ケン・ローチ監督の映画は、大体痛い。 コメディタッチの微笑ましいものもあるけれど、基本、労働者階級の貧しき苦悩はいつもついてまわる。 最も痛かったのはやはり『麦の穂をゆらす風』だけれど、自らの引退を撤回してまでつくったというこの映画は、まさにケン・ローチの集大成といった趣で、『麦の穂をゆらす風』とはまた種類の違う痛さに満ちていた。 けれどそこには確かに優しさもあって。
イギリス北部の工業都市、ニューカッスル。 熟練の大工であるダニエル・ブレイク(デイヴ・ジョーンズ)は59歳にして心臓病を患い(というか悪化して?)、ドクターストップをかけられて仕事ができなくなってしまう。 国の援助を求めることにしたダニエルだが、アナログ人間である彼にとって複雑怪奇すぎる制度とその手続きを前にして途方に暮れるばかり。 しかしダニエルは根本的に善良で前向きな人間なので、周囲の力を借りつつその制度に立ち向かおうとする。 そんなある日、ダニエルは2人の子供を持つシングルマザーのケイティと出会い、彼女らの境遇に他人事でないものを感じていろいろと手伝うことに・・・という話。
社会保障制度は国によって違うので、ダニエルたちが通う役所は日本でいうハローワークと生活保護申請所(というのか?)が一緒になったような場所っぽい。 でも「そう簡単におカネは出しません」というのは各国共通なのか、その壁は厚くて冷たい。 ダニエルに同情し、いろいろ手伝ってくれた職員も、上司に呼び出されて「それは君の仕事じゃない」と叱責されたりと、そこで働く人々でさえ余裕がない状態で、一体誰を助けられるというのか。 長い経済停滞期から一時的に脱出したはずのイギリスも、結局EU離脱に至ったのは経済不安からで、そして結局離脱してから更に不安が高まっているという悪循環に陥っていることが、ニュースよりよくわかる。 <寝室税>ってなんですか?(家に寝室があるとその分、税金を別に納めねばならないの?)、など、英国政府の「取れるところからはちょっとずつでもなんでも取れ」という必死さがうかがえます。
が、ダニエルは誇り高い職人なので、微妙に納得はいかなかったもののこれまで税金はすべて納めてきたし、国の負担になったことはないという自負もある。 自分だってほんとは働きたいのに、医者に止められているのだから仕方がない。 だから援助を望むのは、当然とまでは言わなくとも行使できる権利だと思っていた(実際、その通りのはずである)。 なのにそれができない。 彼の憤懣やるかたない気持ちは痛いほど伝わってくる。 またダニエルが声高にクレーマー的対応ではなく、普通のことを普通に言っているだけなのに話が通らない、ということが余計に腹が立つのだ。 “お役所仕事”というやつは万国共通なのか! とはいえ、国に金がなければ福祉から真っ先に削られる、というのもまた悲しい現実。

しかし役所の決まりだから、で取り付く島もない(ちなみにケイティはロンドンから引っ越してきたその足でここに来たので道がよくわからず、迷って遅れたのだった)。
役所もひどい。 手続きは?、と聞けば「まずネットから申請を」。 「詳細はすべてWEBに載っていますから見てください」ばかり。 貧困層が、高齢者がパソコン持ってる人ばっかりじゃないだろ! スマホじゃない人もいるだろ! だから食費を削って携帯電話料金を払い続けなきゃいけなくなるのだ、おかしいじゃないか。
役所もひどい。 手続きは?、と聞けば「まずネットから申請を」。 「詳細はすべてWEBに載っていますから見てください」ばかり。 貧困層が、高齢者がパソコン持ってる人ばっかりじゃないだろ! スマホじゃない人もいるだろ! だから食費を削って携帯電話料金を払い続けなきゃいけなくなるのだ、おかしいじゃないか。
生きることの優先順位ってなんですか?
『相棒』のエピソード『ボーダーライン』も思い出す、「それはいつ誰に降りかかってくるかわからない、道を一歩踏み外してしまうと起こる、貧困の連鎖」。 しかも道を踏み外すのは自分の意志じゃなくて、不可抗力だったりすることのほうが多いのに。 と、いろいろなことを考えてしまう。
それは、映画自体が声高に怒りを表明しているからではなく、ただ淡々と事実を積み上げていくだけだから。 解決策は登場人物たち同様、観客も考えざるを得ないのだ。
それは、映画自体が声高に怒りを表明しているからではなく、ただ淡々と事実を積み上げていくだけだから。 解決策は登場人物たち同様、観客も考えざるを得ないのだ。
しかしダニエルは自然体でいることを心がける。 「貧すれば鈍する」で、貧しさは多くの人の心からゆとりを奪い、心がすさむ。 でも彼は、ケイティと娘たちのために心を砕く。 それが彼の生きがいになりつつあるから。

ケイティは若いのにいろいろ重荷を背負ってしまっているけれど、ダニエルに助けられていることに申し訳ないと思いつつも頼ることを許す(というか、自分を気にかけてくれる人がいるということ自体が、絶望の淵にいるときにどれだけ救いになるだろう)。 やっぱりダニエルが本当にいい人だから。 「お互い様だよ」がリアルな重みで伝わるのです。
ダニエルと子供たちのやりとり、ダニエルのちょっと困った隣人との信頼関係など、ダニエルがまっとうであるからこそ関わりを持つ人々はダニエルを気遣う。 一見、ダニエルが口うるさそうなオヤジでも、そこには相手や周囲への思いやりがあるから。 なのに、なんでそんな真面目で実直で穏やかな人がこんな目に遭わねばならないのか。 泣けてくる。
でも、それは決して特別な話じゃない。 もし急に病気になって働けなくなったら、突然家族の介護をしなければならなくなったら、生活基盤を支えていた配偶者が突然いなくなったら・・・それは日本でも誰にでも起こる可能性があること。
ダニエル・ブレイクは、普通に暮らしているあたしたちすべての象徴。
「あぁ、こういう終わり方にならなければいいのに・・・」と途中から思った通りのラストを迎えてしまうんだけれど、こうなるしかないような気がしてしまうところに、この問題の根本的な悲しさがある。 個人の力には限界があるのだ、いくらダニエルが実直な人間であっても。
昨年のカンヌ映画祭でパルムドールを受賞したのは、この問題が世界規模で起こっていることの証明ではないだろうか。
適度な競争はいい。 けれど、過度の競争ではこぼれおちるものが絶対出てくる。 これから各国は、国際社会はどうしていくつもりなのか。 これはケン・ローチからの、先進国首脳たちへの挑戦状だ。