2016年02月07日

母と暮せば

 井上ひさしへの献辞が出るのは『父と暮せば』へのオマージュだから?
 だが、『父と暮せば』は娘視点の物語で、生きているのは娘、死んでいるのは父という違和感のない設定。 では『母と暮せば』は息子目線となるが、生きているのは母親、死んでいるのは息子・・・すでにここから「???」となってしまうのだが、あくまでファンタジー処理なのだろうか。 山田洋次ちょっと苦手だけど、それが気になって。

  母と暮らせばP.JPG もう息子には会えないと、思っていました。

 1945年8月9日、長崎。 いつものように市の中心街にある医科学校に向かった浩二(二宮和也)は講義中に原爆が落ちてきてそのほかの大勢とともに死ぬ。
 3年後、助産婦をしている母・伸子(吉永小百合)の前に浩二がひょっこり姿を見せる。 「あんまり母さんが悲しんでいるから、なかなか出てこれなかったんだよ」と。 そんな二人の静かな生活が始まるが・・・という話。
 おそらくかなり悩んだのであろう原爆投下から炸裂へと至るシークエンスは、なんとも言えない後味の悪さ。 特に雲による視界不良のため、当初の目的地ではなく、一瞬の雲の切れ間で長崎がターゲットになってしまったというのは・・・神のいたずらとしか言いようがないほど。 そして炸裂シーンは・・・現在のCG・VFX技術を考えると稚拙にも思えるが、“あの瞬間”を誰も実際に見ることはできないのだから、<観る側の想像力に委ねる、けれど最低限でありながら最上級の残酷さを目指す>というようなあのやり方は正解だったと思われる。
 そう、“神のいたずら”と思ったのは・・・舞台が長崎だったから。

  母と暮らせば1.jpg “隠れキリシタン”以降、この土地ではキリスト教的感覚が根付いているように描かれているような気がした。 でも出ている人の長崎弁(?)は微妙な感じがあったが・・・。

 そこであたしはキリスト教者ではないので戸惑うのだが・・・死んだはずの息子が死んだことを認めつつも現れる、というのはある種の奇跡なのではないのかしら? しかし母はあっさりそれを受け入れて、大騒ぎも盛大なる感謝をするわけでもない。 そして息子の婚約者であった町子(黒木華)が浩二を忘れず一人でいることに二人して「困ったねぇ」みたいなことを言っている。
 描かれるのは徹頭徹尾、“日常”なのだ。
 だからこれが伸子さんの妄想や幻覚なのかどうなのか観客には判断する術がない。 いやむしろ、させない方向に行っているとみるべきかもしれない。
 とても静かで、むしろほのぼの路線にまとまりそうな途端、それをぶった切る“現実”の容赦のなさはさながら原爆級である。
 どうしても戦争やその時代を描くと、好むと好まざるとにかかわらず主義主張が入ってしまうもの。 山田洋次監督はそれを避けつつ、<反戦>というメッセージだけを入れた。
 多分そういうことだと思うんだけど・・・それでもあのラストシーンにはつい「は?」ってなっちゃう人が多いような気がする・・・あたしが、そうでした。
 やはり、その時代を多少なりとも自らの体験として知っているかいないかって大きいなぁ。
 でもこれから先も戦争は経験したくないと思うのでありました。

ラベル:映画館 日本映画
posted by かしこん at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 movie | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする