2011年11月04日

夢売るふたり

 西川美和監督最新作ということで。 でもシネリーブル神戸での上映ではなかったので(神戸国際松竹でした)、時間の調整が大変(レイトショーもなければポイントサービスもないもの)。 でも、思えば『ゆれる』は今はなきシネカノン神戸で見たし、『ディア・ドクター』がたまたまシネリーブル神戸だけだったんですけどね。 そういう意味では、映画館を渡り歩く正しい小規模単館系映画路線を守っているわけですが。
 でも西川監督の評価はどんどん高まっているので予算がつくのか役者さんが賛同しやすい環境なのか、豪華キャストにどんどんなっていくのも楽しいものです(今回もチョイ役ですが香川照之が出ていて、どうも彼が出るだけで笑ってしまうあたしでした)。

  夢売るふたりポスター.jpg 夫婦で結婚詐欺。 人間最大の謎は、男と女

 東京の下町で小さな小料理屋(居酒屋?)を営む貫也(阿部サダヲ)と妻の里子(松たか子)はいそがしいながらも充実した幸せな日々を送っていた、貫也の過失がもとで店が全焼するまでは。 やさぐれる貫也に、もう一度頑張って店を持とうと盛り立てる里子だが、貫也のある過ちが里子にばれ、それをきっかけに結婚詐欺で新しい店の開店資金を集めようと思いつく・・・という話。
 男ってバカですね、女って怖いですね。 そんな一言で終わってしまうと言われればその通りではあるのですが・・・その過程には様々なものがあるのですよ、という例というか、愛し合うが故にただ愛を語り合っているだけではすまない、“生活”というものを挟んでしまった関係性がつくるどうしようもない溝。 うまくいっていれば気づかない振りができることにも、正面から向き合わないといけない恐怖。 普通の日常なんて、実はないんじゃないか・・・と思わされます。

  夢売るふたり04.jpg ダメ系な夫としっかり者の妻、という図式も・・・。
 特筆すべきは、やはりコメディではない阿部サダヲ! ちょっと笑わせにかかるシーンもありますが、基本的に二枚目路線でいくのが素晴らしいのです。 そしてもう、松たか子には自分をきれいに見せようという気持ちがかけらもなくて、その気概はミシェル・ウィリアムスばり。 鈴木砂羽もいい役でした(「ねえさん!」と声援を送りたい感じ)。
 つくづく、女性とは感情の生き物だなぁ、と(理性がないという意味ではありません)。
 脳の構造上、女性は過去の出来事を思い出すときに一緒に感情も思い出してしまうけれど、男性脳は出来事を事実としてしか思い出さない(感情は思い出さない)というこの絶対的な違いはどうしようもないですよね!(勿論、個人差はありますけれども。そして性同一性障害や半陰陽などを考えるといろいろと大変なので、あえて<男と女>と単純化して書くことをお許しいただきたい)。 そしてあたしは一応性別は女なので・・・男の人よりは女の人のほうが共感しやすいです。

  夢売るふたり03.jpg だましにかかっている夫の姿を・・・

  近くで見守る(?)妻。 夢売るふたり11.jpg 怖い。
 とはいえ、結婚詐欺に引っかかってしまう女性の気持ちもわかるし、自分を責める代わりに相手を怨む気持ちや、引っかかった自分が悪い・ま、いい夢を見たと淡々と事実を受け入れる気持ちもわかる。 そして自分から言い出しておいて他の女性と付き合う貫也への嫉妬に苦しむ里子の気持ちも。
 でも実は基本的に、貫也くんは料理人としての腕はいいのかもしれないけれどなにか本質的な資質に欠けているような気がする(火事を出した原因とか、手入れを怠らない包丁に対するちょっと杜撰な扱いとか)。 貫也の性格などよりも、そちらの方が気になりました(でもそれは愛がないからであろう)。
 そしてこれは映画の中ではそれほど大きく扱われてはいないのだけれど、<家族>というものへの考え方・受け止め方・憧れのようなものについても。 愛があって、献身的で、それでも子供がいなければやはり妻として失格とみなされるのか? そう見るのは他の誰でもなく自分自身だったりするのだが、なんだかそういう呪縛が苦しかったです。
 女って一生そういうものから逃れられないわけ?

  夢売るふたり06.jpg この鶴瓶さんの使い方はずるいわ・・・。 ほぼ出オチというか、いろいろ説明しなきゃいけないことをその存在感で語らせてるではないですか。

 見る側によってどうとでも取れるラストシーンはこれまた観客として試されている気分ですが(それでも、『ゆれる』よりはわかりやすいというか、後味は微妙だけどよいような・・・)、生活を前にして強くなれる女は、やはりすごいと思う。
 男性は一体女性にどのような夢(理想)を求めているのだろうか。
 ふと、そんなことが気になってしまいました。

ラベル:映画館 日本映画
posted by かしこん at 09:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 movie | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

スクリーム4:ネクスト・ジェネレーション/SCREAM4

 あぁ、なんで見ちゃったんだろ・・・『スクリーム』シリーズは家で見るのが王道だろ、ということに見終わってから気づいた(遅い)。 とはいえ3作目まで全部見ているのですよね、結局。 特に予習復習はしなかったけど、おぼろげな記憶でも大丈夫でした。
 ともかく、悲劇から10年後、シドニー(ネーヴ・キャンベル)は被害者たる自分の過去を乗り越えてあの町に帰ってきた。 シドニーの姪・ジル(エマ・ロバーツ)は高校生になっていて彼女たちの友人関係はかつての自分の過去を髣髴とさせる。 デューイ(デヴィッド・アークエット)は保安官になっており、ゲイル(コートニー・コックス)との結婚生活はなんとか今も続いているがかつての華やかさを忘れられないゲイルは鬱屈した日々を送っていた。
 そして、まためぐるあの日。 惨劇の幕はまたも切って落とされる。

  スクリーム4−1.jpg 結局、このビジュアルだけなんだよな・・・。

 『スクリーム』シリーズ自体これまでのホラー映画のパロディというかパスティーシュという立場から出発したわけで、それがセルフパロディの域に達するところまで来た、ということに妙な感慨を得たりするわけなんですが。 メインキャストのみなさん勢揃いなこともうれしくもあり、時間の流れを感じさせられちゃったり(シドニー老けた!、的な)。
 でも冒頭からそこそこ見覚えのある若いスターたちがぼこぼこ死んでいくお約束はそのまま(『新ビバヒル』のアニーだけじゃなく、クリスティン・ベルやアンナ・パキンまでいてびっくり!)。 しかし電話の声のいう言葉は、どんどんぞんざいに、趣も身も蓋もなくなっていく。
 ふと、劣化コピー、という言葉が浮かぶ。
 模倣犯は所詮模倣犯、ということか。
 例によって高校の映画サークルのメンバーが登場し(必ずマニアがいるのである)、今回論議されるのは“リメイクの法則”。

  スクリーム4ポスター.jpg 新たなゲーム、新たなルール 絶叫は、生まれ変わる―

 「先が読めない」がウリとはいえ、皆殺し大作戦になっていけば生き残った者の中に犯人はいるわけで(ときには死んだと思われていた中に犯人はいますが)、それにシリーズ三作目までで反則ギリギリのことをやってきたので、今回は正直意外性はない(けれど、登場する誰もが最初からあやしいと感じさせる演出はそれはそれで面白い)。 「あぁ、やっぱり・・・」という感じで。
 しかも保安官のデヴィッド・アークエットのとぼけた顔のせいなのか、どうも映画に緊迫感がない(のですみません、ちょっと寝ちゃった・・・)。 シドニーとゲイルの関係もいつの間に和解した?、みたいな、多分同じ被害に巻き込まれた者同士としての仲間意識が彼女たちを歩み寄らせたのだと思うんだけど、そのあたりの描写がちょっと足りないのが昔から見てきた者としては物足りないかな〜。
 それにしても、ホラー映画の裏テーマともいえる「いい気になっている若い者は痛い目に遭う」をここまで徹底させたやつもそうないかも・・・。 そう考えるとホラー映画とは大人からの若者への教訓なのか?(今更ですが)
 『ソウ』はほんとにシリーズを終えたようなので、ハロウィン時期狙いでまた新たなホラー映画は作り続けられるのでしょうが、『スクリーム』に関してはもう終わった、という気がする。 これはおまけ、もしくは番外編だ(というか、もう続けようがない感じ)。
 まぁ、シドニーが自分の人生を取り戻せた、と感じてくれたらそれでいい。

  スクリーム4あめ.jpg 入場者特典、フェイスマスク柄の金太郎飴。
 まぁ面白いですけど、こんなのを一人一個もらってどうしろと・・・。

ラベル:映画館 外国映画
posted by かしこん at 04:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 movie | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする