ヘイリー・スタインフェルドは『トゥルー・グリッド』のイメージが強すぎるけど大丈夫なんだろうか、とその後何本かで彼女を観ているけれどちょっと心配でした。 そこへこの映画の予告。 等身大のティーンエイジャー、おまけに先生役がウディ・ハレルソン! それだけで観てみたいと思ってしまった。
17歳のネイディーン(ヘイリー・スタインフェルド)は不機嫌である。 いや、彼女は物心ついたときから不機嫌だった。 いささか情緒不安定な母親(キーラ・セジウィック)とは反りが合わず、父親が間を取り持ってくれていたからなんとかなったようなもの。 兄のダリアン(ブレイク・ジェナー)は母のお気に入りで学校でも常に人気者で成績優秀、人生の勝ち組みなのに自分はいつも負け組。 父親が最大の理解者であるのは救いだったが、学校の中に父はいない。 クリスタ(ヘイリー・ルー・リチャードソン)と出会うまでは、ずっとひとりぼっちだった。 4年前に父が事故でこの世を去ってからは、クリスタだけがネイディーンの心の支えなのに、その大事なクリスタが兄貴と付き合うことに!
やっぱり自分はダメなんだ!、とじたばたするネイディーンを中心に描かれる、地味な高校生活の物語。
クリスタとネイディーンが出会ったのは9歳(だったかな)。 それまでの<どこにも自分の居場所がない>的なネイディーンの心の叫びにはあたしもつられてつい泣きたくなった。 子供とはこんなにも“自分を受け入れてもらいたい”と叫ぶ生き物なのだ(そしてこれがうまくいかないと大人になってもこじらせて大変なことになるという・・・)。 本来、それは親の役目なのだと思うのだけれど、親とて不完全な人間であり、親子といってもやはり他人である。 気持ちは必ず伝わるとは限らない。 なんか、自分にも当てはまらないか?!、とグサグサきて、ちょっと涙ぐむ。 ネイディーンは確かにちょっと変な子なんだけれど(おかげで幼稚園・小学校の頃から女の子集団にいじめられている)、でもちょっとわかるなぁ、と思ったり。 あたしもいじめられっ子だった。 周囲の空気にうまくまじれない子だったからからなんだろうなぁと今になると思う(だからってそういう子をいじめていいわけではない。 理解できない相手なら集団は放っておけばいいのだ、ちょっかい出すから厄介なことになる)。
そんな屈折しまくりのネイディーンにとって、見るからにリア充の兄貴はにくらしい存在そのもの。 母親も子供の頃からずっと、父が亡くなってからは更にダリアンを当てにしていて、自分はなんだかんだと怒られてばかり。 家族の中でも学校でも疎外感を抱え、でも引きこもったりするのはプライドが許さず、劣等感と自己嫌悪を抱えながら世界を敵として日常を斬り込んでいく。 喋り出すと止まらないのは不安感のあらわれで、喋り続けるために余計な事を言ってしまい、更に自己嫌悪を引き起こすという、ネイディーンは自意識過剰な17歳という世代のいかにもいそうなイタいキャラクターで、パワフルでとっても面白過ぎる。
ただ、母親とうまくいかないのは似た者同士だから、ということに気づけないのが残念だ(だから父親はよい緩衝材になっていたのだろう。 愛する人と娘が同じような性格なんだから、どっちも理解できて愛さずにはいられなかったに違いない)。
ブルーナー先生、最高! ネイディーンに「あたしの人生ってほんと最悪!!」と長々と聞かされたあとに「俺の人生も最悪だ。 ただでさえ短い学校の中での唯一の安息の時間であるランチタイムを生徒に邪魔されるんだから」と答えちゃう。 でもそれが明らかに拒絶でも皮肉でもないのは、ネイディーンの話を邪魔せずに全部聞いてからのリアクションだし、通り一遍の同情や慰めはネイディーンには逆効果だとわかっているから。 こういう先生に出会えるってすごいことなのに、ネイディーンはわかっているのかしら。
なにしろネイディーンは若干コミュニケーション障害気味の超自己中。 自分のことはすごく喋るけど、人の話は聞いているのか?、という感じ。 だからクリスタとケンカしてからはちょっと彼女に同情できなくなってきた(クリスタの話を聞こうとせず、「あたしと兄貴とどっちを選ぶの?!」とか言っちゃうから)。
そうなんだよ、ネイディーン。 きみは自己中過ぎるからまわりが全部敵に見えるんだよ。
いい大人であるあたしはそう言いたかった。 そう言ってあげたかった。
でもそれは、自分で気づかないと意味のないことで。 それもまた青春期の甘酸っぱさですかね。
ネイディーンにとっての世界は家族とクリスタ中心だけれど、歴史クラスでとなりの席のアーウィン(ヘイデン・セットー)はネイディーンが気になる様子だし、実はネイディーンにも高校に憧れの対象・上級生のニック(アレクサンダー・カルヴァート)がいたりと、それなりに高校生活は満喫できてるように見える。 でも誰よりも自分を持てあましているネイディーンは空回りして暴走し、周囲を巻き込んでいく。 ある意味、とってもパワフルで、そのエネルギーがあればこの先も十分世界と対峙していけると思うほど。
けれどネイディーンだけがわかっていない。 自分のことを好きになれないから。 自分のことを誰よりも好きになりたいのは自分なのに、どうすればそういう自分になれるのかわからないから。 “こうありたい自分”じゃない今の自分をどうしたら受け入れることができるのかわからなくて、だからジタバタしてしまう。
あれ、こんな話、最近観なかったか?
そう、この映画はポイントだけみると『ムーンライト』と同じ話なのだ。
ただ、ネイディーンの家は郊外に持ち家があってお金持ちじゃなくても生活に不自由はないし、そこは一歩間違うと命を落としかねない町じゃないし、自分の性的志向(嗜好?)に迷ったり悩んだりしてない、というだけ。
ただ、<母親に理解してもらえない>、<自分を自分として受け入れられない>というところは同じ。 唯一の大人の理解者という存在があることも一緒。 テーマはほぼ同じなのに環境や表現方法でこうも違う印象のものに仕上がるか、と驚くばかり。
ただ、ネイディーンの家は郊外に持ち家があってお金持ちじゃなくても生活に不自由はないし、そこは一歩間違うと命を落としかねない町じゃないし、自分の性的志向(嗜好?)に迷ったり悩んだりしてない、というだけ。
ただ、<母親に理解してもらえない>、<自分を自分として受け入れられない>というところは同じ。 唯一の大人の理解者という存在があることも一緒。 テーマはほぼ同じなのに環境や表現方法でこうも違う印象のものに仕上がるか、と驚くばかり。
とはいえ、ネイディーンには周囲の気遣いがいろいろあって、完全無欠に見えるアニキにも苦悩はあると知って(そもそも自分の大好きなクリスタが自分の兄のことを好きになるってことは、兄にもいいところがあるからじゃない?、と冷静になれば気づけるのに。 もし将来二人が結婚すれば姉妹になるのよ、それって友情が永遠に続くってことでもあるのに)、ネイディーンは成長の階段を少しづつ上っていく。
『ムーンライト』と違って、描かれるのはネイディーンの過去と現在だけだけれど、その未来ははっきりとした希望に続いていく。
自然体で自転車をこいでいくネイディーンの姿は、少し肩の力が抜けたよう。
彼女と、彼女にかかわったすべての人たちに幸あれと願わずにはいられないエンディング。
それは多分、屈折した過去を持つすべての人間を極端に具現化したのがネイディーンだから。
彼女を主演女優賞候補にしてもよかったんじゃない、アカデミー賞。