2015年03月08日

忘却の声/アリス・ラプラント

 一人称形式、しかし主人公は認知症、という設定に惹かれて。
 “わたしはジェニファー。 わたしは六十四歳。 わたしは認知症。 ノートにその日にあった出来事を書いている。 ある日、貼ってある新聞の切り抜きを見つけた。
 「アマンダ・オトゥール(75)が不審死。 右手の指が四本切断されていた」。
 アマンダは親友だった。 彼女を殺した覚えはない。 でも警察が会いにきたし、ノートからは事件当日のページが切り取られている――。”
 そんな書き出しの本を読み始めてやめることができるだろうか? 否、である。

  忘却の声1.jpg忘却の声2.jpg 内容の恐ろしさを緩和するような、やわらかタッチの表紙と装丁。

 まず、主人公のジェニファー・ホワイトはかつて「ドクター・ホワイト」と畏怖を込めて呼ばれた優れた腕を持つ整形外科医だった。 アマンダの指は優れた外科的処置で切断されていたことから、警察は早い段階でジェニファーを疑う。 しかしすでにジェニファーは認知症を発症しており、日記を読み返して現状を冷静に把握できるときもあれば、息子の姿を見て亡き夫の名前を呼ぶことも。 自分がまだ現役の医師だと思い込むこともしばしば。
 これも先日の『血の探求』同様、台詞・会話にはかぎかっこが使われていない。“わたし”の内面や独白、言葉は地の文で、それ以外の人の言葉は太字のゴシック体であらわされるのでわかりやすいが、ジェニファーの認識がころころ変わるので(そもそも認識があるのかどうかすらときに危うい)、読んでいてとてもハラハラする。
 なにしろジェニファーは医師であり、基本的に合理的な思考の持ち主だ。 そんな人でさえ、認知症という病の前ではなす術がない。 これは勿論<老い>の問題でもあるけれど、若年性アルツハイマーの存在を考えると一概に年齢のせいでもない。
 誰なのか顔がわからない・いうべき言葉を見失う・自分で自分がわからなくなるという恐怖。 そっちの方の描写がリアルで、「アマンダの死」といういちばん解かなくてはならない謎が二番手になってしまうほどだ(まぁ、大体予想通りではあったけれど)。
 すべてを失いかけても、それでも失いたくないものがある。 それがジェニファーの場合、顔を見てもわからないときがある娘フィオナだった、というのは<複雑なる家族愛>というテーマにはふさわしいが、若干「よくある話」っぽくなってしまっているように思えるのは残念(でもこれは、読者であるあたしの問題であろう)。
 ほんとに認知症の人がこういう思考の移り変わり・混乱をするのかどうかよくわからないけれど、さらりと書き流してある部分が余計にリアルに感じられて、一気読み。
 次第に記憶を失っていく過程で、自分が自分でなくなることが“見えて”きたら、あたしは耐えることができるだろうか。 あたしがあたしである意味は?、など、いろいろ考えてしまう内容でした。

posted by かしこん at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆ 読んじゃいました | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする