どどーん、と始まる正当派すぎるナレーションに「教育テレビか?」の疑惑が巻き起こるが、そのイメージを裏切らない硬派なつくりであった。 あまりに真面目すぎて肩の力を抜く場所がわからない。 体調を万全に、さらに予備知識も入れていけばより理解が深まるかと(というかそうしないとつらい)。
一部の水戸藩士と薩摩藩士が謀った井伊直弼の暗殺・桜田門外の変を軸に、「何故そうしなければならなかったのか」と「実行犯たちのその後」をフラッシュバック手法で描く。 最初30分ほどで暗殺事件は起こるので「前フリ長い!」といらだつこともなくすみますが、出てくる人数が多いので・・・テロップで名前が出てきても誰が誰やら。 死罪と斬首の違いは何?(死罪ならば自分で切腹できるということなのかなぁ?)
雪が血に染まる暗殺場面、日本刀で斬り合ってもなかなかすんなり死なないものなんだなぁ、と息が苦しくなってきた。 傷の痛みを引きずりながらそれでも斬り合う彼らの姿に、「彼らは何をしているかの本当の意味がわかっているのだろうか?」と思ってしまうからだ。 そして倒れていくひとりひとりの名前と年齢が出て・・・十代で死んでいく彼らの思いが痛すぎて、そして怒りも湧いてくる。
けれど井伊直弼を悪役と決めつけて納得できるわけもなく(彼の側にも理があると描かれております)。
ただ、討ち取った井伊直弼の首がいかにもつくりもの&重量を感じさせない持ち上げ方だったので一気に醒めてしまった部分もある・・・リアルな生首をつくるのは難しいんでしょうかねぇ。
今年はどうしたんだろうと言うくらい時代劇が多かったけれど、時代考証含めた美術の仕事としてはこれがいちばん規模が大きかったのでは? そしてオールスターキャストだし。 でもあまりに徹底しちゃったせいで地方藩士のお国ことばがよくわからなかったりするのだが。 特に薩摩藩士、「サイゴーサアは」って、え? あ、「西郷さん」か、と一拍遅れて理解。
個人的には生瀬勝久見たさに行ったのに、イメージよりも出番が少なく、さらに死にざまがひどすぎて「えーっ! なにそれ!」と叫びたくなる。 ド迫力の水戸斉昭(北大路欣也)も意外とあっさり退場。
監督はテロを賛美したくないという理由で変を最初の方に持ってきたらしいが、どこかに肩入れしない第三者的な視線でカメラも動いているのか、登場人物の誰一人として感情移入できる相手がいない、というすごいことになっております。
関鉄之介(大沢たかお)は主役だというのにつかめない人である。 事のあとに彼が逃げ続ける意味がよくわからない。 また水戸に妻子がいるのに江戸に妾を囲っているのには「えっ!」だし、妻が事情を聞かれるけれど何も知らないとして釈放されたと仲間にきかされた鉄之介、「妻は農家の生まれなので、正式な届を出していなかったからよかったのでしょう」とあっさり笑顔で言う。 えっ! まぁ、時代が違うからそれが普通なんでしょうけど・・・おまけに妾さんのほうは鉄之介の行き先を教えろと拷問されちゃうんですよ、ひどい話です。 日蔭者は守ってもらえないのね。
ただ話としては現実に見事にリンクしており(力のある外国と事を荒立てないほうがいい派とそこで弱みを見せたら一生つけこまれるぞ派の対立)、結果的にベストタイミングな公開だったと思う。 ただ、かつての彼らはどちらも日本のことを思っての行動だったが、今の日本では妥協派が国を思っているようには決して見えないのが大きな違いではある。
幕末、と今のあたしはわかって見ているが、当時の人々がそんなことを知るわけもなく。 何かが起こるかもしれないとわかっていても具体的な方策ができてないのはそれなりに平和な時期が続いていたからなのか。 だから先の見えなくなった時代にどうにかして光明を見出したいと行動に出るわけで、それがよかったのか悪かったなんて歴史の審判を経てみないとわからないよね・・・。
当時は情報も限られていたし、よくやってたと思う。 だから余計に「今ってなんなの!?」って憤っちゃうのかなぁ。
なんだか、人ってちっぽけだわ。
合理主義が浸透していない日本で、武士道は「情」だったのかなぁ、と感じるところ何度も。 けれど通りすがりの人のためにも命を落としてかまわないというまでの強さは「情」という一言ではすまない気もして。 つまりは「覚悟」ということなのかなぁ。 だから志のために死ぬことができ、志のために生きる人のために命を賭けることができる。
刑場のシーンが長すぎだとも思えるんだけど、この映画の中でそういう様式美をつくったのだと言えないこともないし、なにより省略しないで描くことが散っていった彼らに対する思いやりなのかもしれない。
けれど、何故水戸藩士だけがあんなにもかたくなに急ぎの実行にこだわったのか。
そのあたりがよくわからなかったので、原作も読んでみようかと思っております。