予告編以上ということもなく、予告編未満ということもなく・・・なんだかちょっと残念というか物足りない映画になってしまったかも・・・期待しすぎ?
冒頭、専門業者に捕獲されるチンパンジーたちの姿は、一作目『猿の惑星』で墜落した宇宙飛行士(チャールトン・ヘストン)が目撃してしまった猿による人間狩りのシーンへのオマージュ? 勿論こっちの方がスピード感ありまくりですが。
ジェネシス社で働く研究者のウィル(ジェームズ・フランコ)はチンパンジーを実験材料にアルツハイマーの特効薬を見つけ出そうとしていた。 ところが成功個体が暴れだし、射殺される事故が起きる。 実験は頓挫されたように思われたが、射殺された雌のチンパンジーは子供を産んでいた(子供を守るために暴れたのだ)。
処分しろ、という会社の命令に素直に従えず、チンパンジーの赤ん坊を自宅に持ち帰ったウィルはアルツハイマーが進行中の父(ジョン・リスゴー)が赤ん坊を見て心を奪われたのを知り、いつしか情が移った彼は赤ん坊に<シーザー>と名付けて三人家族のように暮らし始めるのだが・・・という話。
ま、続くのは予想通りの展開であります。 ただ、疑似家族になっていく過程が非常に心地よく、それにも終わりが来るとわかっているから余計に切なくもあり、成長し続けるチンパンジーと一緒に暮らすことの意味を本気で考えていないウィルの態度に腹が立つのである。
確かにシーザーは表情豊かで・・・でもこちら側はチンパンジーという生き物を動物園などで直に見たことがあるわけで、やはり拭いきれぬ違和感は「所詮CGの産物なんだよな〜」と観客の気持ちを醒めさせてしまう。 『キングコング』(PJ版)ではキングコングは“ありえざる生き物”だったがためにどう表現されようとも不自然さは感じなかったのだが・・・モーションキャプチャー技術、進歩しすぎてる?
問題を起こし、霊長類保護センターのようなところに収容されてしまうシーザー。
そこで出会うモーリスという名のオランウータン(彼はサーカスで飼われていたらしく手話ができるためシーザーと最初に意思疎通可能に)が、<森の賢者>のキャッチフレーズにふさわしく孤高の存在でかっこいい! ここにはマウンテンゴリラもいるし、一作目『猿の惑星』での支配者としての霊長類の多様性をここで説明しているわけか。
どことなく弱々しい雌のチンパンジーの名前がコーネリアだったりして、もしやここの血縁がコーネリアス博士につながるの?!、と密かに盛り上がる。
理不尽な暴力という存在を明確に知ることでシーザーの心は変わったのか、それとも単純に「やられたからやりかえせ」なのか、そこの考え方で“これは人類への警鐘”というコピーにもかかわる部分になるんだけど、あえてなのかそこはさらっとというか、説明はつけられていなかった(というかこの映画自体106分だし、さらっとしてるんですがね。 しっかりやったら2時間半はいきそうなのに)。
しかし、一作目につなげるためには言葉を獲得しなければならず、そのためにはチンパンジーの発声器官の発達が必要なんじゃないの? そこは世代を重ねることでの進化?、と考えていたら一瞬で解決したので思わず失笑(すみません、多分そこは感動するところだったのだと思いますが・・・)。
<人間ではない存在が高い知能を持つ故のかなしみ>というものを、ディーン・R・クーンツの『ウォッチャーズ』であたしは15年以上前に体験済みであった(あれにはひどく泣きました・・・)。
だからシーザーの苦悩があまり胸に迫らない。 『ウォッチャーズ』のアインシュタインとアウトサイダーがあくまで1対1、孤独であったのに対して、シーザーにはのちに同程度の知能を有する(多分、それでも彼が最も高い知能の持ち主なのではあるのだが)仲間を得るのだから。
寂しくはなかろう、むしろしあわせかもしれない。
なればこそ、シーザーを失ったウィルの孤独をもっと際立たせてほしかったのだが・・・。
『ミルク』のときが、ゲイ役のときがいちばんかっこいいとはどういうことだ!
エンドロールはパンデミックが世界規模で起こるシミュレーション画像。
それも一作目へとつなげるサービスだと思うけど、まだ足りない気もするのよね・・・。
もう一回ちゃんと『猿の惑星』シリーズを一から見直したくなったかも。