2015年10月09日

あの日のように抱きしめて/PHOENIX

 <『東ベルリンから来た女』の主演女優・俳優・監督が再び!>ということで、あぁ、また後味よろしくない映画がやってきたぞ、と心構え。
 つらいのなら観に行かなければいいことなんですが、そういうつらさから目を背けてはいけない年になってきたのだと自分を鼓舞。 いや、だんだん後味の悪い映画の方が「映画観た!」という実感を伴うようになってきたのは事実かと。

  あの日のように抱きしめてP.jpg ただ、知りたかった。 あの時、夫は私を愛していたのか。
    それとも、ナチスに寝返り裏切ったのかを――。

 舞台は1945年ドイツ。 銃で殴りつけられて顔にひどいけがを負い、友人レネ(ニーナ・クンツェンドルフ)のつてでどうにか強制収容所を出て戻ってきた元歌手のネリー(ニーナ・ホス)は、顔の修復手術を受けるがまったく同じには戻れなかった。
 彼女の願いはピアニストだった夫と再会してかつてのしあわせな日々に戻ること。
 どうにか見つけ出した夫のジョニー(ロナルト・ツェアフェルト)は生きていたが、妻は強制収容所で死んだと思い込んでいる彼はネリーに気づかない。 気付かないどころか、「ちょっと妻に似ているから」とネリー本人に、「亡き妻の遺産を手に入れるために妻のふりをしてくれないか」と持ちかける。 ジョニーの真意はどこにあるのか、知りたいがためにネリーは偽者を演じることを決意する・・・という話。
 いくらなんでも、多少顔が変わったとはいえ(しかも整形外科手術が今ほどでないとはいえ、元の顔にしようとしているわけで)、黙っているからといって自分の妻と気づかない男がいるものだろうか?
 結構身近に接して言葉も交わした上でですよ?
 せっかくの内容もその大前提に無理があるように感じて、いまいち納得できない・・・(だからこそ、彼は彼女を利用しようとしているだけなのでは?、という謎とスリルも生まれるわけですが)。 この夫がそこそこ男前なだけに(特にポスター写真下で見ると『CSI:マイアミ』のジェシー役の俳優さんにちょっと似ている)、残念。
 映画というか映像よりは、小説のほうが無理なく盛り上がれる話だったのかもしれないなぁ、と途中まで思っていましたが、それはあたしの間違いでした!

  あの日のように抱きしめて1.jpg 彼は、自分の決めた現実しかもう受け入れる気はなかった、ということ。 男性脳の持ち主ですなぁ。

 ジョニーはそもそも気づきたくないというか、妻はもう死んだものとして決着をつけているわけですよ。 でもネリーはそうではなく、かつての記憶のような生活を取り戻したいと思っている。 <ニセの妻>からそんな光線をばしばしと浴びせられて、それでも懸命に抵抗する、というのがジョニーの不可解で残念すぎる行動の数々を説明するものだったのでした(そう、男の卑怯さ加減がこれでもかというほど炙り出されます)。
 逆に、「なんでそんなにこの男が好きなんだ、ネリー」、とつい聞きたくなってしまうほど(愛情は他人には不可解なものだということはわかっていますが)、ネリーの想いは強いのだけれども、それは現在のものなのか、過去のよかった時期への執着なのか、彼女自身もよくわかっていないような気がした。 収容所生活後というか、顔が変わった時点で彼女は二つの人生を生きていて、でもそれに気づいていないのだ。 彼女が取り戻そうとしているものは、もう過去にしか存在しないのに。

  あの日のように抱きしめて2.jpg それでも、かつてを思い起こさせる出来事もあるから困ったもので。 当時の女性たちのカバンは小ぶりだがよく手入れされて使っているのがうかがえて、ちょっと憧れる。

 だから二人の緊迫感あふれるぎこちない会話は、お互い違うことに対して話しているのだから当たり前(でも時折シンクロする瞬間もあるので、お互い引き下がれない)。
 実は心理劇ラブサスペンスなのでした。
 ひとり、すべてを知っているレネの存在がこの物語を暴走させないための装置だったのも冷静さを観客が取り戻すためのポイント。
 何故ネリーが元歌手である必要があったのかが疑問だったのだけれど、彼女が“Speak Low”を歌う場面のためにすべてがあった、ということなのかもしれないな。

  あの日のように抱きしめて4.jpg そう思うほど彼女は美しかった。

 結論は出ていない映画だけれど(それこそ観客に委ねられている?)、あたしは彼女の“Speak Low”のシーンでとても満足しました。

ラベル:映画館 外国映画
posted by かしこん at 01:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 movie | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする