりだよね!)、安心して観ていられる。
 だから<藤原竜也×伊藤英明>という異素材ミックスが楽しめる。

  22年目の告白1.jpg この短髪具合がちょっと西島さんぽいのは、ハードボイルドの雛型? 22年前はボサボサ髪でした。
 初共演だそうですが、確かに系統違うよね・・・でもそれが、この映画ではよかったです。
 長年のミステリ読みとしては途中でネタ割れしてしまうのですが、それでも「この続きが気になる、続きが観たい!」と一切集中が途切れることはない。 「あぁ、それは!」とか「それそのままにしちゃダメだって!」とつい声をかけてしまいたくなるほどに。
 これまで、そんなに伊藤英明に惹かれたことはそんなになかったんだけど(『悪の教典』の悪ノリ振りはちょっと好きでしたが、でもあれは三池監督のフェティッシュな部分のせいかと)、今作では野暮ったさを引きずる昔堅気の刑事がはまってました。
 ミステリなので多くを語れないのが残念ですが・・・残虐シーンはそんなにないので、是非多くの人に直接観てほしい。
 観た人は、入江監督のすごさに気づくと思う! ← でも次回作へのハードル、あがっちゃったかな。

  22年目の告白3.jpg サイン会って。
 なんでそんなに人が集まるのか。 いくら事件のことを知らない世代が中心といっても。

 だからといって完璧な作品、というわけではない。ツッコミどころは実は多々あって(22年前、曽根崎はいくつだったのかと誰も言及しないとか)、しかしそんなマイナス要因を吹き飛ばすパワーがある、ということなのです。
 “無差別凶悪殺人”や“シリアルキラー”といったものに無責任に興味を持つ事件に無関係の一般市民に対する問題提起(あなたはどこでその好奇心に線を引きますか?、という問いかけ)も描きつつ、説教くさくもなく押し付けがましくもなくしっかりエンタメに昇華できているところ。 そのさじ加減が絶妙でした。
 だからこの映画のラストシーンを「後味悪い」と感じるか、「むしろ爽快だ」と感じるかも人それぞれで、どちらが正しいわけではなくて「なんでそう思ったのか」観客に話し合わせることができる。 あたしが観た回ではお客の入りが結構多くて、しかも高校生とか若い人のグループが多かったから、彼らがこの映画を観てどう感じるのかどう語り合うのか、すごく聞いてみたいよ。
 「あー、面白かった(感動した)」のあと、何も残らない映画もいいけど、何日も引きずるようなそんな映画に出会ってほしい。
 そして日本映画でそれを成し遂げた。 入江監督、やっぱりすごい!
 でもこの映画はワーナーブラザーズ配給だという・・・日本アカデミー賞とかにはガン無視されるかもしれませんが、あたしはこの映画を評価する!

ラベル:映画館 日本映画
posted by かしこん at 05:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 movie | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月03日

今日は4冊。

 気がつけば7月である。 もう今年も半分が終わってしまったとは! なんてこったい!
 日々、何もできないままに過ぎる・・・なのに台風が来るという。 もうそんな季節か(遠い目)。
 もう、暑いからわけがわからなくなっている。

  英国諜報員アシェンデン.jpeg 英国諜報員アシェンデン/サマセット・モーム
 おぉ、ここにも新訳の波が!
 実はサマセット・モームの作品で、個人的にこれがいちばん好きだ(といっても全部読んでないけど)。
 多分中学生の頃だと思うんだけど(さすがに小学生ということはないだろう)、創元推理文庫版を古本屋で手に入れた。 「えっ、『月と六ペンス』『雨』の作者がミステリーを書くんだ!」と大変興奮した記憶がある。

  秘密諜報部員 昔の創元推理文庫.jpg 秘密諜報部員/サマセット・モーム ← このヴァージョン。
 これがすごく面白かったんですよね。 スパイものなんだけど、いかにも映画の『007』的な派手なシーンはなく、旅先で起こった些細な出来事と見せかけて実は心理戦、という地味なスリリングの積み重ねと、ほんとに些細な出来事と。
 あたしが「スパイもの、苦手」と思っていたのは、この作品のイメージを壊したくないというか、こういうのがあたしにとっての<スパイもの>という認識だったのかなぁ。 貪欲でありながら閉鎖的、ティーンエイジャーのこだわりは大変だわ。
 この本は実家に置いてきてしまったけれど(なにしろもともと古本屋で買ったし、何回か読んで経年変化でぼろくなっている)、まさかこの歳でもう一度アシェンデンに会えるとは思わなかった。 しかも新訳で。 改めて読んで、あのドキドキが蘇るだろうか。 そうじゃなかったら、あたしの感性が衰えたということになるな。

  ある奴隷少女に起こった出来事.jpeg ある奴隷少女に起こった出来事/ハリエット・アン・ジェイコブズ
 1813年生まれによる著者の、半生を描いた自伝。 奴隷として苦難の年月を過ごしたけれど、彼女には文字が書け、聡明だった。
 出版から126年後にベストセラーになったという事実からも(自伝、ノンフィクションだと書いてあっても、「奴隷の少女がこんな知的な文章を書けるわけがない」と長年フィクション扱いされてきたのを、著者の手紙から文体が同じであると研究者が判定し、やっと実話として扱われた)、奴隷制度の根深さを感じる。
 あの『アンクルトムの小屋』と同じ時代の出来事なのである。
 過去と現在は常に交錯する、時代の変化とともに新しい価値観を提示するために。

  凍った夏.jpeg 凍った夏/ジム・ケリー
 新聞記者ドライデンシリーズ第4弾。
 ジム・ケリーは黄金期の英国ミステリを現代に移植し続ける、そしてさらなる高みを目指す実直な技巧派である。
 だから長い割にはなんとなく話は地味だし、主人公のドライデン自身にも北欧ミステリのシリーズ主人公のような魅力にはいささか欠ける。 でも次はどんな直球を投げてくるのだろう、と非常に気にはなるのだ。
 こういう実直さ、ときには必要です。

  彼女たちはみな若くして死んだ.jpeg 彼女たちはみな若くして死んだ/チャールズ・ボズウェル
 なんと<実録もの>でした。
 若い女性が被害者となった10の事件についてのルポルタージュ。
 主にアメリカとイギリスで起こった事件が取り上げられているけれども、巻末には年表がついていて、事件と時代背景が一目でわかるようになっている。 なんて親切なの!
 でも内容は・・・なんだかとても怖い雰囲気。 でも読み始めたら、なんだかんだで一気読みしてしまいそう・・・。

ラベル:新刊
posted by かしこん at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆ 買っちゃいました | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする