返却日目前に、無事読み終わりました。
これまた筋書きはいたってストレートで。
カリフォルニアのはずれで警察官をしているボブだったが、ある日突然元妻とその再婚相手が何者かに惨殺されたことを知る。 そして犯人たちによってボブの娘が拉致された。
カリフォルニアのはずれで警察官をしているボブだったが、ある日突然元妻とその再婚相手が何者かに惨殺されたことを知る。 そして犯人たちによってボブの娘が拉致された。
そして、事件が報道されると「これはかつてあたしがいたグループたちの犯行だ」と直感的に気付いたケイス(元ジャンキーで現在リハビリ施設に入所中)が情報提供を申し出る。 しかし確たる証拠や法的根拠は何もない。 辞表を叩きつけたボブはケイスとともに、愛娘ギャビ奪還の旅に出る・・・という話。
一発の銃弾が神の裁き。 暴力こそが、人に対してひとしく平等、みたいな意味かと。
ケイスが幼い頃に放り込まれた集団はいつしかカルト化し、サイラスという男を頂点にまわっている。 このサイラスが悪の権化というか・・・すべてお見通しの良心のかけらもない者として描かれている(だからといって悪魔的な存在というわけでもないのだよなぁ)。
基本、ジャンキーな方々ばかりが登場するので、その吐く言葉はとにかくきたない。 疾走感あふれつつ比喩を多用する地の文とはその落差が激しすぎ。 『音もなく少女は』よりもはるかにひどい暴力が延々と続くのだけれど、やはり文体のせいかそれほどひどくは感じない。 もしくは、“その他大勢”みたいなキャラが多くて感情移入する必要がないからだろうか。
他に印象深いキャラといえば、ケイスと旧知の仲という、どこか中立地帯に存在する男、ときに刺青師・ときに医者・ときに調達屋となるフェリーマンくらいかな。
しかしいちばんはケイスであろう。 ある意味まっとうに生きてきたボブに、まったく違う世界があるのだと教えるケイスはまさにサヴァイヴァー。 地獄のような苦難を満身創痍ながら乗り越え、やっとそこから抜け出そうとしていたのに、ギャビの存在を知りもう一度戻ることにしたという。 彼女は『音もなく少女は』のフランとイヴを合わせて、更に激しく粗暴にしたような存在。 多分、ボストン・テランが描くところの女性の原点。 彼女のすさまじさに押されるように、ボブも見知らぬ世界を疾走し、娘のためにこれまでの常識をすべて捨てて戦う。
そう、まったく違う世界。 同じ時代の同じ国とも思えぬほどの。
最終的に戦いはモハヴェ砂漠へともつれこむのだけれど・・・なんだかあたしはスティーヴン・キングの『ザ・スタンド』を思い出しましたよ。
あれは世界が滅びたあと、生き残った人々の間で起こる善と悪との闘いだったけれど・・・まさに、終末後か、ぐらいの雰囲気で。
もう<ハードボイルド>という言葉ではあらわしきれない、もっと激しくて荒廃しきった世界をそれでも生きるすさまじさ。
同じように“被害者”であるケイスとギャビはその立場故にわかりあえるが、ケイスは被害者のままでいることをよしとしない。 そこから立ち上がり、転んでもいいから自分の力で歩くことをギャビに伝える。 「あんたはあたし、あたしはあんた」。 ギャビが襲われたとき、ひどい目にあったとき、それをされたのはギャビでもありケイスでもあると訴え、そして二人は理解しあえる。 そこには実の父親であるボブには入る隙間もない。
ボストン・テランは覆面作家だそうだけど、女性なんじゃないかな? アメリカの話なのにここまで男が役に立たなくて(もしくはひどい加害者で)、でもフェミニズムの香りがしない作品を男性が書くのは逆に難しい気がするから。
あたしがふと気に入った一節。
山猫が獲物に忍び寄るようにことばに体をあずけている。
これは終盤のケイスの描写だけど・・・こんな比喩がいっぱいです。 それが独特のリズム感というかスピード感を産み(地の文はすべて現在形になっている)、ページが進むにつれ読む側もスピードアップしていったのかな。
ただ、サイラスの一団がカルトである必要性を感じなかった・・・“カルト”の定義が違うのかな? でも“神”に言及するためにはそれが必要だったのだろうか。 キリスト教(もしくは一神教全般)の考え方がやはりあたしには根本的にないらしい、と気づかされる。
ラベル:海外ミステリ