2016年07月15日

二重生活

 うわっ、なんか、哲学やる人って変なやつだと思われる!
 全体を通しての印象は、まずそれであった。 なんか、かなしい。

  二重生活P.jpg 理由なき尾行、はじめました。

 ある大学院(哲学専攻・修士課程)に通う珠(門脇麦)、実存(「なぜ人間は存在するのか、何のために生きるのか」)をテーマに修士論文を仕上げなければならないのだが、自ら「これまでなんとなく生きてきたので・・・」と言ってしまうようなタイプである彼女は、論文のとっかかりが決まらずに悩んでいた。
 そんなとき、指導教官の篠原(リリー・フランキー)から修士論文の調査手法として、「知らない人を尾行してみたらどうですか。 勿論、尾行する相手と接触してはいけません。 それであなたが何を感じるのか、楽しみにしています」と言われ・・・その場で了承することはできなかった珠だが、大きな書店で『探偵術のコツ』みたいな本を立ち読み、尾行の際の注意点などを学習してみる。 ちょうどそこではある作家のサイン会が行われるときで、その場にいた出版社の人間らしき男は、珠が住むマンションの向かいの邸宅の主・石坂(長谷川博己)だった。 美しい妻と可愛い娘がいて、いかにも幸せを絵にかいたような家を密かに珠はうらやましく思っていたようで、とっさに彼を尾行することに。 それが修士論文のための研究という名のまったく新しい人生への一歩だった・・・という話。

  二重生活1.jpg そうして始まった「理由なき尾行生活」。

 「理由なき尾行、はじめました。」というコピーにつられて、さぞ意外なサスペンスにしてくれるんではないかと思ったのですが・・・ヒロインのキャラが不可解すぎてちょっとのめり込めず(別に共感したかったわけではなく、共感できないならできないでいいのである)。
 なんというか、大学院修士課程に進んでおいてまだそこで悩んでるのか!、とあたしが思ってしまい・・・彼女の<哲学をやる覚悟の無さ>にげんなりしてしまった、というのが正直なところか(あたし自身の「ほんとは哲学を専攻したかったのにできなかった・別の選択はそれはそれで面白かったので後悔しているわけではない」んだけど、自分が手に入れられなかったものを手にしているのに何もしない彼女に対する嫉妬、でしょうか)。 彼女が学部生ならまだわかるのですが。
 なので若干時代遅れ感が否めないというか、ただ、旧態依然とした問いの繰り返しを飲み会で年をくった男性院生たちが繰り広げているのを、若い女性院生がすごく醒めた目で見て「ばかみたい」的な発言をするのはちょっと笑ってしまった(新しめの視点としてはそれくらいか)。
 旬の女優・門脇麦を使いたくて仕方ありませんでした!、というのがいちばんの制作動機だったのではないのかな、と勘ぐりたくなるというか・・・哲学をエンターテイメントに引き込もうとする姿勢はいいんだけど、その試みはいまいちうまくいっていなかったかもな、という気がしないでもない。 ミステリというか、映像におけるホラー的仕掛けのほうが地味に効果を挙げてしまい(とはいっても核心をついているわけではない)、焦点がぼんやりとしてしまった印象。 おかげで、カップめんのふたを全部はがしていない状態で食べ始めているのに、次のカットではふたは全部はがされテーブルの上、しかしまたその次のカットではふたは元に戻っている!、というどうでもいい<つなぎのミス>が目立ってしまって困る、という結果に。

  二重生活2.jpg 普通に同棲してます、とマンション管理人(烏丸せつこ)も把握。 実は管理人さんの鬱屈は点描されるだけだが相当深そう。

 そもそも「見た目が地味めな女の子、でもやることはやってます」という発想自体が古いおっさんの価値観、という感じがしてしまい・・・観ていてなんだか麦ちゃんがかわいそうになってきてしまいましたよ(ほんとに地味な子は地味だから! 本人はそれで普通と思っているから。 この映画の彼女は“あえて狙わされた地味感”をまとわされているようで、つらかった)。
 珠の世間知らず度は繰り返し描かれる。 尾行初日、SUICAのチャージがたらずに改札でもたついたのに、後日タクシーに乗った石坂を追い自分もタクシーを止めたはいいけどがお金が足りるかと財布を確認したり。 一回失敗してるんだからそこは準備ちゃんとしておこうよ!、である。
 他にも、同棲中のゲームデザイナーの彼(菅田将暉)に嫌われたくないから基本媚びの入った上目遣い、どこまで言っていいのか言葉を探す数秒の間、など、すごくイライラする。

  二重生活3.jpg なんだかんだでやっていることは素人なので結局尾行はばれる・・・長谷川博己も絶対プライベートになにか秘密を抱えてそうなイメージの役だし。

 子供の頃のトラウマから他人に心を開けない・あるがままの自分を認めてもらうのが怖いから、相手が期待するであろう姿を演じる、という生き方の痛々しさは伝わってくるのですが、なにしろ底が浅すぎる・・・。 そりゃ同棲している彼もあきれてきちゃうよな、と納得。
 むしろ、自分で答えを出せない・人に答えを出してもらいたがってしまうような彼女が何故哲学を選んだのか、という理由のほうが重要なような気がするのだけれど・・・(そんな自分を克服したい!、という強い気持ちも見られない)、原作読むしかないのかなぁ。
 またおいしい役を持っていくずるいリリー・フランキーは、人生を哲学に捧げたものの、自分には何も残っていないと絶望をまとう教授を覇気なくローテンションで好演。 でも個人的なことに事実を矮小化し、幸福や不幸を考えてしまうのは哲学研究者として失格だと思うのだけど。
 壊れた人たちが紡ぎ出す、壊れた物語。
 壊れていない人は早々に撤退するのがいちばんですから(壊れた人たちに近づいてはいけません、巻き込まれますよ)、という話だったのかもしれない。

ラベル:日本映画 映画館
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2016年07月14日

ふきげんな過去

 これはチラシに、いかにも特別(友情)出演的にシティボーイズの三人の名前が載っていたので。 彼らのファイナル(?)公演の作・演出を担当した劇団『五反田団』主宰の前田司郎による脚本・監督作品です。

  ふきげんな過去P.jpg たかが 夏の冒険

 東京・北品川。 家族で食堂を営んで生計を立てている一家の長女は女子高生の果子(二階堂ふみ)。 食堂の準備には近所に住む親戚や料理長などが参加するので家はいつもにぎわっている。 小学生のいとこのカナ(山田望叶)も、いつも果子にべったりで、果子の部屋で宿題をするのが日課だ。 繰り返される、意味の見つけられない日常に果子はげんなりしている。
 しかしある日突然、18年前に死んだと聞かされていた伯母の未来子(小泉今日子)が食堂に「私、生きていたのよ!」と現れる。 果子にはよくわからない事情で前科持ちの逃亡犯である未来子の出現に周囲はうろたえるが、ひとまず人目につかないようにと果子の部屋で寝泊まりすることに。 「そんなのイヤ!」という果子の反論は採用されず(他に部屋がないという物理的な理由)、果子のふきげんさはますます強くなるばかり。

  ふきげんな過去2.jpg たいして広くもない部屋はこんな感じに。
   「この部屋でたばこを吸わないで!」と果子は更に声を荒げることに。

 二階堂ふみに機嫌悪い役やらせるとほんと似合うなぁ、と実感。
 『ふきげんな過去』は“ふきげんな果子(かこ)”と、未来子にとってのふきげんな“過去”とのダブルミーニングか。
 「退屈のあまり死にそう」と果子が言うように、特にこれといった出来事は終盤近くまで起こらない。 弾丸のような言葉遊びを含む台詞の応酬でそこまで引っ張るけれど、だからといってものすごい大事件が起こるというわけでもなく(でも大事件だったのかな・・・映画の中の価値観基準では大したことではないように思えてしまったから)、それでもほんのちょっと、果子が不機嫌さから脱する一瞬があり、そこに向かうための青春映画だったんじゃないかな、という気がしている。
 果子の70年代風レトロファッションがかわいいんだけれど、未来子が過去に携わった犯罪が爆弾がらみだったり、映画的にもはっきりと時代は設定されていなかったので、実は70年代レトロではなく、リアル70年代だったのかも。

  ふきげんな過去1.jpg 未来子お手製の爆弾の処理に立ち会う三人。
   よく考えたら結構すごいことだが、劇中では緊張感もなにもあったもんじゃなかったのがシュールだ。

 まだ若い、これからの人生が長いほうが果子(かこ)という名前で、18年前という時間の中に取り残されている方が未来子(みきこ)という名前だなんて、なんとも皮肉。
 小泉今日子(あ、彼女は現在を表す名前だ)もまた、二階堂ふみとは違う種類の不機嫌演技(+けだるさ)が似合ってしまっているので、もうこのキャストありきの映画だったのかな、と思う。 この二人とカナちゃんの三人のシークエンスが多かったしね。
 そしてやっぱりシティボーイズのお三方は、特別出演レベルでした(大竹さんに至っては果子の亡くなった祖父、という遺影だけのご参加。 まともに台詞があったのは―それでもろくな台詞じゃなかったが―きたろうさんだけ、斉木さんは通りすがりのご近所さんでした)。
 でもこんな東京のすっきりしない下町感には、ちょっと懐かしさを覚えてみたりして。
 やっぱり“舞台っぽさ”はちょっとあるんだけど、実際に川の水の流れが目に見えるかどうかでずいぶん印象は変わってくる。
 この物語には川が絶対必要だった。 だから映画だったのかなぁ、と思う。

ラベル:映画館 日本映画
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2016年07月13日

帰ってきたヒトラー/ER IST WIEDER DA

 こんな映画をドイツが作っちゃうとは、やはり時間が流れているんだなぁ・・・としみじみ。
 ま、しみじみするような映画ではないのですが、コメディとしてどう扱うのか興味があり・・・結果として半端ないホラー映画を観てしまったような気持ちで帰途を辿ることになりました。
 思い返しても、ぞっとします。

  帰ってきたヒトラーP.jpg 21世紀の諸君、お待たせしました。

 アドルフ・ヒトラー(オリヴァー・マスッチ)が突然、現代にタイムスリップしてくる。
 勿論本人はそのことはわかっていないし、まわりの人々は彼をモノマネ芸人だと思っている。 その人気っぷりに、予算削減のためテレビ局からクビを切られたばかりの駆け出し映像作家ザヴァツキ(ファビアン・ブッシュ)は「これは当たる!」と踏み、見切り発車でヒトラーを連れてドイツ全土を渡り歩いて町の人たちとの会話を撮り、YouTubeにUPして一発逆転を狙うという目論見がお互いの利益と一致し、彼はマネージャー役もやるようなことに。
 が、状況がわかるにつれ、自分一人が未来にいて、ヒトラーの目指した野望ははるか昔についえたことを知るのだが、しかし彼はヒトラーその人であり、時代が変わろうとも考え方を変える気はなかった。 むしろテクノロジーの発達を、新たなプロパガンダの道具にできると考えていて・・・という話。

  帰ってきたヒトラー2.jpg タイムスリップの理由や理屈など一切説明はないが、それは映画のテーマ的にはどうでもいいことである。

 結局のところ、ドイツも経済的なゆとりがなくなり、EUによる移民自由化のあおりを受けて(そのへんはイギリスと同じ問題なんだよなぁ)、格差社会の増大により庶民の不平は膨れ上がるばかり。 だから排他的になり、「自国民」というわかりやすい指標で判断されてしまうことになる。 モノマネ芸人と思っていても“ヒトラー”を前に結構危険な自説を述べる普通の人たちの姿はかなり刺激的。 でもネオナチからはヒトラーは歓迎されていない(偽者だと思われているから?)というのは皮肉な話で、むしろあまりおおっぴらに主義主張を訴えない方々のほうがブームに盛り上がる構図があり、「そういうところも、なんか日本人と似ている・・・」と思ってしまった(ヨーロッパの中では勤勉さや融通の利かなさなど、ドイツが日本と国民性が似ている、らしいので)。
 冒頭、ドキュメンタリー的ひとコマがはさまれる。
 それが実は甚大な効果を生んでいて、笑いを提示すると同時に低予算の本気じゃない感を滲ませつつ、こっちの油断を突いてくる。 だからその後、ザヴァツキとのゲリラ撮影っぽいロードムービー展開も<ドキュメンタリー的効果>に見えるし、実は合間に特撮やら高画質映像(?)やらもあるんだけれど、それらが浮くこともなくひとつの世界観に収まっている、というのがすごい。
 だから実際の映像(ほんとのドキュメンタリー)が特に終盤、畳み掛けるように入ることで、言い様のないリアリティを醸し出しているのです。

  帰ってきたヒトラー4.jpg いつしかバラエティ番組だけでなく、マジな討論番組にも出演してしまうように。

 無名だけど実力派、という難題をクリアしてキャスティングされたオリヴァー・マスッチ氏、勿論ヒトラー姿はメイクで素顔はまったく違うのでしょうが、チャレンジングな撮影だっただろうなぁ・・・と思うと町での撮影部分は思い返してみてもハラハラする。 憎悪犯罪的なことが起こってもおかしくない状況だったと思うし。
 「ヒトラーといえば全世界における大悪人」として、どんなたとえに出しても攻撃しても誰にでも通じたけれど、「ほんとうにヒトラー一人が“悪”なのか?」という疑惑はしばらく前から出てきていて、<“悪”を作り出す構造>そのものが問題となってきた現状、それはまた形を変えて繰り返される・もしくはそれ以上のことになる危険性というのはいくらでもある、ということなのだ。 人間が欲望を持つ人間である以上は。
 うっ、おそろしい!
 最初はモノマネ芸人だと真剣に相手をしていなくても、人気が出ることで多くの人は注目し、結果的に彼の発言が(どのように受け取られるかはともかく)広く浸透していく。 そしてポーズとしての力強さ故に、ひきつけられる人が出てくる。
 わかりやすく直球的なフレーズは、面倒なことは考えたくない・さわりたくない人々によって大いに歓迎されていく。
 素晴らしき衆愚社会の誕生。

  帰ってきたヒトラー3.jpg テレビ局のプロデューサー、ベリーニ(カッチャ・リーマン)の存在は、ヒトラーにとってはあたかもレニ・リーフェンシュタールの再来のようである。

 『銀河英雄伝説』を紐解くまでもなく、衆愚政治よりは賢明なる君主における独裁政治のほうがずっといいという場合が多々あることは承知の上で、しかし賢明なる独裁政治が永遠に続く保証はゼロなのだから、人間の努力を信じて、たとえ遠回りでも民主主義がいちばんいい形である、という結論に長い歴史の中で人類は至ったはずなのだが・・・。
 「神は残酷だ。 しかしその残酷さは洗練されてきている」というようなことを書いたのはスティーヴン・キングだが、人間は洗練されてきているのだろうか・・・いや、以前よりマシになってきているのは確かだが、ある以上から先にはなかなか進まない・進めないような気がする(だから、時には後退しているようにも見えてしまうのだろう。 宗教対立は形を変えていつまでも続いているし)。
 アイヒマン裁判における“凡庸な悪”、という評価は、人は誰しも同じ条件におかれれば同じような選択をしかねない、ということ。 つまり“絶対的な悪”というのは最初から存在しているわけではなく、コツコツと(?)積み上げていった結果、最終的にそういう形になってしまった、ということなのではないのだろうか。
 いくつかターニング・ポイントはあったかもしれない(その中のどれかがポイント・オブ・ノーリターンだったのかも)、でもたった一人の誰かの意志だけで最悪の道が選ばれることはない、はず。
 この歴史は過去じゃない。
 そう思い知らされるのが、とてもおそろしい。

ラベル:映画館 外国映画
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2016年07月12日

不思議なキジのサンドウィッチ/アラン・ブラッドリー

 化学大好き少女・フレーヴィアシリーズ、第6弾。
 前作『春にはすべての謎が解ける』の衝撃のラスト一行から、今作はタイムラグなしで同じ一行から始まる。 このシリーズで今まで、そんな構成はなかった!
 ということは今作はシリーズの中でもターニングポイントというか、重要な位置にあるってことなんだろうな・・・7作目ではもうフレーヴィアは12歳になっちゃうのかも。
 11歳、最後の冒険、かぁ。
 <衝撃のラスト一行>について語ると前作のネタバレになりそうだし、更に今作のネタバレにもなってしまうので説明ができません。 あらすじ紹介も難しい。

  不思議なキジのサンドウィッチ.jpg どんどん原題と邦題がかけ離れていきますが、邦題はこの路線で行った方がいいような気がする。 フレーヴィアの年齢と独特さ加減が強調される感じが。 ちなみに原題は“The Dead in Their Vaulted Arches”と、あまりかわいげがない。

 帯のコピーには、「フレーヴィア、ちょっとだけ大人になる」とありますが・・・ちょっとどころじゃなくて、大人にならなきゃいけなくなった感がありありと(だから次作ではもう11歳ではいられないんじゃないかな、という気がしたのだ)。
 しかも「第一部、完!」みたいな謎をまだまだ残しつつのいったんの終息、でも次なるステップありの展開には、大変続きが待たれます。
 でも読んでいて切なくなるのは、このシリーズの時代設定が1952年ということ。
 フレーヴィアの父親や庭師のドガーは戦争中に日本軍の捕虜になって、ひどい目に遭わされた過去があり、シリーズほぼ全作でそのことに再三言及される。 かつて日本も「鬼畜米英!」と言っていたのだからそれがそれぞれの国の立場なんだけど、21世紀に翻訳ものの中でそれを目にするのは、「当時は日本ってそう思われてたんだなぁ・・・」とどうしてもつらい気持ちになってしまうのです。 今となっては変えようのないことだけど。
 ともかくも、フレーヴィアの“宿命”が明かされた本作。
 ド・ルース家の奇妙さ、フレーヴィアと二人の姉の関係にもある種の答えが(そう思うとフィーリーとダフネもかわいそうになってくる)。
 やはり次作が待たれます。

ラベル:海外ミステリ
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2016年07月11日

今日は3冊

 蒸し暑い! 毎日これからも言い続けるでしょうがほんとにそうだから仕方ない。
 雨が降るならいっそ降ってくれればいいのに・・・。

  ジョイランド.jpg ジョイランド/スティーヴン・キング
 キングにしては珍しく、文庫オリジナル。 というのも夏に大作が出るらしいので、その前振り宣伝も兼ねて、といったところでしょうか(多分そっちは文庫ではなくハードorソフトカバーになりそうだし)。
 遊園地でアルバイトをしていた主人公の若き日々の回想。 そこに淡い恋と連続殺人犯が絡む、というミステリでありつつ『スタンド・バイ・ミー』的青春モノ、らしい。
 そういうキングの味わいって素晴らしいよね!、ってことで。 キング作品にしては400ページぐらいという分量もほどよい感じ。

  緑衣の女文庫.jpg 緑衣の女/アーナルデュル・インドリダソン
 『湿地』に続くアイスランドミステリの巨人の作品。 ガラスの鍵賞+CWAゴールドダガー賞をW受賞という北欧ミステリとして最大の賛辞を受けております。 実は図書館でハードカバー時にすでに読んでおりますが・・・このシリーズは文庫で持っておきたいの(また装丁も、文庫は文庫で統一感があるのです)。

