入江悠監督、『ジョーカー・ゲーム』で(映画の出来云々はともかくとして)メジャー入りしたと思ったのに、またインディペンデント系に帰ってきちゃったのか・・・というのがチラシを見たときのあたしの第一印象。
劇団イキウメの前川知大の舞台劇を共同脚本で映画化!、というのは演劇好きには強いインパクトを与えるんだけど、物語的にはライトノベルにはよくありがちな設定っぽい気がするのに、その読者層に十分アピールできてないような感じがしてもったいないなぁ、と思っていたのだが・・・根本的に違う、ので納得。 未成年の若者たちは突然特殊能力に目覚めるわけでもなく、生まれながらに背負っていた宿命をいきなり知らされるわけもなく、何故か自分だけを愛してくれる超絶美少女が出現するわけでもない(あたし、ラノベに偏見ありですか?)。 未成年者たちは大人たちの知る情報から阻害され、「なんなんだよ!」とわめくことしかできない無力な存在に過ぎなくて、ただ地道に、成長の階段をのぼっていくしかない。
新型ウィルスの蔓延によってほとんどの人類が死亡、文明が一度途絶えたあとの世界。
人類はウイルスへの抗体を持った新しい人類ノクスと、たまたま感染せずに生き残った旧人類・キュリオとに分かれ、それぞれが仕切られた社会の中で生きていた。 老化しない肉体と優れた知能を持つノクスは支配階級として世界を牛耳っているが、太陽光に耐えられない彼らの活動時間は夜間のみ。 キュリオにはその心配はないが、貧しい村で文明の退行した生活を送らざるを得なくなっている。
過去にノクスへの反逆者を出したかどで経済封鎖をされ、ひときわ貧しい村で暮らす19歳の鉄彦(神木隆之介)はノクスに憧れて転向審査を受けようとするが、おさななじみの結(門脇麦)はノクスを憎み、キュリオの復権のために村の外に出ようとしていた。
あ、意外にSFタッチだ、と夜明け前の橋に走る光のラインを見て思う。 もっと低予算かと思ってた・・・すみません(いや、それでもそんなに莫大な予算はかけてないと思うけど)。
キュリオの村として描かれる風景はまるで終戦直後と311後の日本のオーバーラップ。なんだか胸が痛くなってしまった。 同じ土俵に上がっているといえれば差別で、そうでなければただの区別に過ぎないのか、と思わされる。 区別のほうがむしろ個人差の違いとして受け入れられると思っていたけれど(同じ高さにいる場合なら)、そうではないこともあるのか・・・それってもう絶対的といえる差別じゃん。
ただ、知能指数が極端に高い者は感情的な起伏に乏しい、という”天才像”はそれこそ眉村卓の『天才はつくられる』や『地獄の才能』のような価値観に通じるものがあり、親しみはあるんだけどちょっと類型的かな、という感じがしなくもない。 全方面に理性が働くとやっぱりそうなってしまうものなのかな。
脇役として存在感を発揮してきた古舘寛治さんが、今作ではほぼ主役とも言うべき立ち位置をしっかりとこなしており、脇役と一括りにされてしまいがちな役者の底力というものを観せていただきました。 だって『南極料理人』のときより明らかにぐっとうまくなっている感じがしたもん! 『ジョーカー・ゲーム』にも出てたから、入江監督も古舘寛治さんが好きなんだろう。 ぐっと耐え、状況を見て、ここぞというときを待つ。 まさに<大人>とはこういうことだ、みたいな人でした。
それに比べて村上淳演じる鉄彦の叔父さんときたら! 短絡的で感情にすぐ流され、悪いことは全部他人のせいと考えるようなろくでもないやつで・・・そのくせ自分はいっぱしのことをやっていると思い込んでいるから性質が悪い。 まさにムラ社会は世の中の縮図。 だからもう少しで成人になる人々の間にも差が。
なんというか・・・あまりかしこくない役をやっている神木隆之介が新鮮。 自分の気持ちをうまく表現できない分、態度が粗暴になりがちなんだけど(その分、表情が豊かである)、本質的にはよいやつで、人としての聡さは十分持っているので他の人たちから愛される存在、というか。 だから本来は理解し合えないと思われがちのノクスとキュリオの間に友情が育つ、ということの説得力になっている(勿論、門番の彼もいいやつだったからではあるのだが)。
彼はどんな大人になっていくのだろうなぁ、としみじみ考えさせられるのは、それがラストシーンにつながっていくから。 門脇麦もさすがの実力で、彼女もまたテレビドラマよりは映画の方でより輝くタイプの人だなぁ、と実感(だから結の変化は“現状の変わらなさ”の象徴であることがひしひしと)。 この<社会>を変えていくのは、支配する側・される側という立場を超えた関係性と人としてのつながりだと思えるから。
あー、そう考えると今日的というか、人間が数多く集まれば結局起こってしまう問題だということなのね・・・つらいわ。
でも、思った以上に大作だったな、という印象(『追憶の森』が意外に小品だったのでその反動でそう思ったのかもしれない)。 原作が舞台作品であることを意識させられなかったという意味では、映画としてきっちり成立したということでは。
自分で思っていた以上に、満足度は高かった。