タイトルが長いので全部表記できませんでした。
『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』/“BIRDMAN OR(THE UNEXPECTED VIRTUE OF IGNORANCE)”と改めて書いておきます。
言わずと知れた本年度アカデミー賞作品賞受賞作ですが・・・なんというかハリウッドの内幕ものというか。 セルフパロディがこんなに評価されちゃっていいんですか?、という気がしたかも。
ワンカット・長回し風の撮影技術について熱弁をふるっている映画ライターの方などを結構見かけますが、実は内容にはそんなに関係ないというか、語るべきことはそこではないんじゃないか、と思います(勿論、技術的にすごいということはわかりますけどね)。 映画で、舞台の表も裏も舞台のように撮ってみた、という感じ(だからカメラが固定されたままで空が夕方から朝へと時間経過を表すところは、舞台でいうところの暗転)。
すべてを手に入れ、すべてを手放した。もう一度輝くために、もういちど愛されるために、いったい何をすればいいのか――?
もういちど輝くために、もういちど愛されるために、すべてを手放し、羽ばたこう。
冒頭でレイモンド・カーヴァーの一説が引用されるのを見て、「あ、そういうことか!」となんかわかった気がした。 「ムラカミハルキ的」とでもいいましょうか、現実と虚構の境界が曖昧どころではなく同居しているのね、とでもいうのか。
20年前、ヒーロー映画『バードマン』とその続編で一躍スターダムに上り詰めた俳優リーガン・トムソン(マイケル・キートン)だったが、3作目のオファーを断り、その後人気は凋落。 今やすっかり落ちぶれた“かつての映画スター”となってしまっているが、再起をかけて自分で脚色・演出・主演で舞台『愛について語るときに我々の語ること』(原作はレイモンド・カーヴァー)に立とうとする。
が、不慮の怪我で降板した俳優の代役としてやって来たマイク・シャイナー(エドワード・ノートン)は普段はクズ人間だが、役者としての気概や才能や自信が思いもかけない形でリーガンを追い込むことに。
付き人をいやいやながら務めるリーガンの娘サム(エマ・ストーン)は常に父親に対して敵意をむき出しで、リーガンは心の休まるときがない。 そんな彼に、“バードマン”がささやく。 「お前の能力を思い知らせてやれ」と・・・。
彼は無意識下の自分の具現化なのか、妄想なのか。
これを突き詰めればサイコものになるところだが(たとえば『ブラックスワン』のように)、この作品の面白いところはあくまでコメディとして撮っているところ。 意味のわからないところは多々あるし、「それでいいのか?!」なところもあるけれど。
あと、あたしはかつて演劇に片足つっこんでいたことがあるので、舞台上とその裏の違いとか、「あぁ、そういうこと、あるよねぇ」的あるあるネタが懐かしかったり面白かったり。 だからそういう経験のない人や演劇に興味がない人が「アカデミー賞だから」という理由で観たとしたら残念なことになりそうな気配濃厚。
タイムキーパーの役でドラマ『ナース・ジャッキー』のナースさんがいたり(なんか痩せていた?!)、アンドレア・ライズブローもいたりして、キャスト的にも好きな人が揃ってました。
でも結局、アメリカでいちばん受けた理由というのは、映画やテレビドラマだけしか出ない俳優よりも、舞台をしっかりこなせる俳優のほうが格が上なのですよ(それはセレブリティとか、世間的知名度とは関係なく)、という固定された価値観ががっちりと描かれていたからではないか、という気もする。 そのあたりも大変興味深かったです。
一度栄光を手にした男が、それをまた掴みたくてあがく話、といえばそれまでなのですが・・・求めるモノは俳優としての評価なのか、またちやほやされたいのか、その結果ついてくるであろう家族の愛なのか。 ひとつうまくいけば全部うまくいくと思っている、そんな男性の単純さもまた、きっと愛すべきものなのでしょう。