  ハイライズ.jpg ハイ・ライズ/J・G・バラード
 帯を見て、「え、『ハイ・ライズ』って映画になるの?!」と驚愕(あたしがいつも行っている映画館では上映予定がないから知らなかったよ・・・)。
 <J・G・バラード、中期の傑作>ということですが・・・このあたりがあたしはいちばん好きかも。
 舞台は新築の40階建ての巨大住宅で、その中にすべてがあって、階層がそのまま生活レベルの階層にもなっている・・・というのがSFなのですが、2016年現在、40階建てで2000人が住むなんてマンション、都市部には普通にあるよね・・・。 そこはSFが現実に追い越された、もしくはバラードの先見の明が証明された、ということなんでしょう。
 これまたそんなに厚くないので、読み始めてしまうのがもったいないぜ。

ラベル:新刊
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2016年07月10日

それにしても投票率、低いね・・・。

 何故か子供の頃から、選挙特番が好きだった。
 徐々に変わっていく内容をリアルタイムに伝えてくる、という番組が、当時はそれしかなかったからかもしれない。 大きな事件や事故があれはその限りではないけれど、そういうことは起こってほしくないから。
 ネット環境が一般的になり、“リアルタイム”もまたごく普通のことになったけれど、選挙特番を見てしまうあたしの習慣は変わらない。
 ずっと各局をザッピングしてきていましたが、ここ数年は池上さんの番組一択。
 番組を見つつ、ワイプで出る当選者(当選確実予想者)のワンポイントプロフィールも見逃せないので最初の頃はおおいそがし。 まず、各党代表は出身大学名と経歴などが出るのだけれど、小沢一郎だけ渡り歩いた政党名が矢印で羅列されていてうけました。
 そう、このプロフィールが面白いのですよ。 ここでつまんないこと書かれてる人がいると「残念だな」って思う。 なにかエピソードなかったのか! せっかくのチャンスなのに、もったいないぞ!
 まぁ池上さんはどんどん意地悪になってきているというか、「視聴者が知りたいだろうと思うことを訊いているだけですよ」と涼しい顔をしているが、ちょっとでもメッキをはがしてやろうというのがどんどん露骨になってきていて、政治家側も言質を取られまいと慎重にはぐらかすのでときどき噛み合わないことになっており、面白くない(というか、意味が通じないから)。 となると新人や当選回数の少ない人が血祭りにあげられることになるものの、所詮言う中身が少ない(もしくはない)のでこれまた面白くない。
 やっぱり一回目のときがいちばん面白かったなぁ。 政治家側は油断してたし。
 勿論、ジャーナリスト側としては、政治家たるものいつどんな質問をされても責任の持てる発言をすべし、ということなんだろうし、視聴者としてもそう思います(そういう覚悟のない人に政治家をやられても困る)。
 それでも今回もときどき「おや」と思わせる会話もあって・・・今回の収穫は「外務省の職員には創価学会員が多い」あたりではなかっただろうか。
 不思議なんだけど、世界平和のために外務省に入る?
 外務省は日本の国益優先なんだから、目指すなら国連とか世界保健機構とかなんじゃないの? そのあたりになにかぞわーっとしたものを感じてしまいましたよ。 あたしは特別に陰謀論者などではありませんが、時間と人が揃えばある程度のことができるということがわかるトシにはなってきましたからね・・・。
 あ、鈴木宗男には「北海道ではいまだに土下座が通用する土地柄なんですか」的につっこんでほしかったかな。 時代遅れじゃないですか路線で攻めるよりも。
 とりあえず与党現状維持、という結果ですが、積極的選択というよりも、「野党もなんだか結局あてにできないよね・・・」という消極的選択である感じ。
 それにしても「選挙権を18歳から」が議題にあがってからしばらくかかりそうだな・・・と思ってたけど、進むとなったら一気に進んじゃうんですね! それがいちばんのびっくりだったかも。 でもそういう試験的な感じのときって、大体参議院選挙からよね。

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2016年07月09日

64−ロクヨン 前編/後編

 もう『64』のことはいいかな・・・という気がしないではないのだが(すでに旬を逃した感じ)、そうも言ってはいられない。 一応、記録は残さなければ。
 とはいえ、大ヒットした(している)ようでよかったです。
 確かにあたしの身近でも、普段あまり映画に行かないという方々でも『64』には興味津々という感じがうかがえたり(実際に観に行った人もいたですよ。 原作も読まず、NHKのドラマも観ていないという人でも)。 ある意味、ブーム?
 日本映画でこういうお祭り感のある作品は珍しいので、映画業界底上げの意味でもそれはいいことかと。 前後編二部作なのはどうとか、原作が横山秀夫最高傑作とか、豪華キャスト勢揃いとか話題性はあっても結果を伴わないものが多い中、こうやって実際に盛り上がっているのは素晴らしいことだと思う(内容の出来不出来は別にして)。
 おかげでNHKドラマ版を録画したあたしのDVDはまだ返ってきてなくて、今も誰かの手元に(ちなみに原作は、今年のCWA賞インターナショナルダガー部門の候補の候補に挙がっているらしいと先日なにかの記事で見ました。 警察小説の本場ともいえる英国で評価されているというのも素晴らしいこと)。

  64ー1P.jpg 犯人は、まだ昭和にいる。
  わずか7日間でその幕を閉じた、昭和64年。その間に起きた少女誘拐殺人事件。
  通称「ロクヨン」。
  未解決のまま時は過ぎ、時効まで1年と迫ったある日、「ロクヨン」を模した誘拐事件が発生する――

 というわけでストーリーについてはキャッチコピーを参照(というか、自分でも改めて読んで「ここまで書いてあるのか!」ということに驚いた)、でいいくらい、だいたい興味のある方はご存知ですよね。 ということで割愛! 前編については別記事で感情中心にぶちまけていますので、そちらを参照ください。 そんなわけで『前編/後編』を通して<ひとつの映画>として見ていきたいと思います。

  64−1−6.jpg 前編で中心だった群馬県警広報室の方々。
 前編が三上(佐藤浩市)から見た時系列に沿った流れとするならば(だから前編はその中心に必ず三上がいる)、後編は「その間に三上以外の人たちが何をしていたのかが明らかになる」展開といえるかも。 とはいえ個人個人に深くフォーカスするわけではないので、群像劇と言えるほど有機的ではない、かも。 役者さんたちの演技にかなり頼った部分も見受けられる(ほんとは撮ったんだけど、カットした可能性もあるが)。
 それにしてもなんで前編と後編が、こんなにテイストが違う? ラストが原作と違う、という点をのぞいても。 前編であれほどしつこく描かれた“組織対個人”の構図、後編ではどこに? 誘拐事件解決のために、そこがぶっ飛んでしまったような。

 それで思わず、自分が以前書いた瀬々監督作品『ヘヴンズ ストーリー』の感想を読み返してみた。

>   そんな前半のスピード感、すごい。
>   一見無関係なように見えた人々がつながり、かかわっていく様子を
>  季節の移り変わりとともに詩的な要素も絡めつつ疾走していくのだから。
>   しかしインターミッション後の後半、その速度は明らかに落ちる。

 うっ、これ、そのまま『64』にも使えそう(実際には前編が結構しっかり描写したのに対し、後編はかなり駆け足感が否めないのですが)!
 しかもあの映画は、極端に言えば善と悪・被害者と加害者の立場は容易く入れ替わることがある、というテーマをはらんでいて・・・それって『64』のラストの変更にも影響があるんじゃないですか?!
 原作通りの終わりだと映画的なカタルシスが弱いから、ということだと思っていたけれど、それだけじゃなかったんだな。 そこは監督にとって譲りたくない<作家性>だったのかも(でも『ヘヴンズ ストーリー』よりも明らかに手法は洗練されてきたので・・・それは救いですかね)。

  64−1−1.jpg ある意味、“組織の中の個人”であることを三上はやめることにした、という生き方の話になっていた。 だからこそ彼が主人公であるともいえるのだが。

 よく原作者はOK出したな、と思えてしまうラスト改変ですが・・・“事件”ではなく“人生のそれぞれの生き方”をメインにとらえたらこうなった、と好意的に解釈すべきか?

  64−2P.jpg 映画史に残る傑作の誕生 慟哭の結末を見逃すな。

 ま、自分たちで「映画史に残る傑作」と書いちゃっているあたり・・・なんですが(勿論、これは宣伝部のお仕事でしょうが)。 この電話ボックスのポスタービジュアルは好きです。
 後編では緒方直人の瞬時に変わる表情の変化に度肝抜かれました。 あの場面だけでも助演男優賞に値するぐらいのうまさ。 最近彼をあまり見ていないような気がしてましたが、これだけの底力のある俳優をもっと使わないと!、と思わされて。 現在の売れっ子にばかりオファーが集中する流れはいろんな意味でよろしくないよな、とか考えてしまう(映画の場合は撮影時期から公開までかなり間が空くので、どうしても同じ俳優さんの作品が続けて出る、という印象になってしまうということもあるんだけど)。

  64−1−4.jpg 本来、慟哭するのはこの人でしょ。

 やっぱり後半が駆け足過ぎるのよね・・・(肝心のロクヨン事件の真犯人がわかる根拠もあっさりとした説明で過ぎてしまい、まぁそれ以前の描写でわかっていることではあるんだけれどミステリ的には些かアンフェア)。 だったら前編をもっと刈り込んで、3時間強の一本の映画にできたはず。 前後編にしたのなら、もっと深く描けたはず(だって前編って原作では前半3分の1ぐらいだし)!
 ・・・結局、そういうことになってしまうんだよなぁ。
 こちらが多くを求め過ぎてしまっているのでしょうか。
 多くの役者さんの熱演を観られたことは、これだけの顔触れが集まることはそうないと思うので、それはそれで満足ではあるのですが。
 あぁ、困った。 もっと盛り上がりたかった。 もっとガツンとしたものをくらいたかった。
 そんな消化不良感があるのは、やはり期待値が高かったせいでしょうね。

ラベル:映画館 日本映画
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2016年07月08日

探偵は壊れた街で/サラ・グラン

 いわゆる<女性私立探偵もの>というジャンルにくくられる内容ですが、裏表紙のあらすじによれば「クレア・デウィットはただの女探偵ではない」と宣言されております。 誰とも違うやり方で真相に近付き、うぬぼれではなく自分が最高の探偵だとわかっている。 そんな人の一人称、というところが気になりました。

  探偵は壊れた街で.jpg タイトルが『女探偵は――』ってなっていないところもいい。

 2007年のニューオーリンズ、クレアは依頼人から失踪したおじの捜索を頼まれる。 ハリケーン・カトリーナの傷跡がまだ色濃く残るその街では今もまだすべての機能は回復していない。 地方検事補でもある依頼人のおじはハリケーンで命を落としたのかもしれないのだが、嵐が去った後の目撃情報もありはっきりしたことはわからない。
 その街には思い出したくないことが多いクレアだったが、諸々の事情で引き受けることになり・・・という話。
 事件自体は特別珍しいことではないのだが、やはり独特なのはクレア・デウィット独自の探偵術。 フランスの探偵ジャック・シレットが書き残した『探知』という本に出会ったのがクレアが探偵になったきっかけだが、この『探知』が至るところに顔を出す。 そしてクレアもほぼ全文暗唱しているようで、ふとしたきっかけで『探知』の一節がよみがえり、それが新しい方向を示したり、彼女に確信を与えたりする。 必要ならば酒を飲みマリファナを吸い、銃も自在に操るし、占いや夢の結果も受け入れる。 すでに故人となった師匠コンスタンスの存在もまた、今も彼女に影響を与えている。
 古典的な探偵像(特に論理や証拠を重要視するタイプ)とはかなりかけ離れている。 一歩間違うと、結構あぶない人である(すでに過去に彼女と関わりを持った一部の人たちからはそう思われているようだが)。
 ニューオーリンズ描写もいろいろと痛々しい。 アメリカ社会の病巣は深い。
 全然違うのだけれど、あたしはキャロル・オコンネルのキャシー・マロリーのことを思い出した。 彼女は刑事だけれど一匹狼で、天才すぎて誰も彼女の行動についていけない。 あっちは三人称なのでよりマロリーの特異さと孤独が浮かび上がるのだが、もしもクレア・デウィットが一人称で語られなかったら読み手が受ける感覚は意外に近いかもしれない。
 夢に現れる行方不明の幼馴染の親友の存在とか、クレア自身にも(本作でもそれなりに描かれてはいるけれども)様々な謎やら傷やらがありそうです。 シリーズ2作目もつい最近邦訳出ましたし、独自路線を進む女探偵の登場を祝いたい。

ラベル:海外ミステリ
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2016年07月07日

マネーモンスター/MONEY MONSTER

 ジョディ・フォスターがこんなエンタメ重視の映画を撮るなんて!
 しかも素材は<金融>! ミニシアター系文化系女子というイメージを覆す暴挙(?)に、おののいたのはあたしだけ?

  マネーモンスターP.jpg 真実は生放送で暴かれる。

 セクシーな外見の魅力と緩急取り混ぜた巧みな話術で、株価予想や財テクの助言などをすることで人気の高視聴率番組“マネーモンスター”のMCを務めるリー・ゲイツ(ジョージ・クルーニー)は、いかに自分が影響力を持っているかということを最大限に利用し、生放送なのに思いつきでやりたい放題をすることでディレクターのパティ(ジュリア・ロバーツ)をはじめスタッフみんなを日々困らせ、手こずらせていた。
 だからその日、スタジオに見知らぬ男が侵入していることに気づいても、「またなにか、リーの仕込みか」と思ってしまう。 しかしその男は拳銃を持っており、リーの助言通りに株を買ったのに全財産をすべて失ったという報復にやってきたのだ。
 その男カイル(ジャック・オコンネル)はリーを人実に取り番組をジャックし、恨みつらみを募らせるが、なんとかその場を丸く収めたいリーとパティは、何故彼がそんな大損をすることになったのか、そのからくりを番組中に突き止める、と宣言してしまう・・・という話。

  マネーモンスター2.jpg こんなことになっております。
 当然、番組は生放送されているので、警察やFBIも動き出すし、他の局もニュースで“マネーモンスター”の状況を取り上げて実況する。 それを世界各国の人がリアルタイムで見られる、というのがまずひとつ。 金融も一社・一業種の崩壊で世界経済が大打撃を受けるように、情報の伝達もまた世界の一地区での出来事が(ニュースバリューの大きさに比例してだが)瞬時に全世界に拡散する。
 あ、value、それがすべてってことか、と納得してしまう。
 我儘で自分のアイディア優先の男性キャスターと、調整室を取り仕切る女性ディレクターという関係は、ドラマ『ニュースルーム』の構図ととてもよく似ている(この映画の場合は、二人が過去に恋愛関係にあったかどうかは示唆されていなく、むしろ単なる仕事仲間の域を出ていない可能性が高そうではあるが、根底にある信頼関係の深さは垣間見られる)。
 番組ジャックといっても犯人は一人、過激なテロリストでないことは早々にわかるので、被害者・加害者という単純な構図で物語は展開しないということもわかる(そのへんは割り切った『エンド・オブ・キングダム』とは正反対である)。 誰が正しい判断をするのか、正しい判断に基づいた行動ができるのか、むしろそれを問われているような気がしてしまう。

  マネーモンスター6.jpg カイルの破産の直接原因、アイビス社のCEOウォルト(ドミニク・ウェスト)とCCOのダイアン(カトリーナ・バルフ)。 ダイアンは主に広報を担当しているが、次第に「自分の知らないところで何かが起こっている」と不信を募らせる。 そこにつけこむパティとの関係性が見事。 この映画でいちばんのもうけ役は彼女だったのではないかしら。

 あと面白かったのは、番組内の映像と映画自体のカメラアングルの使い分け。
 警察から避難しろと言われても、番組のメインカメラマンだけは残り放送を続ける職人力(スタジオを出るとなったら即座に手持ちカメラに切り替える判断力!)。 そんな裏方のかっこよさを逃さないのも業界で長く生きてきた人ならではなのだろうか。

  マネーモンスター4.jpg アイビス社CEOに会いに行く二人。
 これは手持ちカメラの映像。 リーが犯人の影に隠れているのに撃たれないのは、リーの胸ポケットに爆弾のスイッチが入っているためで、あえてカイルを盾にすることで彼を守っているのである。 そのへんがリーの良心のあらわれというか、彼なりの責任感と同情心なのであろう。
 ジョージ・クルーニーには彼の派手めの時期のパブリックイメージを利用させ(結構無茶なことも当然のようにやるジョージの妙な真面目さが伝わってきて楽しい)、逆にジュリア・ロバーツからは女性要素を極力排し、<仕事のできる人間>という記号の中にほの見える人間性程度に抑えたのが、見たことはあるんだけどネームバリューには到底この二人に及ばない他の出演者たちとの画面上のバランスを取るための必然だったのかな、と思う(ジョージ=リーは映画内でもスターだから)。

  マネーモンスター5.jpg でもそんな地味なジュリア・ロバーツがすごくよかったんですけど。 最近の恋愛映画のヒロインよりもずっと。

 “現代の問題”を描いているけれど、ストーリー面で新しいことは特にないので、「どこかで見たことある」感が満載といえばそうなんだけれども・・・様々なそういう映画のエッセンスを取り込んで、現代版に仕立てました的な(ジョディ・フォスターが出ていた作品からはちょっと『パニックルーム』『インサイド・マン』を思い出した)。
 だから観ている間はハラハラしたりドキドキしたり、それぞれの登場人物に感情移入してみたりと息つく暇はないのであるが、観終わってしばらくすると・・・驚くほど残っているものが少ない、ということに気づく。
 それもすべて計算のうえでの、あえての<娯楽作>なのであろうか。 投資という実業を伴わない商売のはかなさをも示しているのであろうか。
 多分彼女の監督作品として最高のヒットになるであろう今作が、そんなことでよかったのだろうか。 その潔さもまた、とてもジョディ・フォスターらしいのだけれど。

ラベル:映画館 外国映画
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2016年07月06日

立ち退き催促・・・?

 ログインしたら、管理画面すべての上部に、

  【重要】BLOGari(ZAQ動画含む)終了のお知らせ

 という文言が赤い四角に囲まれて、結構なスペースを占領している。
 わかってるわよ! わざわざ念を押さなくても!
 写真をアップロードするときにいちいちスクロールしなくちゃいけなくて、大変邪魔。
 ・・・これって、悠長に更新してないでとっとと出て行けってこと?
 こっちにだって事情があるのよ! まだ引っ越し先決めてないんだから!
 ちょっと前からブログ画面にも<終了します>バナー?が出てたじゃない。 それでももうちょっと気分悪いってのにさ。
 まだ200日ぐらいあるんだから、もう少しデリカシーのある対応してよ!
 こっちだってなんにも考えてないわけじゃないのよ。
 なのに・・・ヤクザに地上げされる気持ちって、こんな感じなのかしら?

2016年07月05日

二ツ星の料理人/BURNT

 ブラッドリー・クーパーはキライじゃないが、あたしの目的はまたもやサポート役っぽいダニエル・ブリュールなのです! 料理もの映画も好きですし。 それだけで、前知識なく鑑賞。 そうしたら、オープニングクレジットに絶句。
 二人の他に、シエナ・ミラー、オマール・シー、ユマ・サーマン、エマ・トンプソンの名前が! しかも脚本はスティーヴン・ナイト、監督はジョン・ウェルズ! 何、この布陣! 料理同様、職人が集まってつくりました、みたいな感じですか?!

  二つ星の料理人P.jpg 本当の最高は、ひとりじゃできない。

 料理の腕は確かながら、生来の俺様体質が災いしてトラブルを起こし、キャリアをダメにした人気シェフのアダム・ジョーンズ(ブラッドリー・クーパー)はパリの二ツ星レストランから姿を消し、牡蠣の殻むき100万個を自らに課していた。 そしてそれが完了したとき、再び店を開こうとかつての友人で店主だったトニー(ダニエル・ブリュール)が現在いるロンドンのレストランに乗りこむ。 あれから3年がたち、失意のもとパリの店を閉めたトニーは父親がオーナーをしているホテルのレストランの支配人となっていたのだ。
 かつての恨みは忘れていないトニーだったが、アダムの料理の腕を信じているのもまた彼で、葛藤の末、トップシェフをアダムに任せることに(勿論そのために、アダムも悪知恵使いまくり)。 今度こそ三ツ星を狙うんだとかつての同僚ら最高のスタッフを集め、華々しく新店をオープンさせるアダムだが・・・という話。

  二つ星の料理人2.jpg トニーは支配人でありながら最高のメートル、という役どころ。

 常にスーツ姿なのがかっこいい! しかも、ダニエル、ゲイの役って珍しい!、とニヤニヤしてしまったならば、まだ登場してからちょっとしかたっていなく、具体的にそれと示す描写はまだなかったのだ(しばらくしたら控えめなのが出てきます)。 何故気づいたのだろう、あたし! そういう空気感をさりげなく漂わせる役づくりってわけ! うますぎるわ!
 ロンドンもかつての「料理なんておいしくない」という汚名を返上し(様々な国からの移民がいてその国の素材や料理が身近になったということも関係しているよう)、特に高級レストラン業界は世界に通用するレベルになっているようだ。 フレンチのトレンドの先端を走りすぎていないところもあたし的には好感が持てる(でも若干、お皿の上が地味かな・・・という気がしないでもない)。 とはいえ、追求すべき第一要件は味である。

  二つ星の料理人4.jpg 完璧主義なのは素晴らしいが、ものには限度というものが。

 自分の気に入らないからと調理台から料理の載ったお皿を全部払い落すようなシェフは、どんなにおいしい料理を出そうともあたしは好きになれないが(食材も食器ももったいない)、まぁそれがわかりやすく癇癪の発散を表す手段として使われてしまうのは仕方ないのかな。
 料理監修にマーカス・ウェアリングの名前があったので、「あぁ、モデルはゴードン・ラムゼイですか」と納得(『ヘルズ・キッチン』という過激すぎる『料理の鉄人』のような番組で、料理が気にいならければ皿を投げ落とし、若手シェフをこてんぱんにしていたからさ)。
 アダムの長年の宿敵リース(マシュー・リス)もまた、自分のほうが上だと思っていたのに、そうではないかもという危機感を前にすると店のテーブルを全部ひっくり返す。 リースのスポンサーが「シェフって人種はほんとに子供だな」とため息まじりに呟くのだが、職人というものは多かれ少なかれそういう部分はあるのかも。 自分の腕にそれなりの(相当の)自負があるからこそ、それが脅かされれば足元が崩れおちるような不安に襲われる。
 常に素晴らしい職人であり続けながら第一線のアーティストでもなければいけない、そのプレッシャーはいかほどのものか。
 ちなみにリースくん、あたしこの人絶対知ってる、しかも日本語話してたから海外ドラマに出てた・・・と一生懸命思い出していたら、ひらめいた! 『ブラザーズ&シスターズ』の三番目の弁護士の弟くんだ! 彼に再会できたのもうれしかった。

  二つ星の料理人3.jpg だからこそ、そんな自分を支えてくれる仲間がいれば、それは最高のチームになる。

 客としても、料理がどんなにおいしくてもお店の雰囲気がぎすぎすしていたらおいしく感じないし、同じぐらいの味のレベルなら穏やかで落ち着けるお店の方に行きたいですしね。
 ただ、ミシュランの星がすべてじゃない、とあたしは思う。 アダムは三ツ星を目標にしていたからそういう生き方のなってしまったのだが、星にこだわらなければもっと自由な料理人になったような気もするし、でもそういう目標があったからこそ高みを目指せたのかもしれないし、それは結果論ですが。
 すっきりさせない結論、けれど爽やかな幕切れ。 アメリカ映画なんだろうけど、まるでヨーロッパ映画のような味わい。
 まったくこの映画も、職人芸だぜ。

ラベル:映画館 外国映画
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2016年07月04日

もう負けました!

 ついにエアコンをつけてしまいました・・・。
 だって暑くて寝られない(ただでさえも寝付けないのに)、というレベルになってきてしまったから。 しかしエアコン慣れしていないあたしは、早速身体がだるくなってきております(ちなみに、寝ているときはエアコン切ります。 のどやられるし、だるさ倍増だし、寝る前までの冷えた空気の中で寝付くのが理想)。
 こちらの方々から見れば大笑いでしょうが、30℃越えたらアウトなんです、あたし。
 ちなみに、最初の「暑い」基準は22℃。 25℃を越えたら第二段階、28℃越えで第三段階(通常、このあたりが限界)。 30℃越えたら、もうそれ以上は一緒、という感じです。 湿気もつらいけど、高温もつらいわ・・・と言えば、「関西圏では神戸はかなり暮らしやすいとこ! 暑すぎず寒すぎず!」と怒られますけど、確かにそれはわかってますけど、あたしのメーターは北東北基準なんで許してください。
 それでも7月までエアコンなしでがんばった、ということで、自己満足です。

ラベル:季節もの
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2016年07月02日

オータム・タイガー/ボブ・ラングレー

 東江さんの訳本はもう残り少ないのだから大事に読まねば、と思っていたのに、読み始めたらもうダメだった。
 「ゆっくり読め!」と自分に言い聞かせているのに、気がつけば一気読み。 別に涼しい土地の話でもないのに! 恐るべし、東江一紀、恐るべし、ボブ・ラングレー。
 主人公のジャック・A・タリーは自分のことを何のとりえもないごくごく平凡な男だと思って生きてきた。 定年を4日後に控えたその日、彼の静かな生活は一変する。
 東ドイツ諜報機関の大物から亡命をしたいと申し出があり、その接触要員にタリーを指名してきたのだ。 意味がわからないままパリに飛ばされるタリー。 そこに待っていたのは30年以上前の出来事、終戦直前の記憶だった・・・という話。

  オータムタイガー.jpg <オータム>とは<人生の秋>を指す。

 そもそもタリーの現職はCIA第三部門本部長である。 若い頃は諜報活動に従事していたことはあるものの(当時は戦争中だから誰もが通らねばならない道のようなものだ)、その後は事務屋一筋。 が、待ってほしい。 自分は何のとりえも特徴もない男だと思っているやつが、そもそもCIAに入るのがおかしい。 彼の自己認識は他者とは違っている、でもそこがタリーという人物の面白さというか、奥深さになっている。
 で、物語は70年代後半から一気に1945年にさかのぼり、タリーの体験した“困難極まりない秘密指令”の話になっていくのだが・・・これがもうハラハラドキドキの連続で、だからこそ読むのが止められなかったのだ。
 東江節の特徴のひとつであるユーモアが抑えられているのにこんなに読ませられるとは、原文の緊迫感を違和感なく日本語にしているからか、もともとの物語の構成が素晴らしいか、きっと両方だろう。 連合軍側でもダメなヤツはいるし、ドイツ軍だからって全員が極悪非道ではないという描写も(甘っちょろいのかもしれないが)、21世紀から読めばフェアに感じる。 結構人がバタバタ死んでいるのであるが、読後感が不思議と悪くないのはそのせいもあるかもしれない。
 『北壁の死闘』も面白かったけど、これも素晴らしかった。 味わいが全然違う。
 ボブ・ラングレー、図書館で発掘しようかなぁ。

ラベル:海外ミステリ
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2016年07月01日

或る終焉/CHRONIC

 きっかけは、正統派ヨーロッパ映画的なポスタービジュアルと邦題から。
 でも主演はティム・ロス(だから台詞は全編英語)、監督・脚本のミシェル・フランコはメキシコの人! 予想を裏切る展開だが、第68回カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞しているらしいとなればあたしの感じた雰囲気はあながち間違いではないかもしれない。

  或る終焉P.jpg 孤独な魂が寄り添う――親密なる最期のとき

 デヴィッド(ティム・ロス)は終末期の患者のケアを専門とする看護師で、主に訪問看護が主体。 ときには24時間体制で勤務にあたることも(通常は交代制)。 多くを語らず、また患者になにも求めない彼は次第に、確実に患者との信頼関係を築いていく。 だが、その時間は濃厚であるが故に短く、デヴィッドはただひたすらに患者につくす。 ときに、それが常軌を逸しているかに見えるほどに。
 びっくりするほど説明がない。 それは不親切というわけではないのだが、BGMも特別な効果音もなく、あたかも固定カメラでの定点観測のよう。 ティム・ロス演じる人物の名前を把握するのにもしばらくかかった気がするし、序盤では固有名詞の重要度が低いように思われる。 彼がフェイスブックである女性の写真をスライド的に見ていくシーンがあるが、その女性が誰だかよくわからなかったので、あたしは彼が今介護している女性患者のかつての姿−成長過程、元気だった頃の様子を見て彼女への理解を深めているのかと思っていた(のちのち、それが彼の娘のものだとわかるのだが)。

  或る終焉2.jpg サラは自力で動くことも身体を支えることもできないので移動はいつもこんなふう。 そして彼は彼女に負担がかからないよう、大小様々なクッションを置く。 

 デヴィッドはとても献身的だ。あまりに献身的過ぎて、ときには患者の家族にあやしまれてしまうほど。 メイド文化があって「他人が家の中に入る」ことにそれほど抵抗がないように見える西洋でも、<家族の介護をしてもらう>というのは少し違うのだろうか。 自分たちがしないで他人にしてもらう、ということにひそかな罪悪感があるのか、だからそれが時として彼への敵意になってしまうのかもしれない(あとはテリトリー問題もあるかも)。 感謝している患者家族もいるしね。
 となると、何故そこまで彼は献身的過ぎるほどに献身的なのか、ということ。

  或る終焉3.jpg あるバーで、たまたま隣あったカップルが結婚したてで盛り上がっているので話しかけられる。 彼は今は亡き患者との思い出を自分の妻のものとして話し出す。 その患者の家族から「話を聞かせて」と頼まれても逃げ帰ったのに。

 じわじわと、映画が進んでいくごとに彼の孤独が染み渡ってくる。
 娘はいるが妻とは別れたので会ってはいない。 必要最低限プラスアルファの患者との会話以外、彼はだいたい一人だ。 勤務時間が過ぎるとジムのランニングマシンに向かって黙々とただ走る。 彼が眠っている姿は走っている場面よりもずっと少ない。
 彼もまた病んでいるのだろう、と感じてしまうのは、過剰なまでの患者への思い入れだけでなく、走ることで自分のペースを作ろうとしているのが見えることだ(一種の行動療法というかランナーズハイの状況にまで自分を追い込むことで一種の開放感を得、ストレスを解消しているというか、一旦自分を白紙に戻しているというか)。
 彼の献身が、彼自身の持つ心の傷の深さを現しているようで、なかなかつらい。 しかし彼はそんなつらさすら拒否しているような、忘れようとしてほんとに忘れてしまっているような。 彼の心の中が見えない。 だから患者の家族とトラブルを起こしてしまうんだろう。
 誰しも、そんな人は苦手なはずだから。
 しかし患者とのトラブルはない。 お互いの間に“孤独”を見ているから、二人の違いはただ病を得ているか否かだけで、多分誰よりもわかりあえた共犯だったのだろう(だからこそ、家族は許せないのかもしれないな)。

  或る終焉1.jpg 介護が必要な場面以外は、常に患者とはほどよい距離間(精神的にも物理的にも)を保っているように見えるし。

 自分だったらどうするだろう、といろんな人の立場に身を置いて考えることができるのもまた、高齢化社会が常識の日本では今日的な内容であり、リアルすぎて怖い部分もある。
 彼のように献身的に介護できる人間がどれだけいるだろうか。 介護を受けることに素直に感謝できる人間はどれだけいるだろうか。 そしてプロではなくあくまで家族が介護すべきだという発想から抜け出せない人たちはどれだけいるだろうか、などと(まぁ、それは日本の問題であってこの映画とは直接関係はない)。
 『或る終焉』、久し振りに秀逸な邦題だ。
 ラストシーンに訪れるのは、ほんとうに“或る終焉”だから。
 誰の身にもいつかは訪れる、でもいつ来るかはそう簡単にはわからない。
 でもその終わりはあくまでありふれている。
 人生って、恐ろしい。

ラベル:映画館 外国映画
posted by かしこん at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 movie | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする