2017年02月09日

アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男/DER STAAT GEGEN FRITZ BAUER

 ドイツ映画。 時間軸でいえば『アイヒマン・ショー』の前日譚にあたる感じですかね。 あっちではアイヒマンを裁判にかけたのはイスラエルでしたが、この映画ではドイツの検事総長フリッツ・バウアーが執念でアドルフ・アイヒマンを逃亡先から探し出す方がメイン、とはいえ一筋縄ではいかない話になっておりました。

  アイヒマンを追えP.jpg これは復讐ではない。 正義と尊厳を賭けた闘いだ

 舞台は1950年代後半のフランクフルト。 検事長のフリッツ・バウアー(ブルクハルト・クラウスナー)は、ナチスによる戦争犯罪の告発に心血を注ぎ奔走していたが、捜査は難航の一途を辿っていた。 それは戦後10年ほどのドイツではまだナチスの残党も多く残っており、ユダヤ人でもあるフリッツは様々な妨害を受けていたためでもあった。 ある日、ホロコーストに深く関わった親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンがアルゼンチンに潜伏しているという情報を入手するものの、ドイツの捜査機関は動いてくれず、フリッツは単身イスラエルに向かい、モサドに情報提供を申し出るのだが・・・という話。

  アイヒマンを追え4.jpg モサドの方々。
 意外にも、モサドは「情報が少なすぎる」とすぐ動かない。 結局はカネの話になって、彼らも政治の産物であると思い知る(だからこそ個人的な復讐心が出発点であるサイモン・ウィーゼンタール・センターのほうが執念深いのであろう)。 もっとも、フリッツをそうすぐには信用しないということの表れなのかもしれないが・・・こんなにいろいろやっているのに、事態はフリッツの思うようには進まないという怒りや苛立ちがびしばしと伝わってくる。
 そう、フリッツはドイツ人なのに<ユダヤ人である>ことを重視されている(ここが感覚的に日本人には理解が難しいところだ・・・)。 ドイツ人として戦争犯罪を告発する立場なのに、ユダヤ人であるが故に「それは私怨ではないのか」という問いを常に内外から突き付けられている。

  アイヒマンを追え2.jpg 唯一、味方であることを表明する検事のカール(ロナルト・ツェアフェルト)。

 カールにも実は事情があり・・・勿論動機の出発点は純粋な正義なのだが、少数派でありながらそれを保ち続けるのはどれだけの努力が必要か、というのは今も昔も変わらない話。 そう考えると現代は多少なりともましになっているのだろうか。
 基本テイストはフリッツ・バウアーの伝記映画っぽいのであるが、当時の雰囲気や時代の空気感をも焼きつけたい、という制作者側のこだわりも感じられ・・・なんとも言えない閉塞感が。 これは罠なのかそうではないのか、感じながら生きていくのはつらい。

  アイヒマンを追え3.jpg とはいえこんなお茶目な構図もあり。

 フリッツがなんだかんだいって<不屈の闘志の男>だから成り立った話であり、歴史を動かすきっかけをつくるのは非凡な誰かであるという公式は変わらず。 ただのヘビースモーカーの頑固者だけではない、フリッツの人間的魅力が描かれていたのがこれを単なる歴史ドラマではなく、実話を描きながらサスペンスとして成立しちゃっている原因ではないだろうか。 ときどき、この人、自分から敵をつくりにいってるよなぁ、と思える部分もなきにしもあらずで、でもそれは彼の意地なのだ。
 私怨ではない、これは正義のためなのだ、と証明するためにも彼はアイヒマンを捕まえなければならなかった。
 そのものぐるしさが、観ているこっちにも伝染する。
 けれどナチスの残党や、まだユダヤ人を憎んでいる人たちは存在した。 ドイツ国内で、戦争はまだ続いていたのだ。
 戦後、とのちの時代の人間は容易く口にするけれど、そのときを生きている人たちにとっては地続きの時間。 「戦争が終われば正義は戻ってくると思っていた」というフリッツの言葉が、戦争が終わったからといってすべてがリセットされるわけではない複雑さを物語る。 それは日本でも同じことだったんだろうけど・・・なんかGHQと東京裁判に収斂されてしまって、個人に起きたこととかはよく分からないなぁ(そう思うと、『仁義なき戦い』一作目の冒頭なんかは戦後の混乱期を描いたものだと言えるのかも)。
 だけど、この後の時代がまた『顔のないヒトラーたち』なわけでしょう?
 フリッツはできるだけのことをした、目的を成し遂げた。 けれどこの国の闇はすべて払えなかった。
 そう思ってしまうと、カタルシスはない・・・。
 やはり、実話は重い。

ラベル:映画館 外国映画
posted by かしこん at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 movie | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする