2016年09月01日

トランボ ハリウッドに最も嫌われた男/TRUMBO

 脚本家ダルトン・トランボについては以前、WOWOWがアカデミー賞関連でつくったドキュメンタリー『ハリウッドと赤狩り』で取り上げられているのを見て知っていた。 主に前半はエリア・カザン、後半はダルトン・トランボという構成で。 レッドパージについてもなんとなくは知っていて、でも何故そこまで攻撃的になってしまったのかはよくわかっていなかった。 自由の国アメリカなのに、個人の思想信条を責めるってありなのか(でも911後の愛国者法の制定の素早さを見れば、そういう土壌が普通にあるのだということに納得なのだが)。 そんなわけで知ってる話だからどうしようかなぁ、と思ったのだが・・・カメレオン俳優ブライアン・クランストンのオスカー候補となった芝居、やっぱり観たいよね、ということで。

  トランボP.jpg 『ローマの休日』を生み出した脚本家の真実の物語

 東西冷戦下の1940年代後半から50年代に猛威を振るったハリウッドの<赤狩り>は、共産主義つまりソ連への恐怖と嫌悪がきっかけだった。 が、自分の主義主張を堂々と語るのがアメリカの言論の自由の権利と訴えていた<ハリウッド・テン>は目の敵にされ、一人、また一人と破滅の道に追いやられる。 すでにアカデミー脚色賞にノミネートされた実績があり、「ギャラの高い脚本家」と呼ばれていたダルトン・トランボ(ブライアン・クランストン)もその一人だった。 彼は下院非米活動委員会での証言を拒否したことで投獄され、釈放後も仕事を与えられない日々が続く。 家族の生活のため、ひいては同じように仕事が得られない脚本家たちのため、トランボはパルプフィクション映画のプロデューサー(ジョン・グッドマン)にギャラのランクに関係なくどんな仕事でもやると計画を持ちかける。 勿論、みな架空のペンネームで、という話。

  トランボ5.jpg ハリウッド・テンのみなさん。 会合ははじめは穏やかなものだったが、締め付けが厳しくなるにつれそれぞれが疑心暗鬼になっていく。
 トランボが信じるところの“共産主義”とは「みんなが平等に平和に仲良く生きられるように」というレベルだし、その活動も「映画に携わるスタッフの待遇の改善を!」というもっともな内容で、なんとなく『沈まぬ太陽』の労働組合の話あたりを思い出させるものがあるが、彼は考えを同じくする仲間たちと一緒に声を上げているだけで、特別ソ連をひいきにしているわけではない(ように見える)。 なのに何故あんなに責められなければいけないのか、正直全然理解できないのだが、それが「時代の空気・同調圧力」というものなんだろう。
 そういうハリウッド自身が抱える時代の暗部を映画にする姿勢は(ネタがないから、実話物なら手堅いからという商業主義的な意味があるとしても)、歴史的に意義はあると思う。
 しかしやはりアメリカなのは、反骨精神を貫くトランボを称賛しつつ、正反対の道を行ったエリア・カザンを許していない人が多くいる、というところ(あ、ここは映画には出てこない話です)。 エリア・カザンを非難する前に、そもそも下院非米活動委員会そのものやそれの広告塔だったジョン・ウェインやゴシップ・コラムニストのヘッダ・ホッパー(この映画ではヘレン・ミレン)をどうにかすべきでは? でも大スタージョン・ウェインのそんな“黒歴史”を喧伝されてはいない(知っている人は知っている、というレベルだし、なにしろ当時俳優だったロナルド・レーガンだって非米活動委員会に協力していたのだから)。 なんかずるいよね。

  トランボ1.jpg 執拗にトランボを業界から追放しようとするヘッダ。 なにか恨みでもあるのか?、という気がするほど(彼女はもともと女優だったが売れなくて、顔出しゴシップコラムニストに転向した様子)。
 とはいえ、この映画は誰かを悪として描くことはしない。 ただひたすら書く、いろいろ思うことはあるけれどそれを作品として昇華することに全エネルギーを注ぐ脚本家をただ描く(だからトランボの生きざまを知ってから彼が脚本を担当した映画を観ると、感想が変わってくるかもしれない)。 勿論、途中軋轢はあれど彼を支える家族の物語にしちゃうのもまた、アメリカなんだけど。
 ひたすらタイプライターを叩き続け、佳境に入ると浴室で仕事をした(椅子だと腰が痛くなるのと、集中したいから)というエピソードもそっくり再現、ブライアン・クラストンファンの方々は彼の入浴シーンが何度も見れます! 脚本家にしてはいい身体つきなんだけど、そこは彼自身が自分は労働者であるという自覚のあらわれなのかなぁ。

  トランボ4.jpg ダイアン・レインはすっかり「よき妻であり母」のイメージが定着したなぁ。
 しかし暗い時代はいつまでも続かない。
 トランボに実名で脚本を仕上げてほしいとカーク・ダグラスやオットー・プレミンジャーらが現れるのはなんだか壮観だった(自分が知ってる名前が出てきた!、的ヨロコビというか)。近代映画史を見ている気持ちになった(当時のニュース映像も一部使われたりしていて、否応なしに「過去とはいえ現実」という事実をつきつけてくるのだけれど)。
 評価はその時代で変わる、というのは芸術作品の宿命。
 けれどそこに政治を持ちこんでしまったらアウトだ、ということをしみじみ感じさせる。 また作中でも言及されるけれど、トランボは脚本家だから現場に行かなくてもいいし、どうにか名前を変えるという方法で仕事を続けられたけど、顔が商売道具の俳優や代表者となる映画監督はそうはいかないというそれぞれの事情も描かれ、決してトランボだけが特別なヒーローであるとは表現しない(勿論彼が不屈の精神の持ち主だったのは確かだし、減らず口を叩きながら本質を煙に巻き、なんでもへっちゃらみたいな顔をしながらも自分の名前で評価されない悔しさはあっただろうが、それはぎりぎりまで抑えられていた)。
 家族愛を高らかに歌い上げつつ、あの時代のことはもう水に流そうじゃないか、流してもいいんじゃないかというハリウッドへの呼びかけのように見えた。

ラベル:映画館 外国映画
posted by かしこん at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 movie | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする