2017年04月08日

処刑人/シャーリー・ジャクスン

 昨年の12月初めぐらいに買ったはずなのだが・・・読み終わったので感想を書こうとして検索したら出てこなかった・・・。
 あれ、記事アップしてなかったっけ?、と探してみたら・・・表紙写真はアップされている。 ということは記事は確かにあるはずなのに・・・あ、<未公開>のままになってた!
 ということで、2016年12月5日の分を、改めて<公開>にいたしました。
 他にもそういうのあるかも・・・やっぱり過去記事編集も早くやらなきゃ。

 で、本題です。
 「シャーリー・ジャクスンが好き!」と大声で公言するのは非常に勇気がいる。
 少女の持つ純粋さと残酷性はほぼ同意義であることを、認めることになるから。
 ある日曜の夜のこと。 作家で鼻もちならない父親のために開かれたホームパーティで、17歳のナタリーは見知らぬ男に話しかけられ・・・。 そしてナタリーは大学に進学し、家を離れて寮に入ることに。 が、ナタリーは新しい生活になじめず、同世代の少女たちに対する劣等感と優越感にさいなまれながらの毎日を繰り返す。 けれどトニーという少女と出会い、ナタリーは初めて親友と呼べる他人の存在に生まれて初めての安らぎを見い出すのだが・・・という話。
  処刑人シャーリー・ジャクスン.jpg この表紙も、美しいのか怖いのかわからん。
 帯には<不安と憧憬に揺れる孤独な少女の成長小説>と書いてあるんだけど・・・確かにその面は、ある。 でもそれだけじゃない。
 冒頭から、不可解な描写が始まる。 ナタリーから見る現実世界と、彼女の内面世界が同じ次元で描かれているので。 でもそれをすんなり受け止めてしまえる自分に驚く。 まだあたしの中には“少女”がいるのか、それとも“少女”の頃の記憶や考え方を今でも鮮明に覚えているからか。 それともあたしは今もナタリーと同じように世界を見ているのか。
 若者の至らなさを目にすれば、大概大変恥ずかしくなってしまうものなのだが・・・シャーリー・ジャクスンの描くものは違う。 そういうのじゃない。
 「まさにその通り!」とリアルタイム感が出てしまうのだ。 あたしのせいなのか? 彼女の描く少女の普遍性のせいなのか。
 あぁ、すごくよくわかる、と特に思ってしまった台詞を、296ページから少し長いが引用する。

 しばらく無言で歩き、やがてナタリーが穏やかに言った。
 「子どものころよく考えたわ。死ぬまでずっと、何千年ものあいだ呼吸を続けていなくちゃいけないのは恐ろしいことだって。続けてこう考えたものよ。自分が息をしてると意識したからには、呼吸にもほかのいろんなことと同じ問題が起きてしまう――つまり、それまで何も考えずにやっていたのに、自分がそれをやってると気がついたら、意識しながらやるのは難しくてうまくいかないはずだって。だけどそんなふうに考えてる最中に、そういえば今、呼吸について考えながら息をしてたから、だいじょうぶだわって気がつくの」

 もう終わり頃なので、かなり前向きな意味合いを持つ台詞にはなってますが・・・。
 帯通り、これが<少女の成長小説>ならば、何故『処刑人』“Hangsaman”=首吊りさせる人)というタイトルなのか。
 誰が殺したのか、誰が処刑されたのか。 何の罪で?
 それが、少女が持つ無邪気という名の傲慢故の残酷さのせい? でもその代償と言うにはあまりに大き過ぎる傷を、ナタリーは負ってしまったのに。
 殺したのも殺されたのも自分ということならば、少女時代の自分を葬り去ることが<成長>ということなのか。
 ならばあたしは今でも罪人でありながら罪を償わず、死刑執行人でもありながら自分の責務を果たしていないということになる。
 でもこの物語のとんでもないところは、そんな「少女、もしくはかつて少女だったもの」にしか響かない、というレベルの作品ではまったくない、ということ。 暴力的ではないが強権的な父親と、それに対して従うしかないとすべてをあきらめてしまったような母親の間に生まれ育ったナタリーは父親に認められることが自己肯定の唯一の手段。 そのために知識をどんどん詰め込んで、そうなると母親を尊敬できないし、そして父親のアラも見えてきてしまう。 そういう17歳って大人から見たらすごく厄介だろうし、同世代から見ても扱いづらい。
 そういう、“周囲から理解されにくい人”の孤独(またそういう人は孤独であることをマイナス要因だと容易に認めたがらないものなのだが)を容赦なく抉った作品なのだ。
 そんな人が、どうやって世間と折り合いをつけていくのか・・・その過程を、幻想小説という枠の中で成立させてしまっている。
 でもあくまで過程であって結果ではない。 ナタリーがこの後、どうやって生きていくのか、似たような少女であったあたしとしても彼女の納得のいく人生を手に入れてほしいと、願わずにはいられないのだ。

ラベル:海外ミステリ
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2017年04月07日

わたしは、ダニエル・ブレイク/I, DANIEL BLAKE

 ケン・ローチ監督の映画は、大体痛い。 コメディタッチの微笑ましいものもあるけれど、基本、労働者階級の貧しき苦悩はいつもついてまわる。 最も痛かったのはやはり『麦の穂をゆらす風』だけれど、自らの引退を撤回してまでつくったというこの映画は、まさにケン・ローチの集大成といった趣で、『麦の穂をゆらす風』とはまた種類の違う痛さに満ちていた。 けれどそこには確かに優しさもあって。

  わたしは、ダニエルブレイクP.jpg 人生は変えられる。 隣の誰かを助けるだけで。

 イギリス北部の工業都市、ニューカッスル。 熟練の大工であるダニエル・ブレイク(デイヴ・ジョーンズ)は59歳にして心臓病を患い(というか悪化して?)、ドクターストップをかけられて仕事ができなくなってしまう。 国の援助を求めることにしたダニエルだが、アナログ人間である彼にとって複雑怪奇すぎる制度とその手続きを前にして途方に暮れるばかり。 しかしダニエルは根本的に善良で前向きな人間なので、周囲の力を借りつつその制度に立ち向かおうとする。 そんなある日、ダニエルは2人の子供を持つシングルマザーのケイティと出会い、彼女らの境遇に他人事でないものを感じていろいろと手伝うことに・・・という話。
 社会保障制度は国によって違うので、ダニエルたちが通う役所は日本でいうハローワークと生活保護申請所(というのか?)が一緒になったような場所っぽい。 でも「そう簡単におカネは出しません」というのは各国共通なのか、その壁は厚くて冷たい。 ダニエルに同情し、いろいろ手伝ってくれた職員も、上司に呼び出されて「それは君の仕事じゃない」と叱責されたりと、そこで働く人々でさえ余裕がない状態で、一体誰を助けられるというのか。 長い経済停滞期から一時的に脱出したはずのイギリスも、結局EU離脱に至ったのは経済不安からで、そして結局離脱してから更に不安が高まっているという悪循環に陥っていることが、ニュースよりよくわかる。 <寝室税>ってなんですか?(家に寝室があるとその分、税金を別に納めねばならないの?)、など、英国政府の「取れるところからはちょっとずつでもなんでも取れ」という必死さがうかがえます。

  わたしは、ダニエルブレイク1.jpg よくわからないことばかりに囲まれて、それでもなんとか努力してしまうダニエル。 心臓の負担にならなければよいのだが・・・ハラハラ。

 が、ダニエルは誇り高い職人なので、微妙に納得はいかなかったもののこれまで税金はすべて納めてきたし、国の負担になったことはないという自負もある。 自分だってほんとは働きたいのに、医者に止められているのだから仕方がない。 だから援助を望むのは、当然とまでは言わなくとも行使できる権利だと思っていた(実際、その通りのはずである)。 なのにそれができない。 彼の憤懣やるかたない気持ちは痛いほど伝わってくる。 またダニエルが声高にクレーマー的対応ではなく、普通のことを普通に言っているだけなのに話が通らない、ということが余計に腹が立つのだ。 “お役所仕事”というやつは万国共通なのか! とはいえ、国に金がなければ福祉から真っ先に削られる、というのもまた悲しい現実。

  わたしは、ダニエルブレイク2.jpg ケイティと知りあったのだって、その役所でも面談時間に数分遅れたから申請からやり直してと言われたところに出くわし、「それはひどいじゃないか、次のやつ誰だ? 少し待ってやってもいいだろう?」と割って入ったのがきっかけだった(しかもちゃんと、次待っている人は「ああ、構わないよ」と答えている)。
 しかし役所の決まりだから、で取り付く島もない(ちなみにケイティはロンドンから引っ越してきたその足でここに来たので道がよくわからず、迷って遅れたのだった)。
 役所もひどい。 手続きは?、と聞けば「まずネットから申請を」。 「詳細はすべてWEBに載っていますから見てください」ばかり。 貧困層が、高齢者がパソコン持ってる人ばっかりじゃないだろ! スマホじゃない人もいるだろ! だから食費を削って携帯電話料金を払い続けなきゃいけなくなるのだ、おかしいじゃないか。
 生きることの優先順位ってなんですか?
 『相棒』のエピソード『ボーダーライン』も思い出す、「それはいつ誰に降りかかってくるかわからない、道を一歩踏み外してしまうと起こる、貧困の連鎖」。 しかも道を踏み外すのは自分の意志じゃなくて、不可抗力だったりすることのほうが多いのに。 と、いろいろなことを考えてしまう。
 それは、映画自体が声高に怒りを表明しているからではなく、ただ淡々と事実を積み上げていくだけだから。 解決策は登場人物たち同様、観客も考えざるを得ないのだ。
 しかしダニエルは自然体でいることを心がける。 「貧すれば鈍する」で、貧しさは多くの人の心からゆとりを奪い、心がすさむ。 でも彼は、ケイティと娘たちのために心を砕く。 それが彼の生きがいになりつつあるから。

  わたしは、ダニエルブレイク4.jpg フードバンク(生活保護の一環として、食料や必要最低限の生活必需品を配給券と引き換えに配布する場所。 全体量は決められているが、この棚の中から好きなものを、と意外と選択権はある)にて、取り乱してしまったケイトにかけるダニエルの言葉は優しくて力強い。 それは、人生をそれまできちんと生きてきた人だからこそ出せる説得力。
 ケイティは若いのにいろいろ重荷を背負ってしまっているけれど、ダニエルに助けられていることに申し訳ないと思いつつも頼ることを許す(というか、自分を気にかけてくれる人がいるということ自体が、絶望の淵にいるときにどれだけ救いになるだろう)。 やっぱりダニエルが本当にいい人だから。 「お互い様だよ」がリアルな重みで伝わるのです。
 ダニエルと子供たちのやりとり、ダニエルのちょっと困った隣人との信頼関係など、ダニエルがまっとうであるからこそ関わりを持つ人々はダニエルを気遣う。 一見、ダニエルが口うるさそうなオヤジでも、そこには相手や周囲への思いやりがあるから。 なのに、なんでそんな真面目で実直で穏やかな人がこんな目に遭わねばならないのか。 泣けてくる。
 でも、それは決して特別な話じゃない。 もし急に病気になって働けなくなったら、突然家族の介護をしなければならなくなったら、生活基盤を支えていた配偶者が突然いなくなったら・・・それは日本でも誰にでも起こる可能性があること。
 ダニエル・ブレイクは、普通に暮らしているあたしたちすべての象徴。
 「あぁ、こういう終わり方にならなければいいのに・・・」と途中から思った通りのラストを迎えてしまうんだけれど、こうなるしかないような気がしてしまうところに、この問題の根本的な悲しさがある。 個人の力には限界があるのだ、いくらダニエルが実直な人間であっても。
 昨年のカンヌ映画祭でパルムドールを受賞したのは、この問題が世界規模で起こっていることの証明ではないだろうか。
 適度な競争はいい。 けれど、過度の競争ではこぼれおちるものが絶対出てくる。 これから各国は、国際社会はどうしていくつもりなのか。 これはケン・ローチからの、先進国首脳たちへの挑戦状だ。

ラベル:映画館 外国映画
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2017年04月06日

桜、咲いちゃってた!

 2日ほど、道路工事等で通らなかった最寄駅までの道の一角。
 今日通ったら、桜がもうほぼ満開じゃないか!

  170406桜.JPG よくわからないのは、空が曇っていたからです。

 あぁ、もうそんな時期なのか・・・。
 気温も急激に上がってきているし、夏物の服を出さないといけないなぁ(20℃近くなってきたらあたしの基準ではもう<初夏>である)。
 ここでは冬も短いが(秋の終わりがずっと続いている感じ)、春も短い・・・。
 もうあたしには、夏の気配。

ラベル:季節もの
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2017年04月03日

ステイ・クロース/ハーラン・コーベン

 最近、ハーラン・コーベン原作のドラマを見ることが多かったので、本人の作品を読んでみようかな、という気になって、図書館で探す。
 フランスでドラマ化された『ノー・セカンド・チャンス』はドラマでは主人公が女性だったが、原作では男性だったので驚いた。 子供が誘拐される話なので、父親よりも母親が主人公のほうが視聴者の共感が呼べるという判断であろうか。 でも他の国でドラマ化されるんだから、ハーラン・コーベンは結構アメリカで人気のある作家なのだろう。
 そんなわけで、あたしが今回選んだのはこちら。

  ステイクロース.jpg “STAY CLOSE”(=「そばにいて」)
 あ、これ、ちょっと前に気になっていたやつだ、と表紙を見て思い出す(というか、表紙にそのとき惹かれたというか)。
 こんなところで再会するとは。 表紙の印象は残っていたんだけれど、作者どころかタイトルも覚えていなかったので。 なにがどこで繋がるかわかりません。

 アトランティックシティの有力者の息子が忽然と消えたのは、2月18日。
 かつては実力派の報道カメラマンだったレイは今では雇われパパラッチに身を落としているが、その日、仕事のさなかにとんでもない写真を撮っていたことに気づく。
 市警察の刑事ブルームは17年前の同じ日に起きた失踪事件を思い出し、新たな側面から調査を開始。 すると、18日周辺の時期に毎年男が行方不明になっていることを突き止める。 そんなとき、17年前行方知れずになっていた(その男と一緒に逃亡したのではないかと思われていた)元ストリッパー・キャシーがブルームの前に現れる。 キャシーは偽名で、過去を封印し、本名のメガンとして家庭をつくり普通の主婦としての人生を掴んでいた。 彼女の証言やブルームの調査によって、行方不明になった男たちはみなDV疑惑や、女たちに尋常ではない暴力をふるうタイプであることがわかっていく。
 そしてレイもまた、17年前のあの日に人生を狂わされた一人であることも。
 謎の「目的のためなら手段を選ばない」若いカップルも登場し、事件は複雑怪奇に絡み合っていく・・・という話。

 作中に何度も登場する、「歴史あるボードウォーク」。 途中で、「これって『ボードウォーク・エンパイア』に出てくるのと同じもの?」と気づいて驚く。 そうだ、舞台はアトランティック・シティ。 禁酒法時代とアル・カポネ。
 彼女たちの抱えていた<虚無>が街のたたずまいと不意に結びつく。
 確かに事件はある、犯人はいる。 でもそれは些細なことに過ぎないように思えてしまった。
 それよりも、群像劇であることのほうが印象深い。 誰もが主役でありえるのに、この物語の主役ではない。 ただそれぞれが、それぞれの人生を生きている。 もしかしたら、ギリギリのところで。
 作品そのものが、ハードボイルド。
 これまで読んできたものとは違う種類の“重さ”を感じてしまった。
 ちょっとしばらく、ハーラン・コーベン、いいや。 間を置こう。

ラベル:海外ミステリ
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2017年04月02日

AUTOMATON/Jamiroquai

 「ジャミロクワイが帰ってきた!」ということで、予約していたCDを受け取る。
 歌詞・対訳つき、ボーナストラック1曲つきの日本盤を購入。 例のシルエットが描かれたステッカーがついてきました。
 今回のアルバムは7年振りとのこと・・・え、もうそんなになるんですか、と思ってしまった。

  ジャミロクワイオートマトン.jpg <スペースカウボーイの帰還>とコピーにいつも書かれる。
 <オートマトン>とは「機械的の行動する人、ロボット的」という意味らしい。

 “Traveling Without Moving”をリアルタイムに知っているためそのイメージがどうしても強いのですが(いま聴いてもまったく古くなっていない名盤であるし)、ついジャミロクワイの新作と聞けば、それ以上のものを求めてしまっていることに気づく。
 好きだけど、大ファンというわけでもないあたしでもそう思ってしまうのだから、彼らのプレッシャーはそれ以上なわけで。
 でもできる限り先入観なく聴いてみた(先行シングルもまったく聴いていないので、予断の持ちようもないのだが)。
 一回目、かなりポップ寄りというか、エレクトロ強めな印象。 むしろディスコサウンド的?
 アシッド・ジャズというジャンルをメジャーにしたことを忘れ去ったかのようなふっきれぶりは気持ちいいほどポップです。
 これは、踊れる。 かなり、踊れる。
 でも二回目聴いてみると・・・ビートも強いしやっぱりエレクトロではあるんだけれど、その奥にはジャズ的要素がちゃんと残ってる!
 それは「電子楽器と生演奏の融合」というお手軽な言葉で表現できるレベルのものではなくて・・・つまりタイトルはとても逆説的なものに感じるのです。
 なによりも、ヴォーカルのジェイ・ケイのいつにもまして力強い歌声。 一時期、「ヴォーカル弱い」というときがあったので余計に、サウンドの先頭を切って走るような歌声が心地よくて。 成熟しつつも、あの頃が戻ってきたようにも感じられて。
 アルバム後半はエレクトロが弱めに思えてきたりして、ちょっとした部分でボビー・コールドウェルを思い出してみたり。 AORというジャンルもやはり広いんだなとか、ポップスは永遠だな、とか感じてしまったりしています。 
 オザケンの帰還も<事件>だったけど、ジャミロクワイの新作もこういう仕上がりなのならば、世界が求めているのは多幸感あふれるポップスなのでは、という気がしてきたり。 つまりそれだけ世界はより荒廃してきている、ということなのですが。

ラベル:洋楽
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2017年04月01日

哭声 コクソン/THE WAILING

 韓国映画はあたしはあまり好きではないのだが、國村隼さんが出ているというし、『チェイサー』の監督の作品ならばサスペンステイストながら不条理ホラーになるであろうことは予測できたので、観てみた。 でもあくまで目的は、國村隼さんだ!

  コクソンP.jpg 疑え。 惑わされるな。

 警察官のジョング(クァク・ドウォン)はある朝、緊急通報で叩き起こされる。 しかし妻と母に「ごはん食べてから行きなさいよ」と言われ、そのまま朝食をとってから現場に行き、「遅い!」と怒られるような人。 そんな平和な田舎の山村で、突然村人が家族を手にかけて最悪殺害するという事件が立て続けに起こる。 犯人には目がひどく赤くなり、肌もただれて湿疹が出ているという共通点があるが、誰もその原因を追及できない(しない?)。 これは、村のはずれの山奥によそ者である正体不明の日本人(國村隼)が住みついてからではないか、と村には噂が広がる。
 ジョングは娘のヒョジンがなによりも大切だが、いつしかヒョジンの皮膚にも湿疹が現れ、謎の行動をするようになったことに恐れを抱き、祈祷師イルグァン(ファン・ジョンミン)に助けを求めるが・・・という話。
 冒頭、新約聖書からの引用が出る。 そういえば『チェイサー』にも教会が出てきた。 脚本も自分で書くナ・ホンジン監督はキリスト教徒なのだろうか?

  コクソン4.jpg 雨の現場検証。
 まずやる気のないジョングにいらいら。 田舎だからそんなに大きな事件が起こることはないんだろうけどさ・・・。 時代設定がちょっと古いのかと思いきやそういうこともないようで(結構新型のスマホ使ってますよ)、「現代なのにこれか・・・」と警察としての動きには期待できない感が最初から伝わってくる(実際、最後まで警察は機能しなかった)。 多分彼らも『CSI:科学捜査班』は観てるはずなんだけど、鑑識の厳密さは身についていないようです。
 家族を殺して家に火をつけた犯人が明らかに見慣れぬ皮膚病になっていたら、何故まずそれを調べない!(調べている人がいるのかもしれないが映画の中では描写されない)。 とりあえず犯人がわかればいいのか。 でも事件が続くたび、「よそ者のせいでは・・・」となっていく過程は非常にスピーディーで、村社会の本質を見せられるようです。
 そこで國村さん、大活躍(?)。 日本だったらこんな仕事頼まないよな、というか(多分こういう役柄が存在する必然性を感じない)、何故こんな仕事頼んでくる!、というすごさ。 またそれを引き受けてしまった國村さんのすごさというかね(まぁ、舞台出身の方は基本的に仕事を断らない傾向にありますが)。

  コクソン5.jpg こんなこともさせられちゃって・・・。
 村人が、「山でこんなものを見た」と話す内容を再現フィルム的に描写するのですが、ふんどし一枚の裸で山の中を駆け回り、殺した鹿に四つん這いで生でかぶりつく。 それを見られて村人に襲いかかる・・・らしいのですが、じゃあ何故お前はこうして生きて帰ってきて無事にそのエピソードを語れるのか!
 しかし明らかに回想シーンだとわかるような演出は一切施しておらず、話が進むまでそれが誰かの語りなのか、ジョングの見た夢なのかなどがまったくわからないようになっており、それがまたこの映画を意味のわからないものにしている要因のひとつ。 國村さん、名前もないし日本語しか話さないのですが、もうその存在と行動自体でこの映画の中の見事なトリックスターになっていて、ほんとおつかれさまでした、とお伝えしたい。 それくらい、身体はってます!

  コクソン1.jpg ジョングが意を決してよそ者に会いに行く。
 そのテンションで、日本人との感情表現の違いが明白に。
 うちはWOWOWを入れているので、たまに韓国ドラマが目に入るときがあるのですが、なんというか彼らの会話のやりとりが感情むき出しすぎというか、日常レベルの会話なのかケンカなのかよくわからんと感じていたのですが(なにしろ全員が韓国の人だから)・・・この映画で“よそ者”としての日本人が入ることにより、この彼の存在自体も謎だし、決して饒舌ではないのであるが、その佇まいやテンションは日本人から見てごく自然なもの。 彼はこの物語の中で<異質の存在>なのだけれど、観客たるあたしから見たらちょっと共感できてしまう存在なので、「韓国人の会話のテンション、ちょっとおかしい」と思ってしまうことになるという・・・。 だから向こうの人にしてみたら、「日本人は何を考えているのかわからない」と思われてしまうのだろう。 地理的に近くとも、文化的に遠い国ってこういうことだな、と。
 しかしよそ者さんに共感している場合ではない展開がつづいていく。
 “白い服を着た女”というのも登場するのだけれど、彼女の存在もまた謎で。
 理屈で考えたら全く意味の通らないところもあるんだけど、とにかく押し切るし、こっちも押し切られる。

  コクソン3.jpg 祈祷師、登場。
 この祈祷師もまた謎で。
 よくわからない大仰なリズムと祈り、火を焚いて挙句は鶏の首を切る。
 うーん、なんて土着的。
 魔除け的なものを家の前に吊り下げたり、能力を持つ者同士の対決ではすごいことになったり、カラスはやはり不吉な使者なのね、とか。
 後半はジョングが警察官であること自体忘れちゃっているのではないか、という展開になっていきますが、職業よりも家族、娘が大事ということのあらわれなのでしょう。
 まぁ、多分こういうことなんだろうなぁ・・・という大まかな感じはつかめるのですが。

  コクソン2.jpg 父と娘の絆が試される、ということなの?

 とはいえ、結局、なんだったのかよくわからない・・・。
 絶対的な悪というものがあるとすれば、その形はその人が思う姿で現れるということなのか(この感じはキリスト教的? 悪魔という存在を肯定するような)、もしくは人の心に潜む悪意がその大きさに合わせて具現化したらこうなる、という風に解釈することもできるし・・・でも誰が味方で誰が敵なのか、誰が善で誰が悪なのか、ということはすべてグレーゾーン。
 パンデミック、ゾンビ、エクソシストとホラー映画要素全部入れしつつも完全にホラー映画でもなく、そのくせ2時間36分というとんでもない上映時間なのに結局よくわからないまま終わるって、なんという力技。
 決してロジック的ミステリにはならず、土着的情念にねじ伏せられる。
 それが韓国映画なのだと言われたら、頷くしかないのですが。

ラベル:映画館 外国映画
posted by かしこん at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 movie | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする