2016年03月31日

キャロル/CAROL

 期待のしすぎはよくないことはわかっていたが、このスタッフ・キャストで期待せずにはいられようか。 だができるだけ平静を保ち、あえて原作を読まないで観た。
 読んでしまったら、多分まっさらに映画には向き合えないと思ったから。
 結果、とてもゴージャスな世界でありました。
 同じ監督の『エデンよりも彼方に』はあまりに色が人工的な総天然色すぎて目が疲れてしまうほどだった(ジュリアン・ムーアの完璧な美しさもあいまってどうしても作り物めいた印象を受けてしまった)けれど、同じ50年代を舞台にしたこちらは、ほどよく粗い画像を効果的に使いつつ、ノスタルジーとリアル感をミックス。 主演の二人の美しさをナチュラルに最大限に引き出し、ため息の出るような世界を構築していた。

  キャロルP.jpg あなたが私を変えた。

 1952年、ニューヨーク。 テレーズ(ルーニー・マーラ)はデパートのおもちゃ売り場でアルバイトをしているが、自分が何をしたいのかわからず、ただ日々を流されるように過ごしていた。 折しもクリスマス商戦真っただ中、混雑する店内で彼女は優雅で美しい女性と目が合って、今までに感じたことのない“なにか”を覚える。 娘へのプレゼントを探しにきたその女性キャロル(ケイト・ブランシェット)はテレーズのところにやってきて、探しているおもちゃを尋ねるが、あいにく品切れ。 テレーズの薦める商品を購入し、配達を依頼して去っていくが、ガラスケースには彼女の手袋が残されていた・・・。

  キャロル1.jpg 一目惚れってこういうことよね!、を見事に視覚化した場面。 ゴージャスさではキャロルにはかなわないけれど、テレーズの赤い帽子もかわいい。

 住所がわかっていたため、忘れものの手袋を自分の名前でクリスマスカードとともに郵送したテレーズ。 キャロルはお礼の電話をかけてきて、「お昼を一緒にどう?」と誘う。 それをきっかけに二人は頻繁に会うようになって・・・という、<恋の駆け引き>と呼ぶにはあまりにまっすぐすぎる行動になんだか胸がキュンとなります。 実際、テレーズは“恋”という自覚があるのかないのかわからないままキャロルに傾倒していってしまう急激な勢いをルーニー・マーラは非常に繊細に表現。 感情を抑制している方が美徳であるという時代のせいもあるでしょうが、激しい思いを押し隠しつつも隠しきれないというまっすぐなあやうさがとても美しい。

  キャロル3.jpg もともと機械的なものに興味はあったけど、本格的にカメラを始めるテレーズ。 それもまずはキャロルの姿を収めたかったから。

 テレーズの私服は若干やぼったいところもあるのだが、ルーニー・マーラが着たらそれすらもかわいいんですけど! あのジャケット、あたしが着たらただダサいだけだろうなぁ、と思わせるのは、やはりテレーズを演じるルーニー・マーラが美しいからです(外見的な美しさだけではなく、キャロルと出会ってから変わっていく自分が放つ内からの輝きというようなもの)。 あたしはテレーズがこの物語の主役だと思うなぁ(アカデミー賞では助演扱いになっちゃってましたが)。
 一方のキャロルはといえば、見かけは完璧そうに見えるが完璧ではない。 娘の親権をめぐって夫と離婚協議中、という恋愛相手にとっては最大の障害がある(この場合、女同志であることは障害ではなく、むしろキャロルの夫側にばれることによってキャロルが不利になる要因として描かれているように見えることが素晴らしい。 だって、それは異性相手であっても同じ条件だから)。

  キャロル4.jpg 二人の側に立って見てしまっているので、キャロルの夫が心の狭いちっちゃい男に見えてしまった・・・。

 勿論、ルイーズにも言いよってくる若い男なんかもいるわけですが、女性側の存在感(それはキャロルの幼馴染も含めて)が圧倒的なので、男性陣揃って影が薄い・・・。
 でもそれがこの映画なのだと思う、ひたすらに、テレーズとキャロルの物語。
 同性愛を扱った映画だから感銘を受けたわけではない。
 運命的な出会いをしてしまった人たちが、その“運命”に胡坐をかくことなく苦難に耐え、ときには投げやりになりつつも自分と相手とに誠実に向かい合い、たとえこの恋がうまくいかなかったとしてもこの先を一人で歩いていける、という“覚悟”が描かれていたからだ。
 恋愛は美しく楽しいものばかりではない、という残酷な真実を容赦なく、けれどそれを夢のように描いていたから。

  キャロル2.jpg キャロルのほうが大人であるので、より自制心が求められるが・・・その真意が100%相手に届くとは限らないし、けれど彼女の覚悟もまた多くの犠牲と引き換えである。

 あたしにはいわゆるLGBTとくくられるタイプの友人がいて、多分あたし自身もはっきり「これです!」と自信を持って自分の性的嗜好は言えないという意味ではそのジャンルに入る人なのかもしれず、萩尾マンガその他で育っているから(あ、江戸川乱歩や横溝正史にもそういう部分はあるよなぁ、今思えば)、おかげであまり偏見もなく、フラットに考えることができるからなのかもしれない。
 自分がなくなってしまうくらい相手を好きになってしまったからにはそれが正しく、世間の常識なんて関係ない。 そんな相手に出会えることは、とてつもない苦しさを伴うだろうけれど、けれど本人たちは幸せなのではないだろうか。 それだけの“想い”は誰にでも訪れることではないのだから。
 とても美しいラストシーンに辿り着くための、苦しくて至福の時。 思わずため息がこぼれるほどの。 けれど二人の人生にとってはまだ途中に過ぎなくて、ゴージャスに酔いながらも胸が痛くなる。
 あたしにとってはこれは、激しい感情を抑制しながらも背後には炎が燃えているような、明らかなこれ以上ない<恋愛映画>だった。

ラベル:映画館 外国映画
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2016年03月30日

今日は8冊(その2)。

 すみません、間があいてしまいました。

  星籠の海1.jpg星籠の海2.jpg 星籠(せいろ)の海/島田荘司
 実は間があいている隙に上巻を読んでしまったという・・・下巻も佳境、もう事件の内容は読めてきております。 ともあれ、きっかけは映画館でこの映画のチラシを見て(玉木宏がアップの)・・・堂本光一の名前がなかったのですよ。 「えっ、劇場版には石岡君は出ないの?! 原作には出てるはずでしょ!(だって御手洗さん国内最後の事件のはずだし)」と思って、つい確認したくなって。 だからって上下巻を買うことはなかったかもしれない、図書館でもよかったかも・・・何故なら、第一章の石岡君のあまりのふがいなさに情けなくて泣きそうになるくらいだったから。
 いや、もともとダメな人ではあったけど、ここまでだったか?!、と作品を読むたびに感じるというか、失望が深くなります。 『異邦の騎士』の頃が石岡君のピークだったのか・・・(残念)。
 だけど講談社文庫、紙質が変わったのか、厚さの割に軽いです(お値段は安くない・・・)。

  マルティンベック02煙に消えた男.jpg 刑事マルティン・ベック 煙に消えた男/マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー
 柳沢由実子さんによる<刑事マルティン・ベックシリーズ>新訳第3弾にしてシリーズ第二作。 かつては『蒸発した男』というタイトルでした。
 これまで『笑う警官』『ロセアンナ』と年に一作ぐらいのペースで出ていたのに、今回は15カ月以上待たされた。 一体何故!(個人的にすごくハラハラしてました、続きが出るのか出ないのか)
 とはいえ、翻訳計画は頓挫することはないようで、次作は従来と同じタイトルの『バルコニーの男』のようです。 あたし、この話がいちばん好き! 

  ラストワルツ.jpg ラスト・ワルツ/柳広司
 『ジョーカー・ゲーム』シリーズ第4弾。 すみません、ハードカバーが出ようとも、あたしはずっと文庫になるのを待っています。 しかし今回は戸惑った。 この表紙ならば「あのシリーズだ!」と一発でわかるのだが・・・(というか角川文庫における柳広司作品の表紙は同じイラストレーターの方)。

  ラストワルツ帯つき.jpg 平台ではこれで並んでいたのだった・・・。
 帯・拡大版。 どうも『ジョーカー・ゲーム』がアニメになるらしく、その告知を兼ねているのですが・・・一瞬、気付かなかったですよ(勿論、これをめくると上の表紙が出てきます。 これもなんかドキドキしたぜ)。

  ブラウン神父の無垢なる事件簿.jpg ブラウン神父の無垢なる事件簿【新訳版】/G・K・チェスタートン
 ハヤカワも<ブラウン神父>シリーズの新訳版に着手した模様。
 以前は『ブラウン神父の無知』だった(創元推理文庫版は確か『ブラウン神父の童心』。 こうやって出版社ごとにタイトルが違うのも、シリーズ5作あるというのも、あたしの子供時代におけるブラウン神父シリーズの混乱のもとだったと思う)。
 ここでは田口俊樹訳。 ちくま版と比べてみるのもまた一興。

ラベル:新刊
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2016年03月29日

女が眠る時/WHILE THE WOMEN ARE SLEEPING

 このチラシを映画館で発見したとき、「あれ、西島さん、劇場版『MOZU』のときにたけちゃんと共演できるのがうれしくてたまらないみたいなこと言ってたけど、こんな企画あったんじゃん!」と<大人の事情>というやつに若干いきどおりを感じなくもなく。 しかしそれもまた“お仕事”というやつなのだからして、いい大人であるあたしとしてはそこは流しておくべきだろうとわかっているのになんか気になる! おとなげない、です。
 だが、「もしかしたらこれ、結構急いでつくった?」という気がしないでもない出来上がり(撮影期間も短そう)。 意外にあれは、リップサービスではなかったのかもしれん。

  女が眠る時P1.jpg 覗かなければよかった。
    (このポスタービジュアルは結構好きです)

 作家として一作目で賞を取り、爆発的にヒットした健二(西島秀俊)だったが、二作目はさほど話題にもならず、三作目を書けない葛藤の中、就職を決めていた。 編集者でもある妻の綾(小山田サユリ)は自分の友人が務めるリゾートホテルで一週間の休暇を取ることしようといい、健二は乗り気ではなかったがやってきた。 ホテルに到着したその日、彼はプールサイドにいた男性(ビートたけし)と若く美しい女性(忽那汐里)の二人組にひきつけられ、明らかに親子ではないこの二人への興味がどんどん強くなっていく・・・という5日間の物語。
 多分季節は夏のリゾート地だというのにまったく暑さは感じられず、「沖縄とかじゃないな・・・伊豆か?」とつい考え込む(正解でした)。 あえて太陽光に暗めのブルーのフィルターをかけたような映像は、暑くもなく寒々しくもなく、なんともはっきりしない雰囲気をストーリー展開と同様伝えてくる。

  女が眠る時5.jpg そしてやけに雨も降る。
 答えらしきものは推測はできるけど、決して明確ではない、という意味では映画『複製された男』に少し似ているといえるかもしれない(テイストはまったく違うが)。
 男が作家である、というのがいちばんのひっかけなのよねぇ。 現実なのか幻覚なのか妄想なのか、に加えて「創作なのか」が入ってくるから(実際、彼がノートPCをたたいている場面あり)。

  女が眠る時3.jpg だとしても何故そこまで妄執してしまうのか。 「それ、ストーカーですよ!」と何度も声をかけたくなる。
 が、あえてすべてを放り出し、「お好きに解釈してください」に身をゆだねるのがきっとこの映画を観る上では正解なんだろうな、という気がする(一応、納得のいくような解釈もできないことはないけれども)。 原作はスペインの作家ハビエル・マリアスの短編小説だそうなので、多分原作からも大きく変わっているのではないか(だから原作を読んでもこの映画の理解の助けにはならなそう)。

  女が眠る時1.jpg プールサイドなのに揃って厚着。 服は心を押し隠す象徴か。
 たけちゃんは『MOZU』のときよりずっとイキイキしているというか、より自然体で、やけに楽しそうにやっている感じがするのが結構意外(外国の監督とのやりとりに刺激を受けているのか)。 それに比べると西島さんはいまいち精彩に欠けるというか、それは鬱屈しているという役柄のせいでもあるかもしれないんだけど、どうもいまいちなにかが足りない感じがしてもったいない。
 『MOZU』が振り切っちゃった役だったからですかねぇ。
 それにしても、リリー・フランキー、こんなところにも出てくるとは、なんかずるいぞ!
 『女が眠る時』と英題“WHILE THE WOMEN ARE SLEEPING”とは微妙にニュアンスが違う気がするが・・・女たちが眠っている間、男たちは何をしているのか、そして女たちは本当に眠っていただけなのか、という話だったような。
 そこには、「決して理解しえない男と女」という昔ながらのテーマが横たわっていたような気がします。

ラベル:映画館 日本映画
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2016年03月28日

サウルの息子/SAUL FIA(SON OF SAUL)

 デジタル放送の画面比9:16にすっかり慣れてしまった身としては、映画なのに3:4というのにはどうも納得できなくなってしまいました(昔の作品ならばともかく)。
 数年前の『アーティスト』もスクリーンの左右が無駄な空間に思えてなんだかイラッとしたし。 しかし、これは3:4でなければいけない映画だということが開始数分でわかるので、そんなイライラを感じることもなく(映画館も気を遣ってスクリーンサイズを3:4に合うようにしてくれていたという配慮のおかげもあるけれど、これは3:4でないと成立しない映画だったから)。 なるほど、と山ほど賞を獲ってきた意味もよくわかる、確かに審査員ならば賞をあげたくなる映画だなぁ、と感じ入るのであった。

  サウルの息子P.jpg 最期まで<人間>であり続けるために――

 1944年10月、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所。 ハンガリー系ユダヤ人のサウル(ルーリグ・ゲーザ)は、ガス室などで次々と処分される同胞たちの死体処理をする特殊部隊“ゾンダーコマンド”として、ナチスの監視のもと黙々と作業にあたっていた。 今はこうして仕事を与えられ、生きながらえていられるが、ゾンダーコマンドたちも数カ月後には処分される運命にある。 そんな中、サウルはガス室で生き残ったある少年を見(結局その少年はすぐに死んでしまい、ナチスは少年の解剖を命ずる)、彼にユダヤの正式な弔いをしてやりたいと密かに奔走する、そんな二日間の物語。
 「ホロコーストを描き、ユダヤ人は常に被害者という物語を発信し続ける時期は過ぎた。 それでも描くのならば、それ以上の何かがなければ意味がない」というようなことを言っていたのは誰だっただろうか。 この映画は、それ以上の何かです。

  サウルの息子3.jpg 全体のほぼ8割以上、こんな感じで顔中心。
 ほぼサウル、もしくは他の人物の胸から上のクロースアップで構成されるこの映画、顔にピントを合わせてあるため背景がぼやけるので、実はとんでもないものがそこにはあるんだけど(ガス室で倒れた数多くの全裸遺体とか)、よく見えない。 それはサウルが見ないようにしているからからかもしれないし、映画としてその残酷さを強調し過ぎたくないからかもしれない。 だからこその3:4なのである(いくら顔のアップにしても、9:16では背景が映り込みすぎてしまう)。
 ほぼ説明なし、サウルの独白もなし、少し客観的な位置を取るドキュメンタリーでもない、観客はわけもわからずその中に紛れ込まされてしまったかのような気持ちにさせられて、緊張感この上ない。 感情的でも感傷的でもないし、わかりやすい映画では決してないし。
 けれど、ぐいぐいと胸をえぐってくる。
 で、結果的に救いがあるとか問われれば、あるような、ないような・・・(あるんだけれど、あまりにささやか過ぎてさ・・・)。
 いや、あの時代においてはそれはささやかなものではなかったのかも。
 こういう映画がハンガリーから出てくる、ということが、旧ソ連の影響から脱してきたという証拠にも思えて、なんだかうれしいのは何故だろう。
 内容は全然、うれしい内容ではないのだが。

ラベル:映画館 外国映画
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2016年03月27日

怖いもの見たさ

 はー、なんかタイミングがあっちゃったというか、怖いもの見たさも手伝って、ちょっと見ちゃいました、『ストレンジャー』を。
 見る気は全然なかったんだけど、段田さん出てるしなぁ、と思って、彼のシーンだけちょっと見ようかと。 で、誰が脚本書いているのかも知りたかったので。
 そしたら鈴木秀勝と。 スズカツさんかい!、と驚いてお茶の入ったマグカップを落としそうになる。 スズカツさんなら『ポーの一族』を(たとえ原案でも)実写化するリスクは十分わかっていると思うんだけど・・・でも彼ならば単体で見たときにそれほどおかしいものにはなっていないのではないか・・・とはかない希望をつないでしまった。
 段田さんの台詞はすごくよかった。 きちんと『グレン・スミスの日記』だけを下敷きにした、と前もって言っておけば、あそこまで炎上しなかったのでは、と思うくらい全くの別物でした。 あー、よかった。
 ただオープニングとCMの前・後の映像、エンディングにバラの花びらが過剰に演出された退廃美を謳っていただけに、本編に耽美のかけらもないのがかなしいような、でもだからこそ別物として受け止められたような。
 この監督にはやはり『踊る大捜査線』のようなコメディタッチの作品が似合うってことで(退廃美は勉強して演出できるものではないということがしみじみわかる出来でした)。

ラベル:ドラマ
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2016年03月26日

今日は8冊(その1)。

 なんだか実感がありませんが、3月も終わりみたい!
 なんでこんなに時間が(というか期間が)過ぎるのは早いの・・・。

  とりぱん19.jpg とりぱん 19/とりのなん子
 『とりぱん』もついに19巻。 なんと連載500回、10周年だそうです。
 そりゃ、週刊モーニングに最初の頃載ってた「30代身の丈ワイルドライフ」というコピーから“30代”も消えるはずよね・・・。
 そして今回、表紙がツキノワグマ! 帯によれば鳥のネタがなくなったわけではない様子。 ま、今までクマに出くわさなかったほうが不思議よね〜。

  セケンノハテマデ04.jpg セケンノハテマデ 4/サライネス
 なんと最終巻とな! やっと個人のキャラが把握できてきたところだったのに。
 でもマツノキくん(『大阪豆ごはん』の松林くんのその後)が出てきてしまうと、バンドのメンバーの家族構成(とその性格等)が松林の姉たちにかぶってしまう部分があるので・・・なかなか難しい(それもひっくるめて「大阪人・関西人」ということなのかもしれませんが)。

  おにぎり通信3.jpg おにぎり通信 3/二ノ宮知子
 こちらもこれで最終巻とのこと。
 やはり子育てマンガは子供が大きくなるにつれ終わってしまう・終わらなきゃいけないものなのかもしれませんね。 成長するにつれてネタがなくなる(日常茶飯事なのでネタと感じなくなる)・成長した子供が読む、というのが想像するに大きな理由かと。
 そう考えると、子供が読んでいようが構わず続ける、実は半分以上フィクションである『毎日かあさん』の立ち位置とパワーはすごい、と感じるわけで。

ラベル:新刊 マンガ
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2016年03月25日

ドリームホーム 99%を操る男たち/99 Homes

 神戸の上映最終日ギリギリでシネリーブルへ駆け込む。
 つかれてる&体調いまいちの状況で寝ちゃったらどうしよう!、と思いつつ、しかしまったく眠たくなることなどなく完遂。 しかし観終わった後の気持ちはなんとも言えない、暗くて重いものだった。
 失業したシングルファーザーのデニス・ナッシュ(アンドリュー・ガーフィールド)は、銀行から借りたお金を返すことができず、自宅差し押さえを避けるために裁判所に異議申し立てをするが却下されてしまう。 猶予期間は30日以内、と言われたものの、銀行から通告された期日である翌朝、自宅を強制退去させられてしまい・・・という話。

  ドリームホームP1.jpg 一人は家族のために 一人は復讐のために 魂を売った

 時期的にはサブプライムローンの破綻真っ最中(いわばリーマンショック後)。 ちょうど『マネー・ショート』のあとという感じ。 でもこっちは金融用語はそんなにも出てこず、あくまでそれは“題材”で、映画としての本質は「金のために良心を売ることができるのか」であるような気がした。
 そこで登場するのが不動産ブローカーのリック・カーバー(マイケル・シャノン)。
 デニスの家を差し押さえる際に保安官たちと一緒に立ち会ったいわば銀行の代理人。 とはいえ彼は自己の利益を最大限に追求することが第一目標で、儲けのためには銀行でも裁判所すらもカモる。 いわんや一般市民をや、である。 そういう役をやらせるととっても輝くマイケル・シャノンだが、今回狂気っぽさはかなり控えめ(まぁ、そこが逆に怖かったりもするんですけどね)。

  ドリームホーム1.jpg リックはデニスを見込んで自分のところで働かせようとする。 悩んだデニスも背に腹は代えられず、仕事と収入がほしいからリックのもとへ。
 ダブル主演という感じなのだと思うけど(一応、アンドリュー・ガーフィールドのほうが主役という感じにはなってますが)、この比重が結構謎。 デニスは描写も多いし家を奪われてからの苦悩とかが中心になっているのだけれど、それまでの過去についてはほぼ不明。 息子はいるけど何故シングルファザーなのか、母親はどうしたのかなどは語ろうとしない。 それに対してリックは少年時代の話をしたり、「悪徳ブローカーとして堂々といられるのか」という根拠がしっかりと示されてる。
 「アメリカは勝者の国だ、負け犬に手を差し伸べたりなどしない」と言い切る姿は実にアンチヒーロー的で、どちらが主役かわからないほど。 デニスの過去をぼかすのは、これが誰の身にも起こりうることだということを強調したいからかもしれないけれど、借金抱えているのにタバコやめないとか、リックの仕事を手伝って小金が入ったからってすぐごちそう買ってきちゃったり、同じように家を追い出された人が集まっている格安モーテルに暮らしているというのにお金があることをまわりの人たちにすぐわかるような態度を取ったり・・・正直、とても賢いとはいえない(その単純バカっぽさを彼は非常にうまく演じているが)。

  ドリームホーム3.jpg その危機感のなさの積み重ねが家の差し押さえにまでつながったんじゃないのかという気もして、デニスに素直に同情できないのも事実。
 だからデニスが結局どのような選択をするのか、という覚悟の伝わり方が薄く、むしろニックのほうが潔い生き方みたいに見えてしまう理不尽。
 監督、脚本ともイランの方なので、アメリカ人にはストレートに描けないアメリカの非情さをあぶり出すことがこの映画の目的だった?
 しかし、その昔大学受験勉強に使っていた英語教材に、「アメリカ人は家を転々とすることに抵抗を感じない」的な例文があったんだけど(子供は18歳になれば家を出ていくし、仕事によって転居することもよくあることだから、的な)、やはり<郊外に家を持つ>というのはわかりやすい幸せの図式なのだろうか。 だから次々に「今よりいい家を」ってなっちゃうのかな。
 サブプライムローンの罠に引っ掛かってしまった人たちをこの映画は被害者として描いているけれど、銀行の口車に乗って必要のない改築をした・分不相応な家を買った、というような事実は変えられないからな・・・。
 タイトルにある99という数字は、「ノアの方舟に乗れるのは100人のうち1人だけ」と、「世界の富の25%を1%の人々が独占し、残りの99%は貧困である」という定義から。
 houseが家屋・建物としての“家”、homeが家庭・家族がいる場所としての“家”という受験英語的区別を思い出す。 houseがなければhomeも存在できないけれど、homeを犠牲にしてまでhouseを選ぶ必要はあるのか?
 お金持ちにはならなくてもいいけど、そこまでの貧困に陥らないように気をつけよう、という教訓でしたか・・・そうでも思わないと、家を奪われた人々(特に子供たち)の茫然とした瞳が忘れられない。 子供はなにも悪くないもんね! そういう意味では、説明を最小限に削ったのはドキュメンタリー度を高めるためだったのかもしれない。
 ・・・あぁ、重たいぜ。

ラベル:映画館 外国映画
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2016年03月24日

Limo チェリーリバー@ATAO

 一般的には「春財布は縁起がよい」などと言われますが(「春 → 張る」だから財布の中身が張っていく、という願いがこもっているらしい)、あたしは言霊信仰者ではありますが、あまり縁起は担がない。 というか、モノとの出会いはタイミングだから! 時期なんて選んでられねーよ、というのが本音であります。
 つまり、「また財布買っちゃったのかよ!」ということです。

  チェリーリバー1.JPG だってかわいかったのですもの・・・。

 Limoヴィトロと傾向は似てますが、もっと升目(といっていいのか?)は細かめ。
 桜の花びらが一面に散った川の流れ、というイメージらしいですが、あたしは玉砂利のようなものを敷き詰めて作ったどこかのお寺の参道に、色とりどりの桜の花びらが舞い落ちている、というふうに見えました。

  チェリーリバー2.JPG 裏面。 これも個体差激しい。

 在庫(そのときは4つ)全部見せてもらい、表裏すべてチェックして、いちばん気に入ったものを選びました。 正直、これの裏がいちばん最初に気に入ったという・・・あと、写真の都合でちょっと暗めにうつっていますが、実際のブラウンはもう少し薄めです(濃いめのものもありました)。 薄いピンクが多めな部分があれば全体的にベージュっぽく見えるし、「ひとつとして同じものはない」のが売りだとはいえ、選ぶのもまた大変難しい。
 自分の好みの配色がなかったら去るしかないもんね・・・。
 しかし、あったらあったで買ってしまうのだから困ったものである。
 あぁ、今月はコンタクトレンズも買うし、出費だ・・・。
 「でも最近カバン買ってないんじゃないの?」と言われそうですが、ここに載せてないだけで実は昨年春・秋も買ってます・・・。 近々白状いたします・・・。

ラベル:お財布
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2016年03月23日

今日は4冊。

 疲れがたまってきております。 季節・気候変動に敏感な体質故、へたに低気圧に停滞されても頭痛がする・・・。

  グランドフィナーレ文庫.jpg グランドフィナーレ/パオロ・ソレンティーノ
 原作はともかく、映画のノベライズ本を読む歳ではもうないだろう、とさすがに考えているあたしではあるが、これはパオロ・ソレンティーノ監督自らが書き下ろした原作である、と言われれば話は別。 音楽(とそれに関わる人々)と映画(もしくは小説)の相性もいいしね。

  87クロッカーズ08.jpg 87CLOCKERS 8/二ノ宮知子
 どう着地するのかなぁ、この話・・・と最初から思っていたけれどもう8巻。 脇キャラも増えてきて、まだまだ続きそうな気配が。 オーバークロックの基本はすでに説明済みなので、そのあたりが展開の邪魔をしなくなってスピード感が増してはいるけれど。

  白妖の娘1.jpg 白妖の娘 1/木原敏江
 木原敏江による<玉藻の前>・<九尾の狐>の新解釈!、と言われたらそりゃー読まないわけにはまいりますまい。 たとえどれほど残酷であろうとも、悲しさが先に立つ物語になるであろうことは想像がつくのですが、そして読んでいて大変つらい気持ちにもなるんでしょうが、それでも読みたいのであります。

  山へ行く.jpg 山へ行く【文庫版】/萩尾望都
 <シリーズ・ここではないどこか>連作の文庫版。
 フラワーコミックス版を持ってはいますが、何故買ってしまうのでしょう・・・。
 多分もう一回読みなおすことで、新たな何かを見つけてしまうからかな?(もしや書き下ろしかなにかあるかという期待もなきにしもあらず) 後半『メッセージ』は来月発売だそうです。

ラベル:新刊 マンガ
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2016年03月22日

ダイヤ改正後、初の朝

 阪急・阪神電車揃って19日から全面的にダイヤ改正!、であった。
 とはいえ、基本平日出勤のあたしにとって実質関係があるのは連休明けの22日(火)から。
 これまでも改正はあったが、朝の時間はそれほど変わっていなかったような・・・でもここまで告知に力を入れるということは変わっているかもしれない、と思い、最寄駅の新しい時刻表をもらっておいた。
 あ、いつも乗る電車の時間が、3分早まってる!
 3分と侮るなかれ、朝の3分は一日でいちばん貴重な時間といっても過言ではない。
 これに乗り遅れたら、その後の時間の電車の乗継がどうなっているかわからないから、絶対遅れられない!
 そんなプレッシャーの中、初めて新しいダイヤで乗りましたが・・・勢いあまって早く駅に着いてしまい、いつもの電車より一本前のに乗れてしまった。 ところが、次に降りた駅で乗り換えの出発待ちをしていたら、いつも乗ってくる電車が入ってきた!
 どっちに乗っても結局同じじゃん!(まぁ、先に乗ったほうが座れる可能性が高くなるという利点はありますが)
 とりあえず、3分早くなったいつもの電車に乗り遅れないように気をつけよう!、と心に誓った朝でした。

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2016年03月21日

2016年冬ドラマまとめ、一応

 気がついたらいろいろドラマが終わっている。
 録画しているがまだ観れていないものもあるのだが・・・いまのところの感想として。

相棒14
 もはやあたしは次のシーズンの“相棒”が誰なのかより、米沢さんが鑑識じゃなくなったことのほうが気になる! 途中で「冠城さんは杉下警部の相棒ですか?」と何度か訊いていたから、鑑識を一旦離れるのは米沢さんが自分で決めたことなのかと思っていたけど、最終回での言葉のかぎりではそうではなさそうだし!
 常に安住しない、動き続けるのが『相棒』とはいえ・・・暇課長さんが言っていた通り、「俺には米沢の代わりはできんぞ」なわけで・・・もし米沢さんが今後出てこないというのであれば、右京さんの半アームチェア・ディテクティヴ的推理は成立しなくなる。
 この穴をどう埋めるのだろう。

  ドラマ相棒S14.jpg 反町隆史は冠城亘というキャラクターを浮ついていないちゃらさでがんばって自然体で表現していたと思うが(「右京さん」と呼ぶのはちょっと早いんじゃないかという気はしたが)。
 峯秋さんもいまいち活かしきれていなかった感があるし、せっかく榎木孝明出てきたのに微妙な扱いだったし、トータルとしてなんかもったいなかったなぁ!
 むしろ、夕方に再放送していたシーズン9(神戸くん時代)のほうが楽しめてしまったのは何故?

ヒガンバナ
 これはなんとなく流し見。 女性をめぐる事件、捜査するのも女性(全体的にスタッフも女性が多かった感じがした)、なのに、なんか結局のところ類型的な女性の姿にばかりなってしまっているような気がするのが残念・・・。

スペシャリスト
 2時間ドラマ時代のは半分くらい見ていますが・・・なんか今回はこっちのほうが事件の種類や世界観的が『相棒』っぽかった。 新しく盛り上げたいドラマにベテラン脚本家を、ある程度固定客がいる安定枠で新人脚本家を修行させる、というのは長い目で見て確かに正しい戦略だが・・・。
 戸田山脚本にありがちな(それは君塚脚本もそうだし、わりと多いのだけれど)、名もなき“ネット上の悪意”がそのまま不特定多数の個人の行動に直結する、という展開はまだ今の日本ではいささか安易というか、どうしても浮世離れした感じになってしまうのが残念で(というか世間的にはこのままであってほしいが)。
 ドラマとしては引き続き続いてほしい気はします。

臨床犯罪学者・火村英生の推理
 これは窪田くん目当てで(彼がアリスなのはかわいすぎるだろ!、と思いつつ)。
 有栖川有栖の原作は初期の頃のはほとんど読んでいるのだけれど、アリスくんが作家に、火村先輩が学者になってからのはあまり読んでいなくて、その読んでいない範囲の作品が中心にドラマになっていたから見てもいい気になったのかも。

  ドラマ火村英生の推理.jpg BBCの『Sherlock』にかなりオマージュを捧げた、見目よろしい男子のバディ物はある種の女子にアピールすることを狙った作品でしたかね(原作のイメージに比べて、やっぱりドラマにしてしまうと雰囲気が軽くなるのは否めない)。
 何故二人が大学生時代の作品は読んでいるのに、その後はあまり読んでいないんだろう、と考えてみるに、どうもあたしの中で誤差が生じたからかもしれない。
 『月光ゲーム』から始まる作品群はアリスくんたちが遭遇した実話で、二人が社会人になってからの作品はベースが体験談かもしれないけれど、基本的には作家アリスの創作物なのかもしれないと感じるようになって(勿論、逆もあるかも。 もしそのへん、ファンの方には常識だったらすみません)。 火村先輩の微妙なキャラの違いが、その当時学生であったあたしにはすんなり納得できなかったみたいで。
 でも今回のドラマをきっかけに、また有栖川有栖作品を読んでみようかな、と思ってみた。
 そういう意味では、ドラマ化した意義がある、ということかもしれない。

家族ノカタチ
 あたしは結構面白いと思っていたけれど・・・視聴率いまいちと報道されていてかわいそう(『下町ロケット』と比較されてもね・・・)。
 他人としてみるといい人だけど、それが自分の家族だったらすごく鬱陶しい、というのはよくある話で、なんだかんだありつつも結局のところ情や絆は断ち切れない、という非常にまっとうな形にまとめたのはイヤミスなどが盛り上がる中、心温まる話ですね(というか、それは絆が残っていればの話)。 現実はもっと殺伐としていたり、そんなに優しくなかったりするから。
 血の繋がりよりも自分が「家族」と感じられる相手なのかどうかの方が重要で、そうなればむしろ恋愛感情も飛び越える、という。 感情としては普遍的な要素だと思うんだけど、そういう多様性を当たり前と描くのは時代が進んできた証拠ですかね。 
 悪い人が誰も出てこない、フツーだけどある種のファンタジーとしてあたしは受け止めた。
 そう考えてしまうのは、あたしが成熟していないということなのかもな・・・。

 海外ドラマについてはもっと話し出すと止まらないのですが、とりあえずどうしても、ひとつだけ言いたいことが!
NCIS:ニューオーリンズ
 『NCIS:ネイビー犯罪捜査官』のスピンオフですが・・・あたしが気づいたのはそこじゃなくて、レギュラーの若い捜査官がルーカス・ブラックだ、ということ!(ちなみに初回では全然わからず、4・5話目あたりで気づいたという・・・)

  NCISニューオーリンズ.jpg 向かって右端の人。
 あのかつての天才子役が結構いい歳のにーちゃんになっているというこの驚き!
 『ワイルド・スピード』3作目では高校生として出ていたけれど、あの時も高校生よりぐっと年上だったはず。 そしてそのときよりも更に老けているというか、落ち着いている。
 確か彼は南部の出身だったから(だからあたしはその昔、ロバート・R・マキャモンの『少年時代』をドラマ化するなら主役は彼!、と思ったものだ)、ニューオーリンズを舞台にしたこのドラマにしっくりはまるということもありましょう。 バイユーなど南部独特の風景も、いろいろ小説や映画で見てきたことと繋がって、ひとつの都市を舞台にしたドラマとは実は観光案内以上にその町のことを教えてくれるんだな、と実感。

ラベル:ドラマ
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2016年03月20日

クーパー家の晩餐会/LOVE THE COOPERS

 てっきり『8月の家族たち』みたいな感じかと思っていたら・・・そのときどきの人気者を集めて撮るクリスマスムービーではないか! 時期が違うから、全然気づかなかった・・・(でもチラシにはやんわり「クリスマスの日」とか書いてあった)。 アメリカでは映画会社持ち回りでクリスマスムービーをつくる、という伝統でもあるのか?

  クーパー家の晩餐会P.jpg 年に1度の一族の晩餐会。
    どうかデザートまで、嘘がばれませんように。

 原題“LOVE THE COOPERS”とは“クーパー家から愛をこめて”――要は友人・知人に送るクリスマスカードを締めくくる言葉。 近所に住んでいたりいなかったりする家族が年に一度なんとか集まるクリスマスの夜に、それぞれが抱える秘密と嘘をどうやり過ごすか(勿論、無事にやり過ごすことなんてできないんだけど)、というオールスターキャストを使ったライトコメディ。 ナレーションが補足説明をしてくれるけど(このナレーションが誰なのか、というのがいちばんの秘密だったりするのだが)、序盤からオムニバス形式で綴られる人物たちがいったいどう繋がっていくのか、直接説明をあえて避けているのが親切すぎなくていい(観ててわかるから)。
 そんなわけでシーズン映画ということもあり、登場人物も多いからオールスターキャストで揃えたのはキャラ説明が大変なので、その役者さんたちが持つもともとのイメージを利用したいから、ではないかと思う。 だからオリヴィア・ワイルドは美人だけど自分勝手で些かエキセントリックな役、エド・ヘルムズは『ハングオーバー』のときよりちょっと地味でまじめな感じの役、アラン・アーキンは根はいい人だが感情表現がうまくない頑固ジジイっぽい役、アマンダ・セイフライドは不幸な生い立ちなの中でまっすぐ育った役、ジョン・グッドマンは優しくいい人の役、更にダイアン・キートンはまた同じような役!
 そんな中、「負け犬の女神」マリサ・トメイすらも、負け組女性の役を与えられており・・・ちょっと切ない気持ちになってしまいました。 役者好きとしてはお得意の役を見るのもいいけど、新たな面も見てみたいじゃない?

  クーパー家の晩餐会1.jpg でも「イメージを裏切られることはない」という安心感も確かにありますよね。
 でも、アップになったときのダイアン・キートンの老けっぷりに驚愕した(実年齢を考えたら十分お若い方なんでしょうけど・・・)。 そう思うとマリサ・トメイ、若いな。
 でもこういう映画に出る、というのは俳優さんたちにとってある程度のステイタスなのでは(それだけ多くの観客に知られている、ということだから)。 だから出番は少ないながらも無口な巡査役でアンソニー・マッキーが登場したときには、ニヤリでした(日本ではそんなに名前は知られてないけど、向こうでは着実に実力・人気をのばしているんだね!、的な)。
 トータル的には「家族はよきもの」という内容ではありますが、すぐそばにあるブラックジョーク的な闇は、アメリカの家族至上主義がところどころ限界にきていることを示してもいる、ような・・・。

  クーパー家の晩餐会3.jpg アラン・アーキンとジョン・グッドマンがギターを弾き歌う、という場面だけでなんだかちょっとハッピーになる。
 クリスチャンではないあたしですが、<クリスマス>、という言葉が連れてくるハッピーなイメージだけは正しく日本に輸入されたような(たとえそれが「プレゼントもらえる日」というかつての刷り込みから来たものであっても)。
 だからこの映画も結構ところどころ強引ではありますが、最終的にハッピーの気分がもたらされるのだからそれで十分なのではないかと。
 シーズンムービーの役割、しっかり果たしてますね。

ラベル:映画館 外国映画
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2016年03月19日

赤い右手/ジョエル・タウンズリー・ロジャース

 どうしても厚め・長めの本を買ってしまうことが多いあたし。
 しかし通勤時間小間切れの電車の中ではなかなか集中して読みづらい(仮に集中しちゃったら乗り換えポイントを見失う・・・)。 なので最近は短編集や、短めの長編を持ち歩くことが多くなりました。
 ちなみに、個人的な定義では“短めの長編”とは300ページ以内を指します。
 それがまた、1940・50年代の隠れたミステリがちょうどそれくらいの長さのものが多いんですよ! そんなわけで<ミステリ黄金期>後のあたりの作品をちまちまと読んでいます。
 が、ちまちまと読んでいられなかったのがこちら!

  赤い右手.jpeg 赤い右手 原著は1945年、初邦訳は1997年。

 ドクター・ハリー・リドルが思わぬ形で巻き込まれてしまった奇怪な事件を、リドル医師がしたためた手記という形で読者は読まされる、という構成。 普段から冷静沈着であるよう訓練された職業柄か、ドクター・リドルの言葉選びからは知性と落ち着きがにじみ出る(あとで27歳と知ってびっくり!)。 とはいえ、やはり動揺しているので思いつくまま筆は運び、全然時間軸に沿って語ってくれない。 ものすごいことを書いているんだけどそこに至る過程にはなかなか言及してくれない、と露骨な思わせぶりで読者を振り回す。
 「これって、もしや、あのネタか?!」とつい思わずにはいられなくて、余計に一字一句読み落とさずにはいられなくて、それを知ってか知らずかドクター・リドルは読者がドッキリすることをさらりと書き、こっちの妄想をかきたてる。
 勿論、作者としては計算通りなのでしょう、まんまと途中でやめられない術中にはまる。
 <一世一代の超絶技巧>と帯にありますが、時間軸ぐるぐるで読者を引きずりまわす手法がとにかくうますぎる! 筆の勢いとも感じられるけど、全部計算のような気もするし。
 “語りと騙り”というあたしが大好きな展開でした。 勿論、論理的に事件は着地しますし、<あのネタ>ではありませんでしたし、たたみかけるどんでん返しあります!
 なんかもう、この文体に酔っちゃうくらい素晴らしすぎる!
 なのに解説によれば、この作品を「バカミスの古典」ととらえている向きもあるようで・・・ふざけるな!!、とあたしは言いたい(あたしにとって「バカミス」とは、作中のなんらかの謎が解けた瞬間に「は?」と思わずあきれた声が出てしまうような作品のことであって、たとえばジャック・カーリイの『百番目の男』みたいな。 あれと一緒にするな!)。
 あと、やはり時代感と雰囲気が大事ですかね・・・。
 あぁ、気持ちよくだまされた。 というか、心地よいドライヴ感だった。

ラベル:海外ミステリ
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2016年03月18日

スティーブ・ジョブズ/STEVE JOBS

 アーロン・ソーキンの言葉数の多い脚本を、それこそ説明台詞と感じさせずにすんなり映像作品にできるのはデヴィッド・フィンチャー(『ソーシャル・ネットワーク』)とアーロン・ソーキン本人(『ザ・ニュースルーム』)以外誰がいる?、と思っていたが、チラシにその名を見つけた。 ダニー・ボイルだ!
 実際、スティーブ・ジョブズの映画はこれまでにも作られてきたし、ありきたりの伝記ドラマなら更に作る意味はない。 原作は生前の彼が唯一頼んで書いてもらったものだというし、そこに演劇的手法が加わることで不思議で奇妙な映画になるんじゃないだろうか!
 ジョブズ信者でもなく、アップル製品ひとつも持ってないあたしが興味をひかれたのはそこです。

  ジョブズP.jpg 口先ひとつで、世界を変えた男。
    (ちなみにチラシは四隅が丸くなっており、iPad仕様になってます)

 はじまりは1984年、アップル社の新製品発表会プレゼンを40分前。
 スティーブ・ジョブズ(マイケル・ファスベンダー)は部下のアンディ(マイケル・スタールバーグ)を叱りつけている。 新しいMacintoshに「ハロー」とあいさつさせたいのだが、うまく喋ってくれないから。 それをなんとかしろというのだが、原因がわからないからどうしようもない、時間がないとアンディは反論し、マーケティング担当者のジョアンナ(ケイト・ウィンスレット)はもう諦めるよう説得を試みるが、スティーブは「ハローと言わせろ」の一点張り。
 そこへ元恋人クリスアンが娘のリサを連れてやってきて、「すぐ養育費を払ってくれないと生活保護を申請するわ」と言い出す・・・。

  ジョブズ4.jpg この時期のマイケル・ファスベンダーは何故かやたらユアン・マクレガー似。 ネクタイつけたら印象変わったけど・・・どうしてそう見えてしまったのだろう?
 実際の舞台裏がこんなだったらすごすぎるなぁ、と思うほど、まさに演劇的。
 他に1988年のNeXT Cube、1998年のiMac発表プレゼンの3つの舞台裏を選び、そこにジョブズの人生を凝縮させていく手法。 だんだん禅にはまったりミニマリストの道を歩む彼も、84年の段階ではネクタイにスーツの人だったんだな、みたいな。 あたしが大学生の時、NeXTを使ってましたけど(当然大学の備品)そういうことだったのか・・・とか、実際に自分が生きてきた時期とかぶる場合はいろいろ思い出します。

  ジョブズ1.jpg ジョブズのプレゼンといえばこんなイメージですが。
 実際のジョブズの“プレゼン”は信者じゃなくても目にする機会はあったし、それを思い出させてくれる作り(知らなくても今はYouTubeで探せるし、だから大胆に省略)。 後半になるにつれ、マイケル・ファスベンダーがスティーブ・ジョブズそのものに見えてくるというか、多分実際のプレゼンの様子を見たら「あれ?」って思ってしまうかもしれないほどに、彼はジョブズそのものだった。
 それ故に、表舞台では穏やかな人柄っぽくカリスマ性を発揮していた印象のある彼が、実はスタッフに怒鳴りつけるなど日常茶飯事だったり、リサを自分の娘と認めるのを最初はすごく嫌がっていたり、クリスアンとおとなげないやりとりをいつまでも続けていたり・・・というあまりにも未成熟な部分とのギャップがすさまじく、だからこそ革新的なモノづくりができる人だったのか、天才だから仕方ないのか、という、またしても<天才>についての映画になっていた。 世界を変える人かもしれないけれど、自分の近くにいたらすごく迷惑、というやつですね。

  ジョブズ5.jpg でも娘への愛はあるのだ(わかっていないのは本人だけ、彼自身の複雑な生い立ちがそれを許さない)。
 それでも、なんとはなしに続いていくリサとの交流における不器用さ加減ときたら、あまりにひどすぎる(最終的に彼女はそれを理解していたようなのが救いではあるが)。
 製品には洗練さや削ぎ落とされた美を求めながら、自分がいちばんそういうのとは縁遠い人間であることに気付いていても直せない苦悩と葛藤。 その点、ジョアンナがいちばん早く悟りを開いていたような・・・。
 ジェフ・ダニエルズはジョブズにアップルを去るよう引導を渡した人物を演じており、「あ、またこの感じ?!」ではあれど、ジョブズにとっては神話の父親的な役割を果たす人物として描かれており、二人の応酬における膨大な台詞量とともに、そのシーンは優れた二人芝居として堪能しました。
 そう、時間軸をすっ飛ばした群像劇の様相を呈しつつも、スティーブ・ジョブズを中心に三次元で回転していくそれぞれの輪が交錯していく瞬間を、中心との距離が近かったり遠かったりするそのときどきを、実は重層的に描いていたのかも。 そこで、わずかながらも成長していく彼の姿を些細なものに込め、決してセンチメンタルにもドラマティックにも流されないように。
 あまりに情報量の多い台詞の山からはわかりにくいけれど、この映画もまた禅やミニマリズムに到達しようとしていたのだ。

ラベル:映画館 外国映画
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2016年03月17日

まだまだ、もう少し

 まだまだ仕事が立て込んでおります。
 また給与明細に<深夜給>がついてしまうじゃないか!、という勢いです(22時過ぎると深夜給がつくんですね)。 仕事中はエンドルフィンでも出てるのか、仕上げるまでは結構ハイで、つかれを感じないのですが、いざ家に帰る電車の中でどっと肩が重くなるというか、地球の重力を感じます(それを忘れたくて本を読みますが、今までは電車の中で普通に立っていたのですが、最近は席が余裕で空いていれば普通に座ってしまいます)。
 やはりつかれているのでしょうか。
 そんなわけで更新もさぼりがちですが、だってPC開く時間が少ないからさ!(なんとか地味に追いつこうとしておりますが、差が広がる・・・)。 でも感じるのは、記事更新しないと一日の区切りがつかないというか、曖昧になっていることです。 だらだら過ぎてしまう・・・。
 ブログを書かずとも生きていけることはわかった。
 そして一度さぼったらどんどんさぼってしまうという自分の性格も思った通りだった。
 でも、こうやって書くことで(勿論、これはブログを始めた当初から感じていることだけど、思いもかけない方々に読んでいただけているという意外性も含めて)、あたしは“時間”というものを記憶と一部同化することができている。
 まだ引っ越し先を探す余裕もないのですが(でも早く決めないとデータ移行するのにも時間がかかる・・・)、「ブログを続けるか否か」という問題にはもう答えは出ているような。
 勿論、使用するのはWEB媒体じゃなくても、「アナログにノートに書く」でもいいんですけどね。 そのあたりで、迷っているかな・・・。
 でもそれは多分きっと、今は時間にも気持ちにも余裕がないから。
 そろそろ貧血で倒れる時期が近い、というのもまた危険。
 4月の頭を乗り越えれば、多分もっと楽になるはず・・・もうちょっとだ、がんばろう。
 しかしこんな状態で、転勤先でもやっていけるのか、あたし(汗)。

posted by かしこん at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記のようなもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする