2012年09月14日

五番目のコード/D・M・ディヴァイン

 これ、いつ買ったよ!、ですが、図書館からもしくは人から借りた本が優先なので、自分が買った本はついついあとまわし。 あとまわしにし過ぎてどこに置いたかがわからなくなる始末(整理するつもりで未読本だけ箱に詰めたら、この上にもう一箱載ってしまい、さらにその上に本が積まれたらいつ下の箱を開けるのか?)。
 読んだ本は読んだ本で別のところに仕舞ってしまったので探し出すのは偶然の手助けが必要である。 いったい、『幽霊の2/3』はどこへいったのだろう。 Kさんに是非お貸ししたいのに。
 そんなわけで古典的海外ミステリの面白さに引きずり込みつつあるKさんをさらに魅了するために、これを貸してもよいか(面白いと思ってもらえるか)あたしが先に読んで判断しなければ。

  五番目のコード.jpg やはり表紙の味わいがずるいよねぇ。
 で、読んでみて・・・これが『ウォレス家の殺人』を書いたディヴァインと同一人物なのか?!、という驚きが。
 なんというか、意外にハードボイルドタッチ。
 都会の新聞社で何かやらかして田舎に引っ込んで地味な新聞社で働く記者ってみんなこんな屈折具合なのか?、と『湖は餓えて煙る』を思い出しちゃいましたよ。 しかもこっちの方が酒と女にだらしなくて鬱屈をそっちに向けてる分だけ人としてめんどくさい。 でも人物造形が数年前の作品と比較できるっていうことは、それだけしっかり書けているということ・かつ人間って大して変わらないものってことなんですね。
 マザーグース的連続殺人の仕掛けをきっちり使いながら、ある意味、快楽殺人についてもその心理に軽く踏み込んでいたりするし。
 物語的にもそんなに古くないし、違和感があるとすれば連絡するときに携帯電話を使わない、というところか。 あと、一人のキャラクターが言う「人間には男性と女性のほかに中性がいるのよ」という、<中性>の意味合い。
 それは「男でも女でもない」でもなく、「男もしくは女である自分を認めたくない」でもなくて、あたかも「男性らしさ・女性らしさを素直に魅力として発揮できない人物、同性・異性から見てもどうも理解に苦しむ個性の持ち主」みたいな意味っぽく感じられ・・・なんだかかなしくなりました。
 「それって人として(もしくは大人として)どうかと思うよ!」で済む話なのに・・・それをわざわざ<中性>って表現するなんて・・・1967年の作品ですから時代的に仕方ないんですけど、でもそれを「修正しろ!」という言論封殺主義者にはなりたくない。
 とりあえず、ジェンダー論にかたまってる人はいささか古い?、と感じつつもこういうことにかなしさを覚えるあたしはフェミニスト的感覚が根っこにあるというかセクシャルマイノリティをあらわす言葉には敏感だわ、と実感。

ラベル:海外ミステリ
posted by かしこん at 07:15| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆ 読んじゃいました | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする