2015年12月18日

顔のないヒトラーたち/IM LABYRINTH DES SCHWEIGENS

 ドイツは定期的にナチス映画をつくっている印象(もっとも、他のジャンルよりも確実に日本に入ってきやすいジャンルであるということかも)。 とはいえそれはヒトラーが勢力を伸ばし始めた時代からナチス・ドイツ敗色濃厚になるあたりまでがほとんど。 終戦後、しかも復興した後のドイツを舞台にしたものは珍しいような気がする。
 そんな気持ちで鑑賞。

  顔のないヒトラーたちP.jpg 消された罪、消せない記憶

 1958年、西ドイツ・フランクフルト。 道を歩いていた男性が煙草に火をつけようとして、マッチがなかなか見つかない。 柵の向こうで談笑していた人たちのひとりがそれに気づいて、火を差し出す。 その人物の顔を観て、男性は過去を強烈に思い出して恐怖に震える場面から始まる。
 第二次世界大戦終結から13年、復興後の西ドイツを担う若い者たちには戦争中の記憶はあまりなく、年寄りは多くを語らず報道もされることなく、“ナチス・ドイツ”という存在や認識について社会的にも記憶が薄れつつあったある日、一人の新聞記者があの男性とともに裁判所を訪れた。
 アウシュビッツ強制収容所にいたナチスの親衛隊員が、規約に違反して教師をしているという告発のためだった。 若き検察官ヨハン(アレクサンダー・フェーリング)はその告発の熱さと周囲の冷淡さに違和感を覚えつつ、新聞記者グルニカの「検察官として、アウシュビッツを知らないなんて恥ずべきことだぞ!」という言葉が忘れられず、様々な圧力を受けながらも<ナチス・ドイツの罪>を公にしようと動きだす・・・という話。

  顔のないヒトラーたち4.jpg 上からやんわりではないどころの注意を受けますが・・・それでも彼を止めることができず。
 その結果、1963年12月20日にフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判の初公判が開かれる、という史実なのですが、史実であるが故に資料的価値の高さはわかるけど映画としてのエンタメ性は若干そがれている・・・という気がしないでもない。
 ちゃんとドイツ語であること(ドイツ映画だね、という実感)と、見たことある俳優さんが出ていてニヤニヤする、ということがなかったら途中で撃沈していたかもしれない(結構疲れていたので、若干意識が薄れたところもあった)。 しかし、生き残ったユダヤ人の証言に出てくる人物が「ヨーゼフ・メンゲレじゃん!」とエピソードを聞くだけで観客(つまりあたしだ)が蒼ざめるくらいなので、眠気も吹っ飛びます(イスラエルから逃亡犯として長々と暗殺指令が出ていた人物が戦後普通に暮らしていたという驚き!、ですね)。

  顔のないヒトラーたち3.jpg 記録を補足するため、思い出したくないことを尋ねにまわる必要も。
 この映画で“絶対的悪”に最も近いヨーゼフ・メンゲレ(時代が違ったら彼は明らかにシリアルキラーになるだろう)を裁けないがために、裁判にかけられる人々は、ハンナ・アーレントいうところの<凡庸な悪>、時代の流れに負けてしまった弱い人間の末路でしかなく。
 多分、1960年周辺のドイツであれば、「石を投げればかつてはナチス党員にぶつかる」だっただろうな。 だからこの映画はナチスの罪を暴くというよりも「知らない振り・知る機会を奪われているドイツ国民の目を覚まさせる」ことの困難さ、を描いた映画といえるだろう。 しかしそれ故に、目的意識が強すぎて史実の重さが歴史書の一行のようで、個人に寄り添う物語性を弱めた感じが。 だからいろいろ考えはするのだけど、ドカンと胸に刺さるものがあまりない・・・。
 だから公開も結構早く終わってしまったのかな〜、という気がする。
 いや、シネ・リーブル神戸が立て込んでいる、というせいもあるんだろうけど。

ラベル:映画館 外国映画
posted by かしこん at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 movie | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする