2015年07月03日

私の少女/A GIRL AT MY DOOR

 韓国映画は基本的に好んで観ないあたしですが(ハングル文字があたしの目に大変悪く、気分が悪くなってしまうから。 そしてグロい描写があたしの許容量すれすれだから)、ペ・ドゥナさんは好きです。
 しかもこの映画は世界発信前提の国が予算をあげて作ったものではなく、女性監督による低予算のひっそりした国内向け映画だということで・・・そこにこそリアルな韓国の実態があるのではないかと思い。

  私の少女P.jpg 心を閉ざした“私”と、心を砕かれた少女。
     二つの痛みが出会い、希望にふれる。

 ソウルでエリート街道まっしぐらにいたヨンナム警視(ぺ・ドゥナ)は、ある不祥事に巻き込まれ、ソウルから離れた小さな港町の派出所所長として赴任する(署長じゃないのね)。
 そこで母親に捨てられ、養父と義理の祖母から暴力を振るわれている13歳の少女ドヒ(キム・セロン)と出会う。 この場所ではともに異端者である二人、ヨンナムはドヒに同情と共感を、ドヒはヨンナムに憧れと執着の気持ちを抱くようになる。
 なにしろ恐ろしいと思うのは、町の人間はほぼ全員ドヒが虐待されているのを知っているのに、「あそこは直接血が繋がっていないんだから仕方がない」と受け入れているところ。 だからドヒの同級生も彼女をガンガンいじめるし、止める人は誰もいないという・・・えっ、血の繋がりがない相手になら「養ってやってるんだ」的感覚をここまで全面に出しとけばなんでも許されるのか?(ぞっとする)
 あれっ、ちょっと前の時代とかじゃないよね、present dayだよね!、と驚いてしまう。 が、更にびっくりなのが、ドヒをいじめる子供たちを追い払ったヨンナムが、多少怪我をしている感じの彼女に「大丈夫?」とか一言もなしにさっさと立ち去ってしまうことだ。 これが彼女のクールな性格を表しているってこと? それとも警察官とはいえ余計なことに首を突っ込むなということ?
 このへんが、「あぁ、感情論かもしれないけれど、感覚的に日本とは違うところだな」と。
 町の人々が「都会(ソウル)から来たからってお高くとまってんじゃないの」的な陰口を本人に聞こえるように言うところなんか(それはもはや陰口ではなく露骨な非難なんだが)、なんかもう怖かったです。
 日本でも田舎のほうでは新参者に最初は冷たいというか、警戒してくる地域はまだあるけど・・・まぁ、田舎者根性は怖いです(ただ日本の場合、田舎に住んでいる人すべてが田舎者根性の持ち主というわけではなく、そこそこの都市にもそういう発想の人はいるので、現象としての<田舎者>というべきかも)。
 そんな田舎で、この二人は明らかにマイノリティ。 たとえ背景になにがあっても二人の幸せを願いたくなるのは、ペ・ドゥナとキム・セロンの素晴らしい演技の賜物。 名子役とはどこの国にもいるのね〜。
 個人的にはこんなところでマジョリティになりたくはないが、それでも敵視され、孤立する立場がいいとも思えない。 だからドヒは(実際彼女はこの場所しか知らないのだし)、自分が生き残るためにはどうすればいいのかを学ばなくてはならなくて・・・彼女に魔性があるのだとしたら、それは後天的に学んだ戦術でしかない。

  私の少女1.jpg 些細なプライベートな出来事を初めて打ち明けた場所が、二人の再会の場所に。
 他人に深く関わらないようにする、というのはヨンナムが身を守る方法のひとつであるとのちにはわかってくるのですが、そうでなければ生きられない社会とはいかがなものか。
 しかし映画は声高に批判しない。 ただ、二人が共感していく過程を丁寧に追いかけるだけである。 これ、あんまりはっきり批判すると問題になるの?、と思ってしまうくらいに、いろんな問題はスルーの方向で。
 うむ、男尊女卑は間違った儒教の解釈だと思う。
 <ムラ>という<社会>から孤立した二人の選ぶ道はひとつしかないと思うのだが・・・なかなかその決断をしないのでイライラ。 だから、最後は少し救われた気になります。
 その先がたとえどれほど困難な道であったとしても、いまここには確かに(わずかかもしれないけど)希望があるから。
 くしくも、『深夜食堂』韓国リメイク版では登場人物のおかまバーの人やストリッパーは排除される、という報道を見たところ。 韓国はマイノリティには優しくないどころか、容赦のない国であることがよくわかった。

ラベル:映画館 外国映画
posted by かしこん at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 movie | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする