2016年07月13日

帰ってきたヒトラー/ER IST WIEDER DA

 こんな映画をドイツが作っちゃうとは、やはり時間が流れているんだなぁ・・・としみじみ。
 ま、しみじみするような映画ではないのですが、コメディとしてどう扱うのか興味があり・・・結果として半端ないホラー映画を観てしまったような気持ちで帰途を辿ることになりました。
 思い返しても、ぞっとします。

  帰ってきたヒトラーP.jpg 21世紀の諸君、お待たせしました。

 アドルフ・ヒトラー(オリヴァー・マスッチ)が突然、現代にタイムスリップしてくる。
 勿論本人はそのことはわかっていないし、まわりの人々は彼をモノマネ芸人だと思っている。 その人気っぷりに、予算削減のためテレビ局からクビを切られたばかりの駆け出し映像作家ザヴァツキ(ファビアン・ブッシュ)は「これは当たる!」と踏み、見切り発車でヒトラーを連れてドイツ全土を渡り歩いて町の人たちとの会話を撮り、YouTubeにUPして一発逆転を狙うという目論見がお互いの利益と一致し、彼はマネージャー役もやるようなことに。
 が、状況がわかるにつれ、自分一人が未来にいて、ヒトラーの目指した野望ははるか昔についえたことを知るのだが、しかし彼はヒトラーその人であり、時代が変わろうとも考え方を変える気はなかった。 むしろテクノロジーの発達を、新たなプロパガンダの道具にできると考えていて・・・という話。

  帰ってきたヒトラー2.jpg タイムスリップの理由や理屈など一切説明はないが、それは映画のテーマ的にはどうでもいいことである。

 結局のところ、ドイツも経済的なゆとりがなくなり、EUによる移民自由化のあおりを受けて(そのへんはイギリスと同じ問題なんだよなぁ)、格差社会の増大により庶民の不平は膨れ上がるばかり。 だから排他的になり、「自国民」というわかりやすい指標で判断されてしまうことになる。 モノマネ芸人と思っていても“ヒトラー”を前に結構危険な自説を述べる普通の人たちの姿はかなり刺激的。 でもネオナチからはヒトラーは歓迎されていない(偽者だと思われているから?)というのは皮肉な話で、むしろあまりおおっぴらに主義主張を訴えない方々のほうがブームに盛り上がる構図があり、「そういうところも、なんか日本人と似ている・・・」と思ってしまった(ヨーロッパの中では勤勉さや融通の利かなさなど、ドイツが日本と国民性が似ている、らしいので)。
 冒頭、ドキュメンタリー的ひとコマがはさまれる。
 それが実は甚大な効果を生んでいて、笑いを提示すると同時に低予算の本気じゃない感を滲ませつつ、こっちの油断を突いてくる。 だからその後、ザヴァツキとのゲリラ撮影っぽいロードムービー展開も<ドキュメンタリー的効果>に見えるし、実は合間に特撮やら高画質映像(?)やらもあるんだけれど、それらが浮くこともなくひとつの世界観に収まっている、というのがすごい。
 だから実際の映像(ほんとのドキュメンタリー)が特に終盤、畳み掛けるように入ることで、言い様のないリアリティを醸し出しているのです。

  帰ってきたヒトラー4.jpg いつしかバラエティ番組だけでなく、マジな討論番組にも出演してしまうように。

 無名だけど実力派、という難題をクリアしてキャスティングされたオリヴァー・マスッチ氏、勿論ヒトラー姿はメイクで素顔はまったく違うのでしょうが、チャレンジングな撮影だっただろうなぁ・・・と思うと町での撮影部分は思い返してみてもハラハラする。 憎悪犯罪的なことが起こってもおかしくない状況だったと思うし。
 「ヒトラーといえば全世界における大悪人」として、どんなたとえに出しても攻撃しても誰にでも通じたけれど、「ほんとうにヒトラー一人が“悪”なのか?」という疑惑はしばらく前から出てきていて、<“悪”を作り出す構造>そのものが問題となってきた現状、それはまた形を変えて繰り返される・もしくはそれ以上のことになる危険性というのはいくらでもある、ということなのだ。 人間が欲望を持つ人間である以上は。
 うっ、おそろしい!
 最初はモノマネ芸人だと真剣に相手をしていなくても、人気が出ることで多くの人は注目し、結果的に彼の発言が(どのように受け取られるかはともかく)広く浸透していく。 そしてポーズとしての力強さ故に、ひきつけられる人が出てくる。
 わかりやすく直球的なフレーズは、面倒なことは考えたくない・さわりたくない人々によって大いに歓迎されていく。
 素晴らしき衆愚社会の誕生。

  帰ってきたヒトラー3.jpg テレビ局のプロデューサー、ベリーニ(カッチャ・リーマン)の存在は、ヒトラーにとってはあたかもレニ・リーフェンシュタールの再来のようである。

 『銀河英雄伝説』を紐解くまでもなく、衆愚政治よりは賢明なる君主における独裁政治のほうがずっといいという場合が多々あることは承知の上で、しかし賢明なる独裁政治が永遠に続く保証はゼロなのだから、人間の努力を信じて、たとえ遠回りでも民主主義がいちばんいい形である、という結論に長い歴史の中で人類は至ったはずなのだが・・・。
 「神は残酷だ。 しかしその残酷さは洗練されてきている」というようなことを書いたのはスティーヴン・キングだが、人間は洗練されてきているのだろうか・・・いや、以前よりマシになってきているのは確かだが、ある以上から先にはなかなか進まない・進めないような気がする(だから、時には後退しているようにも見えてしまうのだろう。 宗教対立は形を変えていつまでも続いているし)。
 アイヒマン裁判における“凡庸な悪”、という評価は、人は誰しも同じ条件におかれれば同じような選択をしかねない、ということ。 つまり“絶対的な悪”というのは最初から存在しているわけではなく、コツコツと(?)積み上げていった結果、最終的にそういう形になってしまった、ということなのではないのだろうか。
 いくつかターニング・ポイントはあったかもしれない(その中のどれかがポイント・オブ・ノーリターンだったのかも)、でもたった一人の誰かの意志だけで最悪の道が選ばれることはない、はず。
 この歴史は過去じゃない。
 そう思い知らされるのが、とてもおそろしい。

ラベル:映画館 外国映画
posted by かしこん at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 movie | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする