休日出勤なのだから定時でガツンと帰るぞ!、と思ってはいてもなかなかそうはいかないもので。 なのでシネ・リーブル神戸まで走る走る(いや、時間に間に合うことはわかっていたけどここは整理券番号順の入場なので)。 なのに息を切らして映画館に到着すれば、なんか静かだし、人少ないし!
上映20分前なのに8番ってどういうこと?
「・・・意外にも、空いてるんですか?」
「はい、本日初日なのですが、朝から空いておりまして・・・」
カウンターのおにーさんとそんなしみじみした受け答え。 東京では連日満席と聞いていたのだけれどなぁ、だいぶ遅れての公開だから観たい人はすでにどこかで観てしまったのだろうか、それともここでの上映は急遽決まったから宣伝告知が十分じゃなかったとか? もったいないなぁ、レディースデイに込むこと期待しよう(あ、15日がリーブルの日で1000円だからかな?)。
12歳のオスカーは母親と二人暮らし。 学校では性質の悪いグループに狙われていて、毎晩アパートの中庭でひとりの時間を過ごす孤独な少年。 ある日、エリと名乗る同年代に見える少女と出会う。 彼女はオスカーの隣の部屋に越してきたのだ。 こうしてオスカーの人生を変える初恋は始まり、同時に町では不可解な殺人事件が続発する。
最近絶好調というか次々に日本に入ってくるスウェーデン映画、凍てついた透明な空気感と陰鬱な空がとにかく美しいです(デジタル上映と銘打っていたせいもあるかもしれない)。 音もなく雪が降り続くシーンから始まるし(でも最初は音声トラブルがあった気配なのよね・・・)。
まず結論、あたしはかなりこの映画にやられました!
これはすごい、ほんとにすごい。
実は原作の『モールス』をずっと前に買っていたんだけど、まだ読んでいない・・・でも結果的に先に映画を観てよかったと思った。 なにしろ説明的なシーンや台詞が一切ないので、さりげないようでいて実はものすごく意味がある場面に出くわすたびにぞくっとなった。
たとえば、オスカーが父親の家に泊まった日。 訪ねてきたある人物を映すだけで何故オスカーの両親が離婚したのか、何故オスカーは大人という存在に心を開かないのかがわかる!(あたしはもっとひどい想像をしてしまい、いい男風の父親に激しい怒りを抱いた)。
見る人によっては「説明不足」と取られかねないですが、逆に多様に解釈可能な余地があるのですよ。
なのになんでこんな邦題つけたんだ・・・せめて『ぼくのエリ』だけでやめておいてくれれば。 特にエリを“少女”と限定してしまうのはミスリードでは・・・。
とにかくオスカーとエリ役の子たちが素晴らしいのです。 特にエリ、状況に応じて大人びたを通り越した「老い」を表情に出したり・・・ワンカット明らかに成人女性の顔になってたところがあったので何人かで演じてるのか?、と思うほど(エンドクレジットではひとりの名前しかなかったので演技力とメイクなのか?)。
二人とも本国でも無名の子役だそうですが末恐ろしい感じがします。
ラジオからブレジネフ書記長の名前が出てきたので1980年ぐらいなのかな?
携帯やネットのない時代だからこそ成り立つ雰囲気もまたいとおしい。
白い雪、暗くなるのが早い空、だからこそ映える光、『サスぺリア2』のようなリアルにダークな血の赤、子供たちの白い肌の美しさ。 映像的な美は数限りなく、北欧への憧れをかきたてられます〜。
それにしても、人間には団体行動は向いていないのだろうか? いじめという名の理不尽な暴力・権力の行使が現実にも一向に減らない事実にそう感じる。 だから否応なく社会性を学ばなければならないのか?
ラスト前は恐ろしい殺戮なのにもかかわらず、直接的描写は少なめかつ美しい!
ある種の爽快感さえ漂い、すべてを吸い込んでしまいそうな美しさをたたえたエリの目に感嘆しつつ戦慄する。 こんなの見ちゃったら、そりゃオスカーはエリのそばを離れられないだろうなぁ。
ここにいて死ぬくらいならば、なにもかも捨ててどこか別の場所へ。 生きることが、生き延びることが人生の目標になるなんて、どれだけ彼らは苦しんだんだろう。
この感覚は多分、自分を否定されたことがある人ならば理解できるはず。
帰り道、ぽろぽろと涙がこぼれた。 オスカーを、エリを、そしてかつての自分を含めた抑圧されてるすべての12歳を思って。
いつまでも引きずる映画にまた出会った。