2011年12月31日

ウィンターズ・ボーン/WINTER'S BONE

 ジェニファー・ローレンスが様々な映画賞で激賞された作品、やっと日本で、神戸でも公開。 ダークな話だということはなんとなくわかっていたが、正直ここまでとは・・・。

  ウィンターズ・ボーンポスター.JPG 『あの日、欲望の大地で』以来、あたしは彼女に注目しています。

 舞台はアメリカ中西部のミズーリ州の山間部。 リー(ジェニファー・ローレンス)は17歳だが、精神病の母親に代わって幼い弟妹の世話をし、家のこともやっている。 父親はドラッグ売買の罪で逮捕されたが、約束の日に出頭せずに失踪、一週間後に保釈金の担保として家と土地が取り上げられることがわかる。 リーは期限までに父親を探し出さなければならなかった、生きていようと死んでいようと。
 あの、これほんとに現代劇ですか?、というほどに貧困度合いは極まっている。
 季節が冬だから、ということもあるけど、スクリーンに広がる風景は『フローズン・リバー』にとてもよく似ている気がした(雪や氷はないけれど)。 村というか周辺地域が非常に狭く、人間関係が濃密な感じも『フローズン・リバー』の特定居住区の描かれ方と似ていて、「え、同じ世界?」と感じてしまうほどだった。
 が、互いが互いを監視し合っているような空気は、この地域が麻薬産業で成り立っていることがわかるにつれて納得がいくのだが、最初は全然意味がわからなかった。

  ウィンターズ・ボーン1.jpg 弟妹、いくつなのだ・・・この二人に食べ物や教育を与えるのもリーの仕事。 綴りだけでなく銃でリスをとる方法も教えます。

 その中で生きていくしかないリーにとって救いは軍に入ってこの土地を出ることだが、それでは弟妹を捨てることになる。 なんでこんなにひとりで背負わねばならないのか考えると、非常につらい(何故こんな環境で子供をつくるのか・・・と親を責める考えてが浮かんでしまう)。 これも『永遠の僕たち』と同じ時代のアメリカの出来事なんだよなぁ、と思うと余計にかなしい(あの映画は衣食住に苦労してないが故になりたつ話か・・・と)。 日々の暮らしに精一杯だったら、死に囚われたり思いに沈むことはない気がする。 同じく死はすぐそこにあっても、切実なるリアリティがこちら側にはあるから。
 父親を探すため、伯父のティアドロップ(ジョン・ホークス)に手助けを頼むも彼は手を出すなと言う。 何かが隠されていると他の手掛かりを追えば、村の有力者の家族の女たちにリンチされる。 その男に声をかけたからだという。 言ってることが無茶苦茶だよ!、だが、男たちではなく女たちが手を下したことでリーへの気遣いになっているらしい。 でも顔殴ってるし、意味がわからん。

  ウィンターズ・ボーン2.jpg はじめは得体の知れないティアドロップも、いつの間にやら目のつぶらないい人になっていくのが意外。

 自分ではどうしようもない理不尽さに立ち向かうしかない少女を描いている、ということなのでしょうが・・・説明省略すぎだし救いがないしで、ものすごく悲しい。 リアルはリアルなんだろうけど・・・もうちょっとドラマティックなものがないと見ていてつらいだけなのですが。 原作は小説のようで・・・確かに、文章の世界向きの話です、だから映像だけではちょっと物足りない感じ。
 とはいえ、ジェニファー・ローレンスを見る!、という意味では彼女がリー役でなかったらもっとつらかったであろうし、彼女の力でなんとか見ていられるところがある。
 リーの気高さ・誇り高さは『トゥルー・グリット』の女の子に勝るとも劣らず、それだけが希望でした。 映像に冬の空気はよく出ているけれど・・・大人ってひどいなぁ、と思わされます。 自ら望んで母親代わりをしているわけではない、けれど弟妹にとってリーしかいない。 彼女はこれからも誇り高さ故に重圧を抱えて生きていくのか。
 貧困って誰のせいなんだろうなぁ。 ただ、悲しい。
 これが今年最後の映画になりました。 なんか、微妙・・・期待していただけに。

ラベル:映画館 外国映画
posted by かしこん at 23:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 movie | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

永遠の僕たち/RESTLESS

 ガス・ヴァン・サントの新作となれば気になります。 しかも加瀬亮が出ていると!
 オープニングからいきなりビートルズ“Two Of Us”。 それがこの映画のカラーをあらわしているようです。 瑞々しくて、軽やかで、ちょっと現実感がない。
 死にとりつかれた少年イーノック(ヘンリー・ホッパー)は、黒いスーツを着て見知らぬ人の葬儀に参列するのが趣味。 ある葬儀で出会った少女アナベル(ミア・ワシコウスカ)が、また別の葬儀でイーノックが関係者ではないとばれそうになったときに助けてくれる。 思わぬ出会いが二人に忘れられない時間をもたらす。
 “初恋の物語”と言ってしまってはそれまでなのですが・・・あくまで“死”がすぐ近くにあるのがポイント。 といってもこれもお涙頂戴ものではなく、淡々とした静けさがとても美しい物語になっています。

  永遠の僕たち6.jpg 性別無視な感じが余計に美しさを強調。

 何故イーノックは死にとりつかれているのか? 何故アナベルはそんなイーノックに理解を示すのか? はっきり説明はされないけれど見ていくうちに彼らの事情がわかってくるので、彼らの自分勝手に見える気持ちにも自然と理解が。 「若いっていいよね〜」じゃないけど、その年齢の人たちにしかできないことってあるよなぁ、としみじみする。 自分や相手のことだけ考えていられる時期、というか。
 期待の加瀬亮ですが、日本の特攻隊員の幽霊ヒロシとしてイーノックにしか見えない存在。 というわけでイーノックの親友というか心の支えというか、非常においしい役どころです。 描かれ方も非常に自然で、こんなにも日本に理解を示してもらえるってどういうこと?、とドキドキしてしまった。 外国の映画でこんなにも頻繁に日の丸が登場するのも珍しい・・・。

  永遠の僕たち3.jpg ヒロシはイーノックにしか見えないけど・・・その格好で普通にうろうろされるとちょっとビックリよね。

 それぞれが自分勝手のように見えながらも本質的に気遣いの人なのだとわかる場面、アナベルが「なにそれ、ナガサキの仇?」と笑いながら言ってしまうところでイーノックは「しまった」という顔をする。 ヒロシはその前に死んだから、原爆のことは知らないのだ。 事実を知ってしまい、落ち込むヒロシだが激昂したりはしない。 そして落ち着いた頃、イーノックは「日米関係は今やクールさ。 ・・・友達ってこと」と言う。
 ほんとですか!
 なんというか、大和魂へのリスペクトを感じるのですよね・・・。 握手ではなく、お辞儀で相手への敬意を表すとか(ラストのほうでお辞儀が使われる意味、日本人のほうがよりわかる!)。 ヒロシが出せなかった手紙もちゃんと日本語で正しく書かれているし、“カミカゼ”と呼び理解不能なものに分類するのではなく特攻隊員ひとりひとりの思いを掬いあげているところとか(加瀬亮が手紙を読むところ−そこは英語だけど−で泣いちゃったよ、あたし)。

  永遠の僕たち4.jpg 少ない三人一緒のショットが美しい。
    しかもアナベルとイーノック中心の会話なので、ヒロシは遠目、もしくはわざと顔を映さないようにしている。 アナベルには見えないから?

 正しく日本を描いてくれている、というところを割り引いても、イーノックとアナベルの関係を美しいままで描いたのがよかった。 でもヒロシの存在が外せないほど自然に物語に組み込まれているからこそ、映しだされる日本的なものにドキドキしてしまうのかも。
 なんか本国では評価が低いらしいのですが・・・はっきり結末は描かない作風の監督だけど、『パラノイド・パーク』よりはずっとわかりやすくて救いがあるような気がするけど・・・そう思うのも日本人だからかしら。
 『RESTLESS』ってタイトルよりも『永遠の僕たち』のほうが合ってるもんなぁ。
 安らぎがない、落ち着かない、不安・・・『死への畏れ』ってことか。
 イーノック役のヘンリー・ホッパーくん、デニス・ホッパーの息子さんだそうで。
 こんな若い息子いるんだ! しかも似てないし! ハンサムだし!(いや、あたしがデニス・ホッパーの若い頃を知らないだけだが)
 アナベルはダーウィンを尊敬しているという設定だが・・・進化論ならば少し前にウォレスもいるってことも知っておいてあげて〜。

  永遠の僕たち7.jpg ミア・ワシコウスカがベリーショートにしてとてもきれい。 服装もやたらお洒落だ。 イーノックは寝ぐせの髪そのままで登場するのに。

 イーノック、アナベル、ヒロシ、この三人の物語だった。 勿論、他にも人物は登場するんだけど、三人の関係を補足するために必要だったような。 悲しい話なのだけれど、美しいから観客も冷静に受け止められるかな。 いい映画観た!、という満足感に浸れました。
 加瀬亮の英語も自然だったな・・・ヒロシがなんでアメリカで幽霊してるのか(そしてペラペラに英語喋れるのか)は死後の世界の謎ということでとっておきましょう。

ラベル:外国映画 映画館
posted by かしこん at 19:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 movie | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ラビット・ホール/RABBIT HOLE

 『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』のジョン・キャメロン・ミッチェル監督の新作ということで・・・なんとなく気になってました。 もともとは舞台劇だそうで、確かに会話中心だけど、登場人物たちの表情をしっかりとらえることで映画は多くを語らせており、舞台劇だとは思いませんでした。
 深く傷ついた女がいる。 ニコール・キッドマンが佇んでいる最初のシーンでそれがわかる。 多くは説明がないのだが、そこここに散ばされている事実を拾い集めて、観客はこの一家に起こった悲劇を理解する。

  ラビット・ホール1.jpg メイクに力を入れず、洗いざらしのブラウスを着てばかり。 それでも十分美しいのです。

 ベッカ(ニコール・キッドマン)は郊外の一軒家に住んでいる専業主婦。 夫のハウィー(アーロン・エッカート)は働いているが、できる限り早く家に帰り妻のそばにいて支えようとするけなげな男。 だが二人は悲劇に対して全く正反対の対処をしている。 ベッカの妹イジー(タミー・ブランチャード)は奔放な性格で考え方が違う姉とはケンカが絶えず、ベッカにとっては母(ダイアン・ウィースト)もまたうまくいかない相手だった。
 母と娘ってなんでこんなにめんどくさいのか、とつい思ってしまう親子関係。 それは答えも決まった形もないからなんだけど、女同士で感情が絡まり合う場合はうまくやるのが難しい、ということでもあるかなー。 自分を育てた相手を否定するってかなりのエネルギーを必要とすることだろうに、ベッカはそうすることでしか生きられなかったのかも。 描きようによってはいくらでもドロドロになる部分を、必要最小限にしたのがよかったと思う。
 ラビット・ホール=うさぎの穴は、『不思議の国のアリス』を引き合いに出すまでもなく“異世界への入り口”。 望んだわけでもないのに違う世界にいきなり連れてこられる・・・理不尽な出来事に遭遇するときとはそういう感じなのでは。
 加害者となってしまった高校生ジェイソン(マイルズ・テラー)にとっても望んではいない世界。 元の世界に戻りたい、もしくはまったく別の世界に行きたいと。

  ラビット・ホール5.jpg だからこそ二人は語りあうしかないのだが。 でもお互いの顔を見合わせ合うことも目を合わせることも少ない。

 初めは何を描いているのか全然わからない絵が、徐々にその姿を現し、パラレルワールドを表現しているとわかるときの感動ときたら!
 SF的発想が人を救う、救いになることがあるというものすごい好例。
 ただ、ベッカが他の誰でもなくジェイソンと心を通わせることで慰めを見い出す、ということが感情的に納得がいかないのだが・・・(彼と会っていたことでハウィーが激怒する気持ちはわかるけど)。 しかしそれが、この物語が美しいポイントだったりするのだ。
 共感できないからといって何も感じないわけではないのよね。
 なんとも複雑な物語。

ラベル:外国映画 映画館
posted by かしこん at 07:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 movie | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

50/50 フィフティ・フィフティ/50/50

 27歳で、がんと宣告されたらどうする?、を、できるだけ笑い飛ばそうと語る映画というだけで好感が持てる。 日本の映画はこういう題材だとどうしてもお涙頂戴で重苦しい真面目一辺倒になるからあまり好きじゃないのよね。
 ラジオ局に働く、地味でまじめな性格のアダム(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)は突然腰に痛みを感じたので病院へ行くと、脊髄神経に腫瘍ができていることがわかりがんの宣告を受ける。 五年後の生存率50%。 酒もたばこもやらないのに、人に迷惑かけて生きてきたわけでもないのに、なんで? が、地味な性格ゆえにその驚きが怒りになるまで時間がかかる(というか、そこで怒っても仕方がないとか思ってしまって自分の感情に蓋をする)。 そんなテンション低めのキャラクターがジョセフ・ゴードン=レヴィットによく似合う〜。
 病気を特別視せずに向き合おうと思うアダム。 しかし周囲の人間はそんなアダムに腫れものに触るように接し、病気前と態度が変わらないのは仕事仲間でもあり悪友のカイル(セス・ローゲン)だけ。 そしてアダムの闘病生活が始まるが・・・という話。

  5050-1.jpg セス・ローゲンとウィル・フェレルの違いがわからない・・・。

 「50%! すげー高いじゃん! カジノなら買ったも同然!」とはしゃぐカイルは「がんだってこと利用してナンパしようぜ!」と女癖の悪さを常々発揮、アダムを苦笑させる。 『ピザボーイ』に続きまたしても“若い男二人のアホ会話”が繰り広げられており・・・二十代ってそんなもんですか?、とあきれる。 まぁ、そんな軽いコメディ調がこの映画の生命線なのですが。

  5050-3.jpg 職場からコーヒーショップへ行く途中で、アダムは病気のことを告げた。 

 そんなバカ話のあと、「わかった、もう会社に戻ろうぜ」 「え、コーヒー買いに来たのに?」 「もう目が覚めたよ」 そんな言葉でカイルがアダムを気遣っているのはわかるのだが、いくら普段通りにしてるのがいいだろうと思ったとしても限度があるからね・・・基本、おバカであることが彼らしい。
 アダムの恋人レイチェル(ブライス・ダラス・ハワード)は「あなたを支えるわ!」と言いながらもプレッシャーで逃げ出すようになってしまい、病気がわかる前からアダムから気持ちが離れていた(もしくはそれほど真剣ではなかった)のは見えていたから「早くアダム、気づけ〜」とイライラ。 彼女にして見たら同情心が芽生えちゃったから見捨てるのもどうかと・・・という気持ちなんだろうけど、それってただ自分が悪者になりたくないだけよね〜。 『ヒアアフター』に続き“自分がかわいいダメ女”がすっかり板についたブライス・ダラス・ハワード、そうじゃない役もやってほしい。
 また、抗がん剤投与仲間のアラン(フィリップ・ベイカー・ホール!)とミッチからマリファナ入りのクッキーをもらい、生と死の狭間に直面する事態をハイの状態でクリアするなど、重いことを描きながらも重たく感じさせずに見せる構成が巧みです。
 今回ジョセフ・ゴードン=レヴィットは堺雅人っぽさ(笑顔だけで喜怒哀楽を表現)だけでなく、佇まいに加瀬亮っぽさまで感じさせ、うまさにニヤニヤしてしまった。 だから余計にセス・ローゲンの粗雑さが気に触りました・・・それはそれでうまいってことなんだろうけど。
 やたら心配するから母親に知らせるのは気が重い、と気に病むアダム、実際に話せば母親(アンジェリカ・ヒューストンです!)は泣きだすしそれを鬱陶しいと思う気持ちもわかるんだけど、セラピストのキャサリン(アナ・ケンドリック)から「夫は認知症でただ一人の息子は連絡してこない、となったらお母さんの話を誰が聞くの?」と言われて自分のことばかり考えていたことを反省したり。 病気が周囲に影響を与えるだけでなくアダムが自分を見つめ直すことになるのもよかったかな。 そして母親は最後まで自分がいちばん大変とかつらいとか泣きごとひとつ言わなかった、さすがです(認知症だという父親もいい味を出していて、現実的ではないのだろうが救われる部分もある)。

  5050-5.jpg 手術中、みんなで待つ。

 病気と付き合うアダムを描きながら、さりげなくも彼を支える周囲の人間すべてを描く映画になっているのがいいところ。 また、関係は“支える−支えられる”と分類されるものがすべてではないというところも。 それぞれの気遣いや思いが見えてくる場面では、思わず涙がじんわり。 “死を受け入れることで生きられる”というような、東洋的と思われがちの考え方も、実は西洋でもありなのだとわかるのは文化的な救いにもなるかと。 どんなところにも希望はある、と思えます。
 何故かエンドロールはパールジャム。 それもまたよし。

ラベル:外国映画 映画館
posted by かしこん at 04:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 movie | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